せかいのおきくのレビュー・感想・評価
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幕末サスティナビリティ
モノクロ映像である理由は、うんこがたくさん映るから?そう勘繰りたくなるほど、うんこの描写がたくさんある。でも、しっかりカラーのうんこも出てくる。
主要キャラの職業が汚穢(おわい)屋なのでそうなるのだが、何故わざわざそういう設定にしたかというと、本作が「YOIHI PROJECT」の映画作品第一弾だからだ。
このプロジェクトの主旨は、「気鋭の日本映画製作チームと世界の自然科学研究者が協力して、様々な現代の『良い日』に生きる人間の物語を創り、『映画』で伝えていく」「地球環境を守るために考えたい課題を誰もが共感できる物語として描」くことだそうだ(「YOIHI PROJECT」ホームページより)。他にも、ドキュメンタリー映画や絵本などを世に送り出している。
おきくの受難とかわいい恋物語は、こういったプロジェクトのテーマをエンタメに昇華するための溶媒のようなものなのだろう。
ただ、設定上仕方ないもののちょっとうんこ描写が多すぎるので、人によっては嫌悪感が強いかもしれない。
ちなみにあのうんこの材料は主にダンボールで、場面によってはお麩を入れたり、廃棄される予定だった食材を入れたりしたそうだ。
鑑賞中はそんなことを知らず、おきくのドラマという単純な理解で観ていたが、それでも映像を追っていると確かに当時がその時代なりの循環型社会だったことがよくわかる。排泄物を、代金を払って回収し川で運び、肥料として売る。中次の最初の生業として、古紙回収の仕事も出てきた。
しかし、循環させることは素晴らしいのだが、やはり当時の仕組みは大変だ。裕福な家はいざ知らず、長屋のような住まいのトイレは、ちょっと激しい雨が降ればたちまちあふれてしまう。汚穢屋が排泄物を運べば当然道すがら臭う。不衛生になることが多く、健康に悪い。現代に生きる人間としては、改めて水洗トイレの偉大さを思う、といった感じである。
だが、当時の汚穢屋はいわゆるエッセンシャルワーカーだ。矢亮が言っていたように、人々の生活は彼らがいなければ成り立たない。欠かせない職なのに、実入りも社会的立場も恵まれない。そういった傾向は、現代にも残っている気がする。
おきくの物語に目を移すと、受難の場面は非情だが、その場面以外は全体にほっこり感が漂う。声を失った後も、悲しみや重苦しさに支配され続けるわけではない。
彼女の父親である源兵衛を佐藤浩市が、中次を実の息子の寛一郎が演じていることで、おきくは中次に父親の面影を見たのかもしれないというニュアンスも感じられる。あらためて、寛一郎は父親によく似ているな、と思った。
黒木華は時代劇がよく似合う。くっきりと派手な美しさではなく、日本の美人画に描かれるようなシンプルで凛とした美しさが、モノクロの画面によく映えていた。
ところで、最後に矢亮がしきりと「青春だなあ」と言っていたが、青春という単語が現代のような意味合いで使われ出したのは明治時代後期だと言われる。だから矢亮の言い方を聞いて少し不思議な気分になったのだが、脚本はあえてそうしたのではないかと勝手に想像している。
中次と矢亮、おきくが体験した喜怒哀楽は、私たちが現代に生きて感じているものと変わらないのだということ。その共感の橋渡しとして、現代的な言い回しを一言入れたのではないかと解釈した。
せかい
なくてはならないのに人に嫌がられ、下に見られる仕事。
生きていくために働いて、できないからと読み書きを覚えようとして、まっすぐ世界を見つめる中次がとてもかっこよかったです。
中次のようなまっすぐな人にはとても憧れます。
矢亮は、口ばかりで、気持ちは強いけれど心が弱い、と中次に言われていたけれど、泥に塗れて地を張って生きている姿はかっこ悪くも、かっこよく見えました。
なぜ、一瞬だけカラーになったのだろう。
カラーになった瞬間が、中次の矢亮に対しての尊敬が、少し軽蔑に変わった瞬間の出来事だったからなのかな?
