百花のレビュー・感想・評価
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親子だからこそのわだかまり
親と子供は互いに愛情を持っているからこそ、怒りや悲しみを忘れられないのだと思う。
子に対して裏切ったとしても、母親の情が無くなったのでは無いと思う。
それが理解できない自分勝手な行動や態度であっても。自分自身、認知症は嫌だけど、歳を取って人生を振り返って、親として子としてわだかまりの無い人生だったのか考えると胸が痛む気がする。
誰しも、何かしら思い出す事はあるんじゃないかな!?そんな事を思わせる映画でした。
菅田将暉さん大好きです。原田美枝子さんお美しい。
半分の花火、湖畔から見るか?家から見るか?
2022年映画館鑑賞48作品目
9月19日(月)イオンシネマ名取
ハッピーマンデー1100円
原作未読
原作と監督と脚本は数々の話題作の企画・プロデューサーを務めた川村元気
初監督作品
作品内容からして決して駄作ではないが自分には合わなかった
はっきりいってつまらなかった
眠くなる人も多いだろう
河瀬直美監督初期作品や『青いパパイヤの香り』によく似たカンヌ系の淡々とした流れが人によっては退屈に感じるかもしれない
『ちむどんどん』でヒロイン暢子の伯母でイタリア料理店のオーナー役の原田美枝子は今回の映画では認知症患者を演じた
原田美枝子がボケ老人の役をやることで改めて自分の老いを感じた
半分の花火とはそういうことか
生まれた頃から母子家庭で育ち幼少の頃に母から置き去りにされた経験を持つ葛西泉に菅田将暉
泉の母で認知症を患う葛西百合子に原田美枝子
泉の妻で妊娠中でやがて息子を産む葛西香織に長澤まさみ
泉と香織が働くレコード会社の上司の大澤哲也に北村有起哉
泉と香織が働くレコード会社の後輩の永井翔太郎に岡山天音
泉と香織が働くレコード会社の同僚の田名部美咲に河合優実
百合子を診る心療内科医の佐藤雅之に長塚圭史
香織を診る産婦人科医の関綾乃に板谷由夏
百合子の学生時代の友人の工藤恵に神野三鈴
百合子が移り住むことになった高齢者介護施設の職員に占部房子
大学教授で百合子の愛人の浅葉洋平に永瀬正敏
小説向き
W主演のおふたり(菅田将暉と原田美枝子)の繊細な演技が光る。
病気を相談しようと電話してきた母の電話を仕事の忙しさにかまけて無視したことを悔いたり、恋に入れ上げ失踪した母が阪神淡路大震災で我に返ったりと、内面を丁寧に描くタイプの作品でした。
と同時に、役者の技量が問われる作りなわけですが、見事に表現は出来ていたと思います。
ただ、文芸的過ぎるというか、小説でこそ生きる内容であり、映像化はいかがなものか?というのが率直な感想。
さまざまな失敗やすれ違いは、当事者同士の赦しか、自分の中で消化するものであり、嘆きや戸惑いを見せるだけでは軽く感じてしまって、作品の中に入り込めなかったです。
映画にしたかったのは予告にもあった「半分の花火」のビジュアルを見せたかったのかなとは思うものの、想像の範囲内のことで感動ポイントにはなりえませんでした。
「惜しい」の一言。
すべて忘れてしまうんだろうな
敬老の日に
80で亡くなった私の母は認知症でもないのに整理整頓が苦手でかつプチ買物依存、家にはシャンプーなどの日用品が一年分以上あった。映画の序盤、家の中が片付けられず買い物も同じものを複数買ってしまい、それらをみた息子が面倒臭そうな顔をする、そんな描写に胸が痛くなり、しばらくは映画と並行して自分の内面を見る時間が続いた。おそらく同様に感じた方も多かったのではないだろうか。
筋はシンプルですっと見られてしまうが、旦那に苦労しているとかならまだしも、シングルマザーが可愛がっている息子を一人おいて出奔してしまう、それは流石に有り得ないだろうと感じた。
映画技術的には幻惑を誘うカットバックやトリッキーな撮影も効果的に働いたし、震災などのCG、背景のピントの合わせ方などはかなり上手いと思った。
原田美枝子はオレンジ50、青春の殺人者、あゝ野麦峠、勝新撮影の写真集、そして北の国からといった20代までの印象が強い年代。94〜5年設定の映像では、もっとずっと若かったはずだが、設定年齢が実年齢63歳よりかなり上なんだと理解。
実は♯河合優実を目当てで見に行きましたが、出ていたことは理解しましたが、アップどころかピントすら合いませんでした(笑)。岡山天音も北村有起哉もですが。
決着つかないことも多けれど
認知症で色々なことを忘れていく母と、どうしても忘れられない出来事が引っかかり続ける息子の話。
