悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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歪な現代社会に日頃から感心がある人にとっては物足りない
キャスティング&自然な演技はいいが、
感情を揺さぶられるシーンは説明会だけ
特に区長のセリフは、
現代社会の不条理さを表現していて感慨深い。
その前後は、
セリフも、
子供や地域住民の人間関係も、
人間と対峙する自然の取り上げ方も浅過ぎて
感情移入できませんでした。
登場しない奥様の事や
芸能事務所の2人とグランピング施設のその後も謎のまま
「あとはご想像にお任せします」
的にバッサリと終わるので、
モヤモヤして消化不良感が残ります。
「ドライブ・マイ・カー」の監督作品として
認知&期待をしてなかったとしても、
これでは高い評価はつける事ができません。
塵の残像
見終わってしばし茫然とし、少し狐につままれたような感覚がありましたが、
わかりやすい伏線も含め、ラストに全体の構造がその姿を現したとき、少し戦慄を覚えるような感覚がありました。
作品は「石橋英子さんライブ・パフォーマンス用サイレント映像『GIFT』の素材となることを念頭に置いて、まず従来手法で一本の映画を作る」プロジェクトの一部として完成されたものという知識はありましたし、インタビューで「『塵』についての映像が撮りたかった」といった監督のコメントも読んでもいましたので、何かイメージビデオ的なものを想像していましたが、想像は全く異なっていました。
「数世代後には地球上にはどこにも人類が住めるところはなくなっている」可能性が日に日に高まっているのは何故なのか?ウクライナ、ガザ、テロ・・・、生存の場所を巡る悲劇・憎しみの連鎖が現代においてもなお繰り返されるのは何故なのか?その問いを巡る答えが、この日本という小さな島国の、森に囲まれた桃源郷のように見える小さな町のミニマムな環境下においても、なお成立しうることに驚きを禁じ得ませんでした。
HANAが出会った○○は、エリセの「ミツバチのささやき」でANAが出会った精霊(=フランケンシュタイン」に重なり、HANAが樹林の中を静かに歩む映像は、タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」で少年兵イヴァンが沼地の樹林を一人銃をもちながら歩くあの奇跡的な冒頭のシーンに重なります。そういえば本作が韻を踏んでいる、これら過去の名作はいずれも、内戦や戦争がその背景として成立している作品です。
バランスが崩壊した後に残る「塵」。
不安な印象を喚起する音楽とともに映し出された映像に刻印されていたのは、その残像でした。
静かな山間の町で・・・
濱口監督は「ハッピーアワー」を観たときからの注目の監督で、
封切が待ち遠しかった作品です。
イントロの林の中の樹々を下から撮り続ける映像は、ヴィム・ヴェンダース監督の「パーフェクトデイ」の主人公平山の夢のシーンを思い出しました。
どちらも禅的・哲学的無言の問いかけ?かと深読みしてしまいました。
話が進んで行く中、町に持ち上がったグランピング計画をきっかけに住民や業者とのいざこざを中心にして話が進んで行くのかと考えていたらそうでは無く、意外でしたね。
結末の代々そこで暮らす巧の娘・花が手負いの鹿に傷つけられてしまったところから、関わるそれぞれの人間の内心と結果を考えてみました。
花は手負いの鹿の危なさをどこまで知っていたのか?
芸能事務所の高橋は花の危険を感じ声を上げようとして、その高橋を止めようとして巧は高橋を抑え込み・・。児童館の先生は悪気無く花を一人で帰宅させてしまい・・。
それぞれが全く悪意無いままに行動していたのに結果は最悪になってしまった。
物事の結果だけ、表面だけを見ていては本質はわからないーーと。
目に見えないところに真実が有る。そう言うことが言いたかったのかしらね?
と考えたりしてます。観る人によって何を感じるかふり幅の広い作品ではないでしょうか。
これで終わりってことないよね~と思っていたら、まさかのEndにちょっと驚きました。
それも濱口監督らしいのでしょうか?