おきくが"ちゅうじ"って半紙に書いていて、その姿がとても可愛かったなぁ。私も、小学生の時にノートに好きな人の名前を書いてにこにこしたなぁ。
時代が違えば暮らしも違うけれど、人と人との関わりや感情はずっと変わらない。世界の向こうだって。
この作品のおかげで、"せかい"という言葉が私にとってとても意味のある言葉になりました。
貫一郎と佐藤浩一の共演
なんか違和感あったなぁ。家族の話なんかしちゃって。お父さんと比べるとまだまだ息子はひよっこですね。肥溜めを売る仕事。そりゃそうだよなぁ。いつの時代にも誰もやりたくないような仕事を、生活のために必死でやってくれてる人は必ずいて、そーゆー人がいないと生きていけない。辛くても生きていかなければならない。素手で丁寧に肥溜めをすくう姿は、ある意味感動。そりゃ兄ぃと呼んでしまう。しかしなぜあのシーンだけカラー??職業差を超えた友情と恋愛。
おきくの恋心を通じて「四民平等」を静かに訴えかける。
<映画のことば>
なあ、惚れた女ができたら、言ってやんな。
俺は世界で一番お前(めえ)が好きだと。
それ以外の言い回しは、無(ね)えんだよ。
どういう経緯(いきさつ)で、きくは、父親の源兵衛の巻き添えになって(?)、自分も喉を斬られて声を失ってしまうことになったのでしょうか。
本作は、そのことを明示的には描いていないのですけれども。
しかし、父・源右衛門を案じて追いかけてきたきくは、武士同士の因果な対立関係の、いわば巻き添えを食ってしまったということなのだと思います。評論子は。
一方で、社会の下層に生きていた紙屑拾いの中次と、下肥買いの矢亮。
本来であれば彼らはきくとは生きる「世界」が違うはずなのですけれども。たまたま、父・源兵衛が浪人中の身の上で、庶民(町人)と同じ長屋暮らしをしていた故(ゆえ)の出来事ということなのだと思いました。
ときに、江戸は、けっこうな人口稠密な都市だったと聞きますから、廃棄物や糞尿の処理の問題は大都「江戸」の、いわば「都市衛生」という面では、避けて通れなかった問題だったのだろうとも思います。
(三人が最初に出会った「雨宿り」が、お寺の離れになっている厠の軒先だったというのも、おそらくは、そういう含意だったのだろうと了解しました。評論子は。)
士農工商の身分制社会の江戸時代のことですから「職業に貴賤はない」などという発想に乏しく、中次や矢亮のような仕事を生業(なりわい)とした人々は、社会の最下層に位置づけられて、あまり人間扱いされていなかったことは、容易に想像のつくことと思います。
それで、きくとの間に仄(ほの)かな感情が芽生えるという中次の職業の設定が、本作のようなものにされていたのだとも思います。
(現に、雨宿りのついでに、中次と矢亮が立ち去ってから、きくも同じ厠で用を足している。)
そう考えてみると、本作は単に「運には恵まれない若者同士の身分の階層を超えた純粋なロマンスの物語」という評に止まる一本ではなく、身分制社会の無意味さをも、静かに浮き彫りにしていたと言ったら、それは言い過ぎになるでしょうか。
当時の実社会としては、やっぱりきくと中次・矢亮とでは住む「世界」が違うことにはなるのですけれども。
しかし、その「世界」という語が、本作のタイトルでは(武士や僧職の身分にある者が使うとされる漢字表記ではなく、もっぱら庶民が用いるのものとされた)平仮名で表記されているということは、その世界の懸隔を、少しでも埋めようとする意図によるものと、評論子は理解しました。
本作は、地元の映画愛好団体が自主上映(ホール上映)で上映したものの「観逃し」の鑑賞でしたけれども。
その意味では「宿願(?)が叶っての鑑賞」ということで、地元の映画愛好団体が取り上げるに相応しい、充分な佳作であったと思います。
<映画のことば>
「どいつもこいつも、上から食って下から出す。
誰だって、それだけのものさ。どこの大店(おおだな)の旦那衆も。
吉原の花魁(おいらん)も。
穴(けつ)を捲(まく)るときは、みんな一緒なんだよ。