全体的な印象としては劇中に出てきた謎AIキャラのように色々詰め込んで詰め込みすぎた重い話を、放置したり白黒はっきりさせないことで母と息子の愛の一点突破で終わらせたって感じ。
でも人は色んなカタの付いてないことから取捨選択して忘れたり後悔しながら、生きていくものだからなぁとも思った。震災がなかったら息子の元には戻らなかったのかも?という疑問は残るけど、案外親子でも何でも家族の問題ってそれぐらいの大きなことがないと前に進まなかったりしますしね。
震災によって大切な人を失うという描き方が多いところだけど、震災で大切な人を取り戻すという視点も新しいなと思った。
そして、息子から見れば絶対許せない酷い行為も、出産によって人生が変わる大きさは男の比じゃないことを身をもって体感してるであろう妊娠中の奥さんがすごくあっさりと捉えてることがスカッとした(でも出てくのは良いとしても息子放置は虐待だからな)。この奥さん、子供できた時そんなに嬉しくなかった、とサッパリしている潔さが好きだ。
『ファーザー』のように認知症体感映画な部分もあって、同じところをグルグルまわったりいないはずの人がいたり、時間と空間の不思議がワンショットで流れるように表現されてて綺麗だった。あとはちょっと不謹慎かもしれないけど、認知症の記憶が混濁してる様子って伏線に使えるから割と謎解き要素あって楽しいのよね。
少し余談で、冒頭明らかに様子がおかしい母親と向き合わない泉が、自分も去年母を亡くしているのだけど、自分と被って辛かった。泉の場合は自分の知らない不倫相手に重ねられるのが辛いというのと、半分はまさか自分の母親が認知症だなんて思いたくもないからという理由もあると思う。自分も、亡くなる1年前ぐらいからなんだか母すごく疲れやすくなってることを気づいてたけど言わなかった。
なかなか皆さん手厳しい。
原作未読です。
まずは技術的な話から。
これだけの量の原田さんの若作り顔修正は気が遠くなる作業だったろう、どのカットもカメラか役者が動いてるし。関係者の皆様お疲れ様でした。
カメラは殆どハンディ?ステディカム?長回しで
回り込むカットが多くしかも合成絡みが多い。凄く綿密な撮影設計におどろきました。
地震のシーンのカメラワーク、合成、セットもシームレスで非常にリアル。あと認知症、アルツハイマーの映像表現が卓越していた。私の父もアルツだったが、グルグル同じ事繰り返す感じや、突然思考がジャンプする感じ違和感なかったです。おそらく頭の中こんな状況なんじゃないかな。
現場では監督と主役2人ぶつかったようだけど役者の皆さんも気合い入ってたって事だと思う、隙がなかった。
私は説明的じゃない映画が好きです。
出来るだけ映像で伝えようとする姿勢と技術に拍手したいと思いました。
ただその分、盛り上げる部分を明解にしてあげる必要性と、そのための助走の重要さを感じました。あのシーンがもう少し盛り上がれば、泣ければ、、星あと一個半付けたと思います。
意味不明なリピート
ほとんど予備知識無しで観たために、最初の母親に対する冷たい態度の意味がわからなかったけど、途中でなんとなく子供頃のトラウマなんだろうなとわかりました。というのも、あまりにも観ているのが苦痛になって1時間ほどで退席してしまったからです。「新感染半島ファイナル・ステージ」以来2回目の退席でした。
何が嫌だったかというと、不自然な描写がいくつもあったからです。例えば意味不明なリピートが何回かありました。多分認知症だから記憶になくて同じ行動を繰り返すということを表現したんでしょうが、私には意味がわかりませんでした。ひとつはスーパーで卵を買ったり、走っている子供たちに声をかけるシーンですが、3回も子供に声をかけるということは、全く同じタイミングで子供が目の前を走っているということになるので、そんなことは起こりえないと思ったからです。あれではまるでタイムリープです。それに、いくら記憶をすぐになくすからといって、カゴの中に大量の卵のパックを入れているのも不自然です。
あと、団地?の階段を上がると何度も同じ部屋の前に出るシーンがあったけど、あれも記憶をなくすことの描写になっているとは思えませんでした。
他は、授業参観に行ったつもりで学校の教室で警官に保護されているシーンですが、そもそもあの学校は椅子の片付き具合から廃校だとは思いますが、認知症の人が簡単に入れるはずがなくて不自然です。もし廃校でなく今も使われているならより不可能です。
等等、場面を繋げただけのこじ付けのようなストーリーに感じてしまった時点で興味が失われ、過去の恋人?とのシーンが長々続いたところでギブアップしました。無理して観る時間がもったいなかったので・・・
