百花のレビュー・感想・評価
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意味不明なリピート
ほとんど予備知識無しで観たために、最初の母親に対する冷たい態度の意味がわからなかったけど、途中でなんとなく子供頃のトラウマなんだろうなとわかりました。というのも、あまりにも観ているのが苦痛になって1時間ほどで退席してしまったからです。「新感染半島ファイナル・ステージ」以来2回目の退席でした。
何が嫌だったかというと、不自然な描写がいくつもあったからです。例えば意味不明なリピートが何回かありました。多分認知症だから記憶になくて同じ行動を繰り返すということを表現したんでしょうが、私には意味がわかりませんでした。ひとつはスーパーで卵を買ったり、走っている子供たちに声をかけるシーンですが、3回も子供に声をかけるということは、全く同じタイミングで子供が目の前を走っているということになるので、そんなことは起こりえないと思ったからです。あれではまるでタイムリープです。それに、いくら記憶をすぐになくすからといって、カゴの中に大量の卵のパックを入れているのも不自然です。
あと、団地?の階段を上がると何度も同じ部屋の前に出るシーンがあったけど、あれも記憶をなくすことの描写になっているとは思えませんでした。
他は、授業参観に行ったつもりで学校の教室で警官に保護されているシーンですが、そもそもあの学校は椅子の片付き具合から廃校だとは思いますが、認知症の人が簡単に入れるはずがなくて不自然です。もし廃校でなく今も使われているならより不可能です。
等等、場面を繋げただけのこじ付けのようなストーリーに感じてしまった時点で興味が失われ、過去の恋人?とのシーンが長々続いたところでギブアップしました。無理して観る時間がもったいなかったので・・・
ラストまで見れば、なにか謎解きのようにいくつかのシーンについて納得できたのかもしれないですね。
ストーリーはいいのに
話しとしては凄く面白く考えさせられる映画だと思いますが、そこが表現しきれていない気がします。
泉(子供)を置き去りにしてまでも、愛人を選んだ母親ですが、そこまで愛に溺れた表現がありません。
置き去りにした、神戸時代の生活のシーンも時間をとってる割には、愛に生きた女性を表現出来てる訳でもなく、間延びしてる感じがあります。どちらかと言うと、母親に置き去りにされた、泉の表現をもっと増やした方が後に繋がる気がします。
震災のシーンもチョット中途半端な感じです。
ラストに出てくる半分の花火も、そこに至るまでの振りがイマイチでインパクトがチョット弱く感じて、最後に見せ場の半分の花火のそこまでどーーんときません。
奥さんの役が長澤まさみではなくてもよかったのでは?と思ってしまいます。チョット俳優人に頼ってる感が見えてしまいます。個人的には主役はともかくとして、そこまで重要でない奥さんのような役は無名の女優の方がされる方がリアル感あって好きです。
最初に母親がピアノ弾いてて誰かが玄関から入ってくるシーンから始まった時には、こういう世界観で行くのか!と思いましたが、それ以後そう言ったシーンはなく、あったとすれば、スーパーでの買い物シーンとマンションでの階段のシーンぐらいでした。2回も必要?とは思いましたけど。
CGの女性もイマイチストーリーに絡めてない気がします。
全体的なカットのバランスが良くないのか、チョット見ずらい感じはします。
前日に見た「SABAKAN」が良すぎたせいかも知れません。
自分の母親と重ねて。「記憶」とは?
母親が認知症を患っているため辛い場面が多かったが、薬も含め対処方法のない病気であるため、誰もがなりうるし、誰もが介護しないといけなくなる可能性がある、本当に考えさせられる問題だと思う。
そんな中、この映画では、突然「息子」のことが分からなくなる怖さなどを表現しつつも、以下が印象的だった。
・「忘れる」ということは、人間らしい行為であること (AIをメタファーとして)
・「記憶」とは? (半分の花火を認知症の母親のほうだけが覚えていた。)
最後に半分の花火を一緒に見れたことは本当に良かった。
認知症の人は、たとえば目の前にいる人が誰なのかわからなくても、その人が自分にとって
大事な人であることは分かるそうな。忘れてない。記憶はやっぱりそこにある。
最後のピアノを弾いたあとの場面、息子を見たときの表情。自身の母親と重なりました...。
良い話でも無く、悪い話でも無く
この映画を見て思ったのは現実はきっとこんなものなんだろうなと言う事。
私の中のこの映画の印象は母百合子が「あの子は私を許してくれないでしょうね、でも後悔はしてないの」この台詞、これがこの映画の全てだと感じました。
決して良い話でも無く、感動的な話でも無く、とても人間臭い話だなと言う事。
ただ、映画として見るには面白味に欠けた話だとも感じてしまう印象です。
原作がもう少し泉の父の話や、百合子がなぜ子供の元に戻ったかなどが詳しく書いてある事を祈りつつ読んでみようと思います。
原作読んでから…
鑑賞したらよかったかなぁ。
もっとお涙頂戴作品かと思ってたけど決してそうではなくて、それはすごい良かったんやけど
修復し難い関係があったからこそ、もっと親子の「それまで」を描いて欲しかったかなぁ。
菅田くんも原田さんもまさみちゃんもすごく良かった!ついでに(?)永瀬くんも!