あっ、おきくさんもだぜ。」
「それを言うなよ。」
<映画のことば>
俺たちがいなかったら、江戸なんか、クソまみれじゃねぇか。
(追記)
本作がモノクロームで撮影されているのは、やっぱり、カラーで撮影すると、全編にわたって黄土色が基調になってしまうためでしょうか。
中次が肥桶の中のものを手で掬(すく)うシーンもあったことですし…。
ただ、おそらくは「作り物」だとは思うのですけれども、雨で溢れた次郎兵衛長屋共同の厠の便槽を描写するワンカットだけ、カラーだったように記憶します。
そして、他にも、カラー化されるカットがいくつかあったのですけれども。
その中の一つに、きくが着ている着物の上品な花柄が見てとれるシーンがありました。
貧乏をしていても、うら若いきくには、源兵衛は精一杯のおしゃれをさせていたようです。
そこに、父・源兵衛が娘・きくに注ぐ情愛の深さの一端をを見てとることができたのは、独り評論子だけではなかったことと思います。
(追記)
『リップヴァンウィンクルの花嫁』、近作では『イチケイのカラス』や『法廷遊戯』などに出演し、多彩な演技を見せてくれていた黒木華ですけれども。
本作でも「セリフのない役」(正確に言えば「途中からセリフがなくなる役」?)を、見事に演じていた一本でもあったと思います。
せかいを知らなかった
安政の時代、訳あって浪人となった父松村源兵衛と長屋で暮らすおきく。雨宿りで知り合った、紙くず拾いの中次と汚穢(おわい)屋の矢亮と彼女は親しくなる。中次は臭い臭い言いながらも矢亮の仕事に鞍替えし、二人は一緒に働く。そんな時おきくは、源兵衛を襲った刺客によるケガで声が出せなくなってしまい。
侍をほとんど登場させないで、紙くずや肥を回収し循環させていた時代を描いた物語。声が出せない様子と、モノクロの情景が合っていました。章の終わりに急にカラーになります。やっぱり、アレもカラーに。当時の庶民は世界なんて知りもしなかったんだなあ。「笑うとこ」とか、現代風の演出もあるのが意外です。
腹下し
美術監督原田満生氏から持ち込まれた企画、サーキュラーエコノミーをテーマに作った映画だという。ゆえに、映画の美術や俳優が着ている衣装は、全て廃材や古着をリユースしたものらしく、昼休みスタッフに提供される弁当にいたるまで、名前入りの弁当箱を繰り返し使用するなどしてゴミをなるべく出さないように心がけたのだとか。要するに地球環境にとっても優しい作品なのである。
モノクロのチャプター仕立てになっている本作ではあるが、ご覧になっておわかりのように、この映画には起承転結を伴うストーリー性がほとんどない。じゃあその代わりに何があるのかというと“糞”である。ふーん😒?普通の映画だったら絶体にフレームインを避ける人間の糞尿を執拗に映し出した大変珍しい作品なのだ。何せヒロインである武家の娘おきく(黒木華)が恋する男の職業が、汚穢やと呼ばれる肥え汲み男なのである。
江戸時代当然下水道などない長屋で用を足すには、簡素な囲いをほどこした共同便所を使うしかない。大雨でも続こうものなら肥溜めから糞尿が溢れだすわけで、この汚穢やの皆さんが下水の役割りを担っていたわけである。別に実際に撮さなくてもと個人的には思ったのだが、阪本順治はあえて江戸時代の糞尿がどのように循環していたのかを克明に描き出す。人間のエピソードがむしろオマケに見えるくらい、“糞尿様”を主人公にした超マニアックな演出なのだ。
肛門の別名“菊”を連想させるヒロインの名前もさることながら、おきくは喉を切られて“肥え”ならぬ“声”を失ってしまうのである。口をきけなくなったおきくを元気づける新入りの汚穢や中次を、きくの父ちゃん役佐藤浩市の息子でもある寛一郎が演じている。だが劇中最も気をを吐いていたのは、中次とコンビを組む汚穢やの先輩矢亮役の池松壮亮だ。いくら作り物とはいえ、糞尿がこびりついた肥え桶に躊躇なく素手を突っ込み、丁寧にこそげおとすシーンにはまさに度肝を抜かれた。究極の“汚れ”である。