フランス映画
映像などなど良い映画ではありました。
内容としては田舎に住む人とそこへとある施設を作りたい人との対立かと思わせてそれぞれに理由があり
題名の通り悪は存在しないっていう
正義の反対は別の正義みたいな感じ
とにかくラストシーンに疑問を残します
こう言うことなのかなという議論を呼びたいのかなと勘繰ってしまう感じ
あとどう感じるのかは観た人に任せますというノリは好きではないので
いつの日か監督には答え合わせをして欲しいと思いますね〜
邦画版100分サタンタンゴ
恐ろしく長いピントが合わず彩度の低い冬の樹冠を映すオープニング、冗長な薪割りシーン、しゃべらない子供、生気のない住民。
意味不明のブツ切りエンドの後これは何だと考えたところ、ふと『サタンタンゴ』を思い出した。
もし「あの」『サタンタンゴ』に意図して似せたのであれば、室内劇が中心になる中盤以降は特徴が失われ映画としての売りがなくなってしまったのかもしれない。
主人公が酒を断らず薪ストーブの前で30分間晩酌をするシーンがあれば、あと2点追加してもよかった。
心を揺さぶる物語 確かにそうなのですが…
面白かった。心を揺さぶられました。確かに無関係ではいられないような気にもなってきました。でも、この感情はどこからくるのでしょうか?
美男も美女も登場しない。舞台の田舎町の登場人物全員が、どこにでもいそうな人たちばかりで、演技はとっても自然で、観ている自分自身が映像の町に溶け込んでしまう感じがした。本来異物であるはずの、グランピング建設の説明会の男女社員でさえ、最初こそ異物感はあったものの、やがて見た目も、思考も、感情の動きさえどこにでもいそうな善良な日本人代表みたいになってしまい、普通に感情移入できてしまう。そうい観点から考えると無関係ではいられないし、心を揺さぶられる物語となるのである。
ところがである。初めから、控えめな異彩を放って若干分かりにくい感を出していた、主人公なのだが、最後の場面で物凄い異彩を放ち、観客はまったく感情移入できなくなる。なんだよと言って倒れた、グランピング説明の男性社員のように。
監督のインタビューに自然災害は最悪のできごとだが、自然災害を人は悪とは呼ばないという意味の話があった。そうであるなら、悪は存在しないとは正鵠を突いた題名ということになる。自然を陶冶し、人間に落とし込むとこの映画のような表現になるのだろうと、私は強いて解釈し、もやもや感を残して、寝ることにする。
明日の朝には忘れていることを節に願うのみである。もやもや…
税金に頼る事業の胡散臭さ
ここの解説を読んだが、逆説的と書いてて笑った。逆説ではない。作中鹿の話が出てくる。追いやられた鹿は何処へ行く?都会の人間は「どこかへ行く」と無責任だ。ここが本質なんだと思う。彼は悪人ではないが、それを悪い事とも思ってない。鹿は比喩であって何にでも当てはまるだろう。日本人をないがしろにした移民問題や、自民党の裏金だってそうだ。
補助金目当てのグランピングにしたって、去年から問題になっている東京都のいわゆるColabo問題と一緒で当事者(映画では村人、Colabo問題では貧困女性自身)は関係なく税金目当ての事業にすぎない。電気代の再エネ賦課金の値段を上げるためのメガソーラーにしたって自然破壊をしているだけだ。でもそこに悪があるわけではない。ただの利己主義だ。個人の価値観、多様性なんて言ってる人で、そのことに疑問を挟むと反発する人達が一番やっかいなのだ。
昨晩食べた食事がまだ胃の中に残っているようなもやもや感。
自然と文明、空気のきれいな田舎とごみごみした都会、素朴な地元民と補助金目当ての事業者。前者が善であり後者が悪だと一般的には思いがち。
山村の風景から都会の風景に一瞬で切り替わる場面があり、正直都会の風景を不快に思った。これは明らかに監督が意図的に観客にそう見せようとしていると感じた。だけど、田舎が善であり都会が悪だなどとは単純には言えない。それぞれそこで暮らす人々にも事情があったりする。この世は単純な善悪二元論では説明できない。本作は二元論にとらわれたら物事の本質を見誤るということを描きたいんだろうかと鑑賞しながら思ってたら、あのラスト。いまだにその意味は分からない。いや、これこそが表面的に物事を見てはならないという本作のメッセージなのか。