どこに焦点を当てたかったのか不明瞭。
他で見たい作品とそのあと少し時間あったので見てもいいかな、という消極的選択で鑑賞。
小学生低学年の頃、母子家庭にもかかわらず、男と駆け落ちして1年間子ども一人置いて出ていったことがトラウマとなり、母息子の関係はぎくしゃくしているものの、大人になり結婚・妊娠の段階になり、献身的に世話をしている。
その母親が認知症になり、いろいろなことを忘れていくという話。
母親が駆け落ちした若いころ(阪神淡路大震災の頃)と現代、現代も会社・夫婦関係・認知症のことが挿入されて、どのシーンも中途半端な感じで次、次と進んでいく印象が否めない。
原田美枝子の若いころと皺しわなころのシーンの使い分け、特に若いころのシーンが思いのほか多く、感情移入できずうまく化粧!?してるなーなんて思いながら見てしまった。
シングルマザーなのに駆け落ちして、大地震をきっかけにまた息子のところに戻り、という設定がそもそも感情移入できない。ただの身勝手な母親に振り回され、心優しい息子がそれを乗り越えて認知症の母を面倒みるという同情とも言えるストーリーは興ざめでしかなかった。
でも。
菅田将暉と原田美枝子の演技は素晴らしく、脚本が悪いだけにもったいない。
ただ泣ける
自分の親とのことを重ね、泣けてきた。
人生みんな一生懸命生きてきて、記憶がなくなっていくことは本当にせつない。
菅田将暉の声を荒げない態度、自分もみらなわないと。
半分の花火、食べっこ動物、海辺の施設みんなせつなかった。
『世界から猫が消えたなら』の原作や『君の名は。』などのプロデューサ...
『世界から猫が消えたなら』の原作や『君の名は。』などのプロデューサー・川村元気の初監督作品。
原作は自身の手によるが、脚本は平瀬謙太朗と共同(平瀬がトップなので、彼に書かせた脚本に手を入れたのかしらん)。
また、製作・プロデューサー陣は別、という体制。
横浜の自宅でピアノ教室をしながら一人で暮らす初老の百合子(原田美枝子)。
ここのところ記憶が混濁していることがあるのだが、本人に自覚はない。
離れて暮らす一人息子の泉(菅田将暉)がときどき百合子のもとへ帰ってくるが、大晦日の夜、戻ってきたところ百合子の姿が見えない。
外は雨。
近くの公園のブランコに乗った百合子が言うには、「買い物の出かけたのだけで、ちょっとわからなくなってしまった・・・」
といったところからはじまる物語で、若年性認知症を患った母親と息子の、親子の絆を描いた感動作を期待するところだろう。
が、オープニングのワンショットで「それは違うな」と気づく。
ひとりピアノを弾く百合子、物音が気になり玄関の方へ行ってみるが誰もいない、振り返るとピアノを弾く自分の姿が見える、というのをワンショット(のようにみえる手法)で撮っている。
記憶の混濁を表しているいるのだが、その感触は「感動」よりも「不安」「不思議」を感じさせる。
この感触はSF映画に近い感触で、『惑星ソラリス』やフィリップ・K・ディックの諸作品を想起しました。
つづく泉の百合子捜索のシーンもワンショットにみえるように撮っており、息子・泉の現実世界も百合子の混濁記憶の現実世界もシームレス、一連の地続きというアプローチ。
なかなかの仕掛け、演出の意図がうかがえます。
記憶混濁の進んだ百合子は、浅羽という男性の幻影をスーパーマッケットで見、後を追って店外へ出てしまったことから万引き事件へと発展し、検査の結果、若年性認知症であることが判明する。
その間、百合子と泉が想起する記憶の断片が物語に短く挿入され、泉は小学生ぐらいのときに百合子に取り残されてしまったことがわかります。
百合子を施設に入居させたあと、自宅の整理をしていた泉は、6パック以上も買われた卵のパックや、3つも4つもあるケチャップを発見して居たたまれない気持ちになるのだが、百合子のベッドの下から25年ほど昔の百合子の日記を発見し、百合子が泉を棄てて出奔したときの気持ちを知ってしまう。