私はそのシーンだけでお腹が一杯になり、映画を観賞したその日になんと5回も便所に通ったのだが、その他特筆すべき点が見当たらないのである。もしもデヴィッド・ロウリーあたりが本作の監督をつとめたならば、シナリオそのものを円環させるストーリーに仕立て上げたことだろう。「せかいには果てがない」という台詞や超広角レンズを使ったラストシーンだけで、観客に“循環”をイメージさせるのはちと無理があった気がするのだ。“肥え”が“声”となり“恋”の華を咲かせるシナリオ上の演出が、是非とも欲しかったところではある。
白黒で正解
誰もがやりたくない仕事、でもなくてはならない仕事。よくこの職業を取り上げたな。当時の大変さがよくわかって、とても興味深く観れた。全編カラーだったら観れなかったかも。でもあんなふうに船で運んだなんて、現地調達だけでは足りなかったって事ですね。
池松壮亮の矢亮がピッタリだったし、黒木華の中次に恋焦がれるおきくも可愛かった。
役割、役を割る。最後に和尚が、せかいの説明、あっちに行った人がこっちからくる、、、みんなで首を傾げていたのがおかしかった。
撮影で使ったのはホンモノかな⁉️
長屋で暮らす武家育ちのおきくは、下肥買いの矢亮と中次の二人と仲良くなる。やがておきくは悲惨な事件に巻き込まれ、声を失ってしまう・・・‼️美しいモノクロ映像で描かれる、江戸時代に一生懸命生きる人々の息遣いや "臭い" が感じられる秀作‼️突如カラーに変わるシーンが意味不明なのと、男性二人の職業は別なものにできなかったのかなぁ⁉️
これも青春
貧乏長屋を中心に、そこに住むおきくと、肥溜めの汲み取りを共同で行う矢亮と中次が織り成す小さなドラマ。
彼らにとって毎日は過酷だし、汲み取りは臭いし、貧乏長屋では雨で糞が溢れるし、その度に右往左往。
おまけにおきくは、父親が何者かに斬られ、自分も命はとりとめたが声を失う。
だが、彼らは誰も暗くない。矢亮はしょっちゅう、「そこはわらうところだよ」とにだじゃれを言い、中次とおきくは互いにひかれあい、心ときめかせる。
運命には抗えないがそれを楽しんでいる。そんな三人。
彼らのしまいには見せる晴れやかな顔が、それを物語っている。
劇中で長屋の誰かが、「はてなんかないんだよ それが世界だ」とつぶやく。
世界は閉塞していない。常に開かれているんだ。そんなモノクロ映像と時折のカラー映像に、こわばった心が徐々に溶けて、幸せな気分になる。
これも青春、と無意識にささやいている自分がいる。
維新という
イベント後のせかい。ではなく市井の姿が
おきくを軸に描かれる。
僕のような白痴だと
おきくと言えば、皿が何枚?
のおきくになるが、本作は黒木華演じる
味わい深きおきくであった。
ちなみに慌て気味の私はせかいのおきくをきおく
と読み違え、始まりから途中までトンチンカン
だったけどねw
肥溜めが主役ゆえ臭みすら覚えていたぐらいで◎
で、映画視聴後の総括感想はというと
明治維新か倒幕かなんや知らんけど
現代の政府に繋がる変革は臭いモノだらけの繕い話でしかなかったちゅうことですわw
もうええんちゃうかな。アホな爺婆も世界に合わせるんわ🌎
である
オレの役割って何だろう▪▪。
おきくは、和尚の拙い説得に納得して、塾を再開した。オレは何の役割があるんだろう。家庭、仕事▪▪。おわいやはおわいやの役割がある。
あと、あにいは気持ちな強いが心が弱い、は胸にしみました。
バキュームカーって、知ってる?
TOHOシネマズシャンテで「せかいのおきく」を。
電車トラブルで到着が15分程遅れて本編の頭2分位見逃す。私と同時に入場した人3名あり。皆電車遅延の影響かな。
章立ての構成で章の終わりのカットのみカラーになるモノクロ作品。映画は、江戸の終わりに下肥回収を生業とする池松壮亮と寛一郎の二人と武士の娘黒木華の青春物語。
モノクロームの画面の中で黒木華が素晴らしい。特に途中で声を失ってからは台詞無し、全て表情等で表現して見事である。
昭和40年代は、まだ東京23区でも完全に水洗化されてはいなくて東京都のバキュームカー(手桶で汲むのではなく、吸引式)が各戸を便回収に回っていた。我が家も昭和44年に家を新築して引越した時に水洗になった。