便利屋として娘と二人で暮らしている巧は自然の知識が豊富でこの田舎町では皆から信頼されている頼りになる存在。
事業者との交渉でも彼らに世話を焼いたりしてお互いの理解を深めようとする。不愛想ではあるが話の分かる男だ。
しかし終盤のある行動で彼という人間が分からなくなる。どう考えてもこれまでの彼の姿からは想像もできない行動をとるのだ。結果的には大事にならずに済んだが一歩間違えれば殺人である。殺人未遂の罪は免れないだろう。鑑賞者がとても想像しなかった彼の行動は何だったのか。
巧から手負いのシカは人を襲うことがあると聞いていた高橋は花を守るために駆け寄ろうとする。それはだれが見ても当然の行為だ。それを父親の巧が彼を殺す勢いで止めようとする。花の運命は自然に任せるべきだとでも言いたいのか。それともあれこそが人を表面的に見た目だけで判断できるものでないということをこの映画は言いたかったんだろうか。
中盤までは興味深く見れた。地元住民と新参者の事業者たちとの交流、経営者に言われるがままの事業者側の高橋達も皆それぞれの人生の悩みを抱えていて、人間として一方だけを描くのではなく地元住民と対等に描かれていて、とても面白く見れた。それがあの結末だから完全な置いてきぼりを食らった。いまだ腑に落ちていない。監督は三回くらい見ればわかるかもなんて言うけどそこまで金も暇もない。
誰が見ても納得できない展開をあえて描いたのは意図的なんだろうけど、この腑に落ちないという感覚を与えるのが監督の意図なんだろうか。皆さん大いに腑に落ちないでいてこの作品に心を縛られていてくださいと。意地悪な作品だなと思う。納得ができないこのもやもや感自体が監督の術中にはまってるということなのだろうか。
確かにわかりやすい映画はつまらない、鑑賞後いろいろ考えさせてくれる作品の方が好きなんだけど、これはただわからないという気持ちしか残らない。セブンやミスト見たときみたいなラストがショッキングすぎて、それまでの話が吹っ飛んでしまう映画はあったけど、これはただもやもやした気持ちが残っただけ。本作のラストが腑に落ちる日が来るといいんだけど。とりあえず胃薬飲むか。
物語りきる撮り手の責任。
広げた風呂敷を畳む責任が撮り手にはある。
畳まず寧ろ尚広げて幕、なんて。
序盤から読めない展開で、
遂に意外なキャラに焦点が当たり、これは!と乗った。
中盤の薪のシーンのアレで突如幕なら傑作だったろう。
以後全部不要。
繰り返す。
注目の監督よ、物語りきる責任の再考を。
なぜ殺したか?
薪割りを初めてなにのうまくやったからむかついたから。が理由ですね、、
主人公はadhdで、
そんなことで怒るの?ってことで怒りますから。
そして感情をその場でうまく表現できないから、あとで爆発する。
時間を守れないとか、お金の計算が苦手とかもありますが、adhdについての理解をもっとすべきだと。それがないと孤独になっていくから、、
タイトルの意味は、鹿も人も同じってことかなあ。
主人公の車のケツにDHDというプレートがあるんですよ。それでこの映画のテーマが理解できました。
面白いけど分からない
東京近郊の山間部にある町が舞台。
始まって暫くは美しい自然の中の生活が淡々と描かれる。ちょっと退屈になってきた頃に、山にキャンプ場を作る計画を企業が持ってきて話が動き始める。
計画通りにキャンプ場を作りたい企業と、不安にかられる町の住人、間に立たされる担当の社員2人。
ここからの展開が面白い。特に会話が秀悦だ。また、少し間延びした感じの編集が不安感や不信感を増していく。
展開や人物像が多層的になって、惹きつけられていく。
しかし、訪れるラストシーン。その意味が僕には分からなかった。良い悪い訳ではなく、自分の理解できる範疇を超えてしまった。意味が知りたい。興味が尽きない。
それも含めて、かなり面白かった一本。
森に見られてるって事か…?
#悪は存在しない
長野県水挽町。 自然豊かな小さな町。 小学生の娘・花(西川玲)とふ...
