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不倫相手の事故死をきっかけに夫に不倫がバレたので離婚した。ひと言で言えばそういう話だ。
主人公の綿子と木村はダブル不倫、そもそも綿子と夫の文則の関係も不倫始まり(と確かさらっと言っていた)、実は文則も過去に不倫と、不倫だらけの話なので、フィクションだろうが不倫をするやつの内心なんか見たくないという人は見ない方がよい。
そういう内容なので後味はよくないが、門脇麦と田村健太郎の絶妙にリアルな冷めた夫婦の空気感を「こんな感じありそう、あるある」と覗き見するような気分で楽しめる(すみません)ことは請け合いだ。会話の言葉遣いやリズムも妙に生々しい。
本作の加藤拓也監督(30歳、若い)が書いた舞台劇「綿子はもつれる」が物語のベースになっている。観劇した方のレビューで読める範囲で舞台版のあらすじを見たが、設定や基本的な話の流れはある程度共通である一方、構成はかなり変えられているようだ。
本作の文則役で登場した田村健太郎が舞台にもキャスティングされているが、舞台ではなんと綿子の息子の中学生を演じている。文則のモラハラの気配と雰囲気だけの誠意が混じった感じがとてもいい匙加減で、ハマり役だと思っていたので驚いた。あの喋り方の癖や、墓場の綿子に電話して同行者を確認する場面のねちっこさなど、観ているだけで生理的にうわあ……とくる感じの出し方が上手い。
作品サイトには、監督の言葉として「この作品では当事者性を感じることができない、またはしないで、向き合うことを諦めている一人のもつれが描かれています。」とある。
確かに、綿子は小さな岐路に立つたびに、問題の本質に向き合うことから逃げているようにも見えた。
彼女には、夫の母親と彼の別れた妻との息子が家の鍵を持っていて勝手に上がり込んでくる環境など、同情する点もある。
その状態を最近まで解決出来なかった夫と、話し合いくらいはしたのだろう。だが、愛想を尽かして別れるといった二人の関係の範囲で解決するような手段は取らず、木村との不倫で気持ちを紛らわせている。
不倫という大元の原因に目を瞑れば、愛する人を死によって突然失ったのに誰にも感情をさらけ出せない、という状況の苦しさも想像はつく。しかし彼女は、その木村が車に轢かれたのに、夫に不倫がバレては困るので、119番への通報を途中でやめてその場を立ち去った(つまり反射的に木村よりも夫との生活を守ろうとした。あるいは自分の過ちを隠すことを木村の命より優先した)。それでいながら木村への未練から指輪が捨てられず、かといって夫に見られてはまずいものなのに管理も疎かだったため、結局木村の父親と妻、文則にも不倫がバレてしまった。
一方で、監督がテーマを語る言葉がいくらかっこよさげでも、それを表現するためのモチーフが不倫で、なおかつ主人公が何かを発見したり変わったりすることのないまま終わるのでは、世に数多ある不倫体験談と痴話喧嘩をただ見せられたような気持ちになってしまう。その辺に転がっている話よりドラマっぽいのは木村の死んだタイミングだけ。
確かに、綿子は木村の死によって予期せぬ感情に晒されたり、真実を知った木村の父や妻と対峙したりすることになったが、全て受け身だ。ラストも不倫バレして逆ギレからの悶着がこじれた勢いで離婚。ここにも主体性を感じない。
綿子が夫に新しい財布をもらって、指輪を収納した財布の中身を適当にひっくり返した時に「これはあの指輪が夫の手に渡って修羅場だな」とわくわく……もといドキドキしたり、木村の父が「依子さんに言わないというのも……」と言い出したところで「これは妻との修羅場が来る」とハラハラしたりはした。だが、そういう昼ドラ(絶滅)的面白さだけを期待して観に来たわけではないのだ。予告の何か深い話っぽい雰囲気に期待していたのだが、不倫する人たちの自業自得感が目につきすぎてしまった。
また、木村の父が、車に轢かれた瀕死の飼い犬を楽にしようと首を絞めた、という話がどぎつかったが、木村も彼の父も他の描写が少ないので、その話が物語上何を意味するのかもよく分からず、ただ悪目立ちしたような感じだった。死んだ夫の不倫相手に、冷静にセックスの話をする木村の妻との会話は、そこだけ非現実的で浮いていた。
映画館で私と同じ列の5席ほど離れたところに座っていた60代くらいと思われる一人客の男性は、中盤ごろからこちらに聞こえてくるほどの声で「別れたらええねや……はよ別れや……」とつぶやき続け、離婚が決まったら静かになった。