私が昔住んでいたのは戦後に建てられた木造の官舎で、現代では信じられないかも知れないが居間のすぐ横に便所があり、その下に肥溜めがあったという事になる。
昔を思い出してしまった。
皆さん力強い
普通の人たちを描く映画が大好きで、加えて滅多にみないような糞尿を描く。本気ベースで生きている市井の人たち、とっても力強かったです。セリフも印象的でした。
阪本監督の作品は大体観てるかな? といった感じですが、個人的にはですが、「大鹿村騒動記」が一番好きで(あの歌舞伎舞台、昨年、ロケ地訪問してきました)、今回はそこまでの爽快感と言うか、楽しく見終わった! 感はなかったかもです。
今作、キネマ旬報1位でしたよね。ヨコハマも1位でした。ヨコハマは対象期間が違うからですけど、キネマ旬報は100%で「パーフェクトデイズ」だと思っていたので意外でした。こっちが上とは、少々不思議でした(「パーフェクトデイズ」見てないとか書いてる評論家とかいて、キネ旬もあてにならんなぁとも思いましたが)。好みの問題ですが、どちらも普通の人たちのが描かれていることは同じです。わたしも、極めて普通の映画ファンです。やっぱり普通の人たちに共鳴するんだと再認識しました。
正真正銘くそえいが
差別を誘発する弁解がましさというものがあります。
汚穢屋は人糞処理をあつかう立派なしごとにちがいありません。が、汚いので毛嫌いされます。しかし下水道のない時代、糞尿汲取人がいなければ衛生を担保できず、堆肥も供給されません。人のいやがる仕事をしてくださっている立派な用務であり、そういう職業を毛嫌いするのは差別にあたるという印象操作へもっていきます。
これは同和ヤクザやクィアベイティングとおなじ方法論で、同和ヤクザというのは部落問題歴史書を持って企業の受付にやってきて、これを20万円で買わなければあなたの会社は部落差別主義者だとわめく商法のことであり、クィアベイティングとは、実際に同性愛者やバイセクシャルではないのに、性的指向の曖昧さをほのめかし、世間の注目を集める手法のことです。
この映画もそんな方法論を使って糞尿汲取人の悲哀を強調して差別を誘発する弁解がましさへもっていく──というわけです。しかも、これでもかというほど、浴びるほどに糞尿を強調します。
けっきょく、われわれ観衆が言いたいのは、たんに──、
き・た・な・い。
──ということです。
ば・っ・ち・い。
──ということです。
是非ではなくわざわざ汚物を見せるなと言っているのです。なんで映画で排泄物を見なきゃならんのでしょう。映画館で見るとなれば巨大スクリーンで排泄物を見るのです。これはいったいどういう種類の拷問なのですか?つうかどういう種類の感性なんですか?
創作物には障害者や病気や貧困をあつかうことで否定しにくくなるものがあります。ただし日本のばあいは戦略的にそれをやるのです。障害をもっているコラムニストや議員がいますが、不利な個性を背負っているばあい、多少変なことを言ったりやったりしても世間から目こぼしされるのです。
かつて日本一ヘタな歌手というのがありその舞台化に際しとある女優さんが抜擢されたものの降板して頓挫したという地味なニュースがありました。ただしこの障害者さんの歌唱を聴くとこの全体像は「察し」です。このようにして日本には負=障害や貧困等を“だし”にしてマーケティングにしむける方法論があるという話です。資金繰りが効率化し辛辣な(直接的な)批評を回避できます。しぬしぬ詐欺の構造と同じです。
この映画では職業に貴賤はないという道徳を盾にしながら糞尿汲取人の悲哀を描いてゆきます。上述したように毛嫌いすることは差別になりますが、じっさいに矢亮(池松壮亮)や中次(寛一郎)に感じるのは、こっちくんなということだけです。その感じ方には是非はありません。コメディにしたい気配がありますが会話なんかひとつも入ってきません。あなたはうんこ味のカレーみたいな話に感興しますか?