妻子ある男性・浅羽(永瀬正敏)と不倫関係になった百合子は、自身の女性としての感情を抑えきれず、転勤になった浅羽の後を追って神戸へと向かい、ささやかな蜜月関係を築く。
が、阪神淡路大震災により浅羽は死に、ひとりとなった百合子は横浜へ戻ってきたのであった。
と、このエピソードが長く、かつ話法的に乱れてしまっているので、映画の後半が活きてこなくなったように感じました。
エピソードが長くなったことで、観客の百合子への感情は悪化し、「母親と息子の絆を描いた感動作」を期待した観客からはそっぽを向かれる。
話法の乱れは次のとおりで、百合子と浅羽の物語は、泉が読む日記の内容の映像化として登場し、「記憶」の映像化ではない。
が、大震災でひとり彷徨う百合子の映像からは、施設で過ごす百合子の「記憶」につながっていく。
これにより、「記憶にまつわるSF映画的なもの」を期待している観客も、記憶なのか記録(日記、または事実)なのかと混乱してしまう。
ということで、百合子と浅羽のエピソードの長い尺は、いい方向には働いていない。
このエピソードの乱れが、後半、もっとよくなる要素を殺ぎ落とした感があります。
後半は3つのエピソードが展開されます。
ひとつは、泉が携わっているAIヴォーカロイド・KOE(コエ)のエピソード。
もうひとつは、泉の妻(長澤まさみ)の出産のエピソード。
最後に、もっとも尺が割かれる、百合子が頻りに見たがる「半分の花火」のエピソード。
ヴォーカロイドのエピソードは、記憶/記録することと忘れることの対比が描かれ、記憶/記録するだけでは「人間らしさ」に欠けるというディック的エピソードで、個人的にはこの部分をもう少しふくらませて描いてほしかった。
この部分を膨らませることで、「半分の花火」のエピソードも、もっと活きたように感じました。
ふたつめの出産のエピソードは、短くさらりと描かれ、「母と息子の感動作」を期待した観客には、終幕の「半分の花火」のエピソードへ向かって、感動を積み重ねていってほしいところだったが、物語の流れとしてつながっているように感じられなかったように思います。
さて最後の「半分の花火」のエピソードなのですが、ミスリードを挟んでの謎解き(納得感のある)要素なのですが、伏線がうまくなく、「なるほど」感を醸成できていないのが惜しいです。
たしかに前半、泉と妻が百合子の暮らす旧宅に向かうシーンで、あの建物を写しているのですが、旧宅との関係がわからない。
なので、なるほど感が少なくなってしまう。
さらに、百合子と泉が憶えていたことが、それぞれで異なっていることがわかりますが、ヴォーカロイドエピソードが短いため、記憶と忘却の対比が乏しく感じられます。
また、百合子が記憶していたことは、泉との楽しい時間・事柄であったけれども、泉が記憶していたことは母に棄てられた悲しい記憶が主で、楽しかった時間・事柄については誤って記憶していたことがわかります。
と、この終盤は盛りだくさん。
盛りだくさんの内容が少々さばき切れなかった感がありますね。
なお、最後、縁側で百合子と泉が縁側に並んで「半分の花火」を観るショット、個人的にはなぜか『東京物語』をふと思い出しました。
ということで、「残念」なところばかりを書き連ねましたが、一連の川村元気企画・プロデュース作品の押しつけがましさがなく、作家性が出た感じがして好感が持てた作品でした。
岩井俊二さん何言ってんの?
映像と音楽は美しいし、役者も頑張ってる。
はい、褒めるとこ終わり。困ったもんだ…。
作中のドラマが薄い。その上迷走してる。
あんなに長々と過去編いる?AI歌手は何だったのか?
淡々と描きすぎて、ドキュメンタリー観てるかと思った。
ドキュメンタリー(事実)ならそれで良いんだけど、映画なんだからもう少し何か出来たんじゃないの?
「半分の花火」のオチにも拍子抜けした。散々引っ張っといてアレですか。
認知症の描写は何だかブッ飛んでるし…
患者にはあんな風に世界が見えてるのだろうかね?違うと思う。
駄作というより失敗作。
ニコール・キッドマンは本当に本作を見たのだろうか?