長野県水挽町。
自然豊かな小さな町。
小学生の娘・花(西川玲)とふたりで暮らす巧(大美賀均)は、その町の雑用係。
自称「便利屋」だ。
そんなある日、巧らが暮らす集落にグランピング施設建設の話が持ち上がる。
グランピングとは、コテージなどを利用したキャンプは難しいが自然を満喫したい都会人向けの施設。
計画を立ち上げたのは、都会の芸能事務所。
コロナ禍での補助金目的が透けて見える。
案の定、説明会では、集落側からの質問にまともに答えられない。
住民側の心配事は、汚水浄化施設の能力不足と管理者不足。
とちらも、土地の自然を破壊しかねず、住民にとっては生死にかかわる問題なのだ。
だが、事務所側は・・・
というところからはじまる物語だが、映画は建設計画説明会のエピソードまでに巧と花を通して、山村の自然と暮らしを映し出していきます。
石橋英子の音楽、北川喜雄のキャメラが素晴らしい。
学校からの帰り道、花と巧は小鹿の死骸、骨となった死骸を見つける。
ははん・・・と、ここで察しが良ければ、後半の展開のうちの重要な事柄には気づくだろう。
小鹿は花だろうな、と。
さて、説明会を終えて都会へ戻った事務所のふたり。
社長に状況を説明すると、不足と指摘された管理人に巧を雇えばいいんじゃないか、と安易な解決策が提案され、早速、それを巧に持ち掛けようと再び町へ向かう。
その道中、自動車の中で、都会人の薄っぺらさが浮き彫りにされる。
このエピソード、会話が面白い。
ま、ちょっと身に覚えがあることも・・・
で、その後は、一気に物語の終盤へなだれ込むのだが、主題的には少々浅いかなぁ。
自然に寄り添い、自然とともに生きている人々、その代表が巧で、彼はとにかく土地の自然に詳しい。
が、鹿の跳躍力は凄いと認めていながらも、鹿はひとを襲わない、と、どこか「自然はこんなものだ」と無意識のうちに思っている。
それが、終盤、手ひどいしっぺ返しを食らう。
都会人は都会人で、田舎での暮らしはこんなもんだ、ひとびとはこんなもんだ、と安直に考えている。
それが、手ひどいしっぺ返しを食らう。
ひっぺ返しに予感はない。
前兆とか伏線とかはない(ま、映画だから、あるのはあるんだけど)。
突然のしっぺ返し。
自然から人へならば、その突然感は納得できるだろうが、人から人へならば、その突然感は納得できないかもしれない。
しかし、しっぺ返しとは、そんなもんだ。
ま、「突然」を「神」と結びつけるとヨーロッパ映画的になるだろうが、何と結びつけるかは観客に委ねられるように作られている。
個人的には、
村人たちから発せられる都会人への薄っぺらへの嫌悪のかたまりをベースにして、喪失の哀しみと、信頼していた自然からのしっぺ返し(裏切りともいえる)への絶望などが綯交ぜになったゆえの「突然」だった・・・
と受け取りました。
とても、哲学的な映画で、この映画を観た人と話してみたくなる。
ミニシアターで鑑賞、珍しく20代、30代の若い人が多くて、場内いつになく活気を感じました。
「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹さん原作にしてはとても分かりやすい、観やすい映画でした。
この映画も、不穏なものを感じながらも、出だしから流れに乗って、没入できました。
で、ラスト。
日本映画での置いてきぼりは、なかなかなかったので、おー、私は、巧さんのこと何もわかっていなかったのね、と衝撃を受けました。
いやいや、でも、巧さん。
父親として見た時、たいがいにせーよと思うこと、花ちゃんにめちゃめちゃしてますよ。
自然の使者のような顔して、他者を断罪していいのか?レベルの。
もし、これがSF映画で、実は巧さん、アンドロイドでしたーというオチがあった方が、私は救われた気がします。
どんな大義名分があっても、話し合いもなく問答無用で、異なる価値観の人を排除する人間が増えていくなら、私は自分を表現することが怖くなります。
けれど、同時に、その中でも、自分らしく生きていきたいなと強く思いました。
この映画を観た後、ロビーで15分ほど、隣席の大学生と感想を共有しました。
私のザワザワした気持ちも落ち着きました。
濱口監督の作品をいくつか勧められたので、それらを今度観ようと思います。
悪は存在しない
ラストシーンが意味不明。どう解釈したらいいのか? 映画みてしばらくたっても、心に残るというのか? 忘れられないというのか? こんな映画はあまりない。何だったー そしてすっきりしない
映像は美しく、詩的ではありました。
濱口監督作品は難解そのものだ!余韻だ!
自然と人間と動物がテーマかなぁ?
冒頭の森の木々でカメラが下から天へ撮りながら暗い音楽で永く画面の下から上ねへ流れ段々と枯れ枝が増える。スリラー的な展開を予想させる。また、車の後窓からのシーンも悪いことをイメージさせる。そして、上流から下流への水や人間の自然破壊に折り合いをつける生活、自然の恵みを享受するか鹿と足跡、手負いの鹿は人を襲うという前振り。最後の息づかいと闇に森シーン。きっと娘の花ちゃんは助かったに違いないとカメラが唯一上から下へ流れた。余韻が凄い、或いははて、なんじゃ!と思う方もあろう!
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