なんにせよ、なにがせかいのおきくだよふざけんなということであり、ばかもやすみやすみやってくれということです。見たことも聞いたこともない正真正銘のクソ映画であり、不快きわまりなく、0点というよりマイナス100点、個人的には狂っているとしか思えない映画でした。
海外では見られることがないので評点を形成しないでしょう。いくつか海外評を見ましたが、いずれも概説のたぐいにすぎません。いうまでもなく糞尿を見る・見たいと思うのは少数派です。
知っての通り日本映画のほとんどは誰にも見られないことによって体裁を保っているわけです。
ところで映画芸術という左翼誌が2023年のベストとワーストを発表しそのベスト側の3位にせかいのおきくが入っていました。
『ベストテン
1位「花腐し」(監督:荒井晴彦)
2位「福田村事件」(監督:森達也)
3位「せかいのおきく」(監督:阪本順治)
4位「ほかげ」(監督:塚本晋也)
5位「雑魚どもよ、大志を抱け!」(監督:足立紳)
6位「渇水」(監督:高橋正弥)
7位「二人静か」(監督:坂本礼)
8位「BAD LANDS バッド・ランズ」(監督:原田眞人)
8位「Single8」(監督:小中和哉)
10位「市子」(監督:戸田彬弘)
ワーストテン
1位「月」(監督:石井裕也)
1位「怪物」(監督:是枝裕和)
3位「ゴジラ-1.0」(監督:山崎貴)
4位「首」(監督:北野武)
5位「リボルバー・リリー」(監督:行定勲)
6位「シン・仮面ライダー」(監督:庵野秀明)
7位「正欲」(監督:岸善幸)
8位「波紋」(監督:荻上直子)
9位「レジェンド&バタフライ」(監督:大友啓史)
10位「こんにちは、母さん」(監督:山田洋次』
ご覧のとおり世評ベースで見ますとベストとワーストがまんま入れ替わります。ってことは、こいつらはマジョリティのあまのじゃくを言って、おれらは孤高でござい──って言って自画自賛しているわけです。どんだけキモいガキどもなんでしょう。公共誌面でおなにいすんのやめてもらっていいですか。
こういう権威主義のばかどもが日本を映画後進国にしたのです。花腐しってピンク映画業界を舞台に置き換え脚色した作品だとかでこいつらの頭んなか四畳半襖の下張のまんまで古色蒼然たる昭和の化石監督をもちあげまくりの旬報系の御用記者がこういう独善の井中蛙の評をぶってくるという構造。
なかんずく怪物とゴジラ。海外の受賞作。明確なマジョリティと忖度のない第三者による評価をワーストにあげている時点でこいつらに正義なんかありません。そうやって誰も知らない内輪で孤高気取っている連中が製作や記者にいる以上、日本映画なんかぜったい浮かばれないでしょう。
心汲むよりウンコ汲め モノクロ!?オワイ?それはなぜ?
監督と脚本は『どついたるねん』『顔』『闇の子供たち』の阪本順治
阪本監督初めてのオリジナル脚本
何度目か覚えていないが貫一郎佐藤浩市親子共演
ただ一緒に映るシーンはない
流石にお互いやりにくいだろう
幕末江戸
安政五年夏から文久元年晩春(1858年から1861年)
現代と違い安政万延文久と目まぐるしく年号が変わる
所謂「災異改元」というやつだろう
菅原道真の子孫がいくつかの候補を提案し幕府と皇室の協議で決定するらしい
ちなみに明治になったは1868年である
江戸庶民の廁事情を描いた喜劇
かと思いきや浪人の父が侍に斬殺され駆けつけた娘おきくまで喉を切られ声が出なくなる悲劇
やはりウンコだけで90分近くもたせるには無理があったか
戦前の時代劇を意識したのかモノクロ
鮮明なモノクロ
なぜか一瞬カラーになること2回ある
すっかりカラーが当たり前になった30年代にあえてモノクロ映像を好んだ工藤栄一監督や98年公開『サムライフィクション』の中野裕之監督を思い出した
あまりこういうことには詳しくないがこれには工藤監督の頃と違いデジタル的なものを感じた
ちなみにチャンバラ映画でない
直後はあるがそういうシーンは一切ない
主人公の1人は元武家だが武士の世界はほとんど描いていない
幕末の底辺の暮らしを淡々と描いている
無理な値上げを要求する武家屋敷の門番が矢亮に仕返しをされるシーンはあるがそのくらいでカタルシスは殆どない
幕末だからホームレスやクルド人のデモのような光景はない
浮世離れした東京のマスコミ連中はエリートだからデモを支持するだろうが世間一般の多くは悲しいかなそれほど支持していない
少なくともマスコミは国民の代表ではない
なぜなのかこの映画を見て思うところがある
クソにまつわる話だがなぜか美しい日本
悲哀を感じるがそれだけじゃ収まらないリアル
日々の暮らしを反省しなければいけない一面はないことない
いやらしい意味ではなくいやらしく感じるかもしれないがまあそれでもいい
地味な着物姿の日本人女性が座ったときの丸みを帯びた部分が愛しい
あの曲線もまた美しい
長屋の通りで雪降るなか跪いて抱き合う男女の情景が好き
あと草履と草鞋って違うのね
『逆転裁判』の梯子と脚立を思い出した
配役
武家育ちだが父が浪人になったため貧しい長家生活になった松村きくに黒木華
紙屑拾いだったが商売替えし矢亮の相棒になる中次に寛一郎
下肥買いの矢亮に池松壮亮
おきくが寺子屋で読み書きを教える寺の住職の孝順に眞木蔵人
浪人になり娘のおきくと2人で長家暮らしの松村源兵衛に佐藤浩市
おきくと同じ長屋に住む元早桶屋の孫七に石橋蓮司
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