「?」ばかりが浮かんだ2時間でした。
切ない…けど、考えたいこと。
画面の世界で記憶を増やし能力を増すAIに関わる仕事をしている泉。
一方、実家にいけば
目の前にいる母はだんだんと記憶をなくし、会話や、家事に支障が目立ちはじめ1人暮らしが心配な状況になっている。
この二つの真逆とも言える状況がまず重くのしかかってきた。
それだけでなく、
冒頭あたりから母子でいても、夫婦でいても、泉は家族関係にどこか諦めたようなドライな空気を持ってるなと思った。
それは幼少期の心の傷跡。
母が自分をおいていなくなったことの癒えない傷の深さがつくる影だったのだろうとあとでわかる。
だから、
母から母が失われていく姿を感じるのは、
自分の感情を始末できないままの自分でいる焦りとして
跳ね返り爆発したのだ。
海辺で母に叫んでしまう泉。
しかし、
目の前の息子に叫ばれた母は母でありながら昔の母ではないのだ。
ふたりに漂う質の違うやるせなさ。
暗い波の色が現実を物語る。
その後、施設に入ることになった母の荷物の片付けで
泉はたくさんの覚書きのメモ、大切にとってあった男からの贈り物、母のその頃の本心がかかれていただろう手帳をみつけながら、かつてを思い出す。
母と行った魚釣り、一輪挿しの花瓶、一輪の花、ビスケット…
そして最後に
昔の家の縁側から建物のむこうにみえた半分の花火をみる。
これこそ、
母の消えゆく記憶の中で大切にしてた泉とみた花火だ。
ようやくそれを思い出したとき
傍の母の焦点定まらず発する言葉もない横顔。
そこにいるのに、同じ時空にいない淋しさ。
けれど、母の認知症をきっかけにして
泉がようやくその愛の断片を寄せ集めれたのも事実。
つなぎあわせたそれを胸にしまって父となった自分を今から生きていく。
きっと、泉はここから
母や家族に対して本当の意味で優しくなれるんではないだろうか。
…というほのかに期待できる余韻があった。
認知症があらわれはじめた家族が頭によぎり続け、私には現実的でせつない鑑賞時間でした。
小さな子を残して出て行く母の行動に
賛同は全くありませんが
親であれ、子であれ まわりの人は
AIではない生身の人間。
尊重して向き合うこと、についてしばらく考えています。
(修正、追加あり)
原田美枝子と菅田将暉の演技力があったからこそ!の作品
この二人の演技は見応えあり!
原田美枝子は同一人物を年齢幅広く演じ分け、
また、徐々に認知症が進行していく様子を
上手く表現していてさすが!
大女優の貫禄漂ってました
そして、菅田将暉!
演技に深みが増して、さらに進化した感じ
セリフ少ないのに、表情、目線、間合いで
泉の母に対する複雑に揺れる心情を、
繊細に表現していました
ワンカット、ワンカットの映像も叙情的で美しく、
背景に流れるピアノの旋律とマッチし、
時間と記憶が交差する不思議な空気感を醸し出してました
…が、しかし!
肝心のストーリー展開が物足りなかったなぁ
「認知症」という病気をちょっと追いかけすぎたんじゃないかな
もう少し、母と息子の愛憎織り交ざった混沌とした感情の核心部分のストーリーが見たかった
この親子はいつ、お互いに正面から向き合うんだろう
お母さんが、自分の過去もその時の感情も忘れちゃったら、話終わってしまうじゃん!
…と、やきもきしてたら、本当にそこで話が終わってしまったって感じでした
違う俳優さんが演じてたら、途中で帰ってしまったかも… です
考えさせられた映画。身近な人を思い浮かべながら
今、日本の映画でトップ男性俳優と個人的に思える菅田将暉の主演映画を観てきた。評価が分かれている作品だが私は高く評価。まず、菅田をはじめ女優原田美枝子の演技が素晴らしかったこと。そして、必ず起こりうる親の認知症に対して今回は息子だったが子がどう向き合うかこのテーマ設定が一番良かった。個人的にも今、身近な人間が病気の関係で認知症一歩手前の母と過ごしているので母を思い浮かべながらこの映画を見ていた。とにかく考えさせられる映画。もし、自分が泉だったらと思い浮かべて観るのがこの映画は一番いいのかもしれない。女性の方で菅田のファンの方ならもし自分だったら母とどう向き合うか考える題材にもなる。近いうちの日本はこういうケースが必ず増える。馬鹿にできない映画だった。私の中では今年の日本映画No.1候補の一つ。おすすめしたい映画。ただし一人で鑑賞したほうがいい作品です。
母と息子の物語
冒頭から息子と母に妙な空気が漂ってる。
息子が母を少し拒絶してるように感じる。
これは息子だし、離れて暮らしてるから違和感がなかったんだけど、認知症の母の症状が進むにつれて、小学生だった頃の息子との記憶が回想として現れてくる。
大雨の日、走りながら母を探す息子と授業参観で「走れメロス」を読み上げる息子がリンクしたり、なにげなくスーパーに登場した幻覚の少女たちが後の母の若い頃に出てきたり、とても作り方が好み。
前情報なしで観たんですが、母は息子が小学生の頃、1年くらい息子を捨てて、男の人と暮らしている。冒頭の違和感はここに繋がっていく。
その時の傷は深く、それを忘れていく母
その思いが切なく悲しくて強く当たってしまうが、ラストシーンの「半分の花火」を観る2人は自分も記憶の中で忘れていたことを思い出す。
想像をしていた映画と違っていたが
引き込まれていく映画だったので、最後まで飽きることなく鑑賞できた。
菅田将暉さんの俯いたときのまつ毛や、母のメモを見ながら涙するシーンは印象深い。
またおおらかで優しい嫁を贅沢に長澤まさみさんが演じてらっしゃった。
親だからって正しく生きるわけじゃないし。お母さん、ずっと謝ってるね。いつまで謝らせる気?
忘れていく母親。
忘れられない息子。
忘れないでいる母親。
忘れてしまっていた息子。
終始辛気臭い映画。最後の「半分の花火」への期待も、まがい物(僕にはそう思えた。たとえ綺麗であっても母子の記憶にとってはそれはまがい物)が雑音のように物語を曇らせている。
原田美枝子の若い母親役には無理がある。それは「北の国から」のあの若々しい凉子先生が頭から離れないからだ。ただ、そうはいってもこの年齢幅をこなせる女優を探すとなると、そうそういないのだろうなあ。・・・と、雑念が入り込む余地が余りある映画。もういいですよ、不幸をさも幸せなエピソードにすり替えるチープな映画は。
考えさせられました
世間のレビューがなかなか酷評で驚いています。
本日2度目の鑑賞でした。1度目からの余韻が残り、もう一度観たいと思いました。
認知症介護を経験した人にしかわからないかもしれません。わたしは大好きな祖母が晩年、認知症になりました。誰よりも可愛がってもらったと自負しています。体の不自由な母に代わって、祖母のお世話をしていました。会話がとんだり、同じことを繰り返し聞いたり、一点凝視の目になったかと思えば正気な目になったり。しっかりしていたからこそ、認知症の変化についていけない家族、うまく関われない家族の気持ち、菅田さんの表情が胸を打ちました。まだ若い母親なら尚更苦しいはずです。受け入れて笑えるまでには時間が必要です。その葛藤がすごく伝わりました。
祖母は、認知症進行により、わたしの名前だけを毎回間違えるようになりました。でも、わたしを見る目は優しいまま。だから、もういいや、わたしが誰でも、祖母が笑っているならとおもえるようになりました。
わたしが幼かったときの出来事を、いつも楽しそうに話してくれました。忘れない記憶なんだと嬉しかったです。
この映画は、母との埋められないつらい記憶と時間があるのに、息子として泉はよく頑張っていたと思います。何年経ってもなかなか許せないこともあると思います。心の変化がすばらしく描かれていました。
原田さんも素晴らしい演技でした。
母であり、女である。その葛藤の中で、生きていたんだなと思います。子供を捨てることはわたしにはできないけど、そう言うことも世の中にはあるのだと思いました。
伝えたいことはたくさんありますが、世間で言う感動映画ではないと思いますが、わたしは本当に胸が熱くなり、涙が溢れ、素晴らしい映画に出会えたと思っています。
詰まらない
よく詰まらないと言うと、
観客は分かってないと言う人がいるけど、観客はそれほど馬鹿じゃない。
詰まらないものはやはり詰まらなく
理解力が足りない云々ではない。
しかもアート作品ならまだしも、これだけの上映館数で勝負してるんだから。
それなり取り込む内容でないと、
会社は泣くしかない。あとワンシーンワンカットって撮り方が分からなかったからやないか。
すだがわるいのか、脚本が悪いのか、息子からの一人芝居で母が本当の...
すだがわるいのか、脚本が悪いのか、息子からの一人芝居で母が本当の意味で描けてない。置いていかれたトラウマとその背景としての恋愛の描き方はいいけど、認知症になる母への愛情とかあまり感じられない。すだという人が、そもそもすごく冷たいやつなんじゃないか。
認知症を受け入れられない自分だけ描く。認知症者への視線が冷たすぎて古い。
最後に忘れないと言ってた自分が忘れてた罪に気づくところはいいけど、それさえそこ止まり。
半分の花火という言葉に惹かれて見に来たししょうがないけど。
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