ラストまで見れば、なにか謎解きのようにいくつかのシーンについて納得できたのかもしれないですね。
ストーリーはいいのに
話しとしては凄く面白く考えさせられる映画だと思いますが、そこが表現しきれていない気がします。
泉(子供)を置き去りにしてまでも、愛人を選んだ母親ですが、そこまで愛に溺れた表現がありません。
置き去りにした、神戸時代の生活のシーンも時間をとってる割には、愛に生きた女性を表現出来てる訳でもなく、間延びしてる感じがあります。どちらかと言うと、母親に置き去りにされた、泉の表現をもっと増やした方が後に繋がる気がします。
震災のシーンもチョット中途半端な感じです。
ラストに出てくる半分の花火も、そこに至るまでの振りがイマイチでインパクトがチョット弱く感じて、最後に見せ場の半分の花火のそこまでどーーんときません。
奥さんの役が長澤まさみではなくてもよかったのでは?と思ってしまいます。チョット俳優人に頼ってる感が見えてしまいます。個人的には主役はともかくとして、そこまで重要でない奥さんのような役は無名の女優の方がされる方がリアル感あって好きです。
最初に母親がピアノ弾いてて誰かが玄関から入ってくるシーンから始まった時には、こういう世界観で行くのか!と思いましたが、それ以後そう言ったシーンはなく、あったとすれば、スーパーでの買い物シーンとマンションでの階段のシーンぐらいでした。2回も必要?とは思いましたけど。
CGの女性もイマイチストーリーに絡めてない気がします。
全体的なカットのバランスが良くないのか、チョット見ずらい感じはします。
前日に見た「SABAKAN」が良すぎたせいかも知れません。
自分の母親と重ねて。「記憶」とは?
母親が認知症を患っているため辛い場面が多かったが、薬も含め対処方法のない病気であるため、誰もがなりうるし、誰もが介護しないといけなくなる可能性がある、本当に考えさせられる問題だと思う。
そんな中、この映画では、突然「息子」のことが分からなくなる怖さなどを表現しつつも、以下が印象的だった。
・「忘れる」ということは、人間らしい行為であること (AIをメタファーとして)
・「記憶」とは? (半分の花火を認知症の母親のほうだけが覚えていた。)
最後に半分の花火を一緒に見れたことは本当に良かった。
認知症の人は、たとえば目の前にいる人が誰なのかわからなくても、その人が自分にとって
大事な人であることは分かるそうな。忘れてない。記憶はやっぱりそこにある。
最後のピアノを弾いたあとの場面、息子を見たときの表情。自身の母親と重なりました...。
良い話でも無く、悪い話でも無く
この映画を見て思ったのは現実はきっとこんなものなんだろうなと言う事。
私の中のこの映画の印象は母百合子が「あの子は私を許してくれないでしょうね、でも後悔はしてないの」この台詞、これがこの映画の全てだと感じました。
決して良い話でも無く、感動的な話でも無く、とても人間臭い話だなと言う事。
ただ、映画として見るには面白味に欠けた話だとも感じてしまう印象です。
原作がもう少し泉の父の話や、百合子がなぜ子供の元に戻ったかなどが詳しく書いてある事を祈りつつ読んでみようと思います。
原作読んでから…
鑑賞したらよかったかなぁ。
もっとお涙頂戴作品かと思ってたけど決してそうではなくて、それはすごい良かったんやけど
修復し難い関係があったからこそ、もっと親子の「それまで」を描いて欲しかったかなぁ。
菅田くんも原田さんもまさみちゃんもすごく良かった!ついでに(?)永瀬くんも!
どこに焦点を当てたかったのか不明瞭。
他で見たい作品とそのあと少し時間あったので見てもいいかな、という消極的選択で鑑賞。
小学生低学年の頃、母子家庭にもかかわらず、男と駆け落ちして1年間子ども一人置いて出ていったことがトラウマとなり、母息子の関係はぎくしゃくしているものの、大人になり結婚・妊娠の段階になり、献身的に世話をしている。
その母親が認知症になり、いろいろなことを忘れていくという話。
母親が駆け落ちした若いころ(阪神淡路大震災の頃)と現代、現代も会社・夫婦関係・認知症のことが挿入されて、どのシーンも中途半端な感じで次、次と進んでいく印象が否めない。
原田美枝子の若いころと皺しわなころのシーンの使い分け、特に若いころのシーンが思いのほか多く、感情移入できずうまく化粧!?してるなーなんて思いながら見てしまった。
シングルマザーなのに駆け落ちして、大地震をきっかけにまた息子のところに戻り、という設定がそもそも感情移入できない。ただの身勝手な母親に振り回され、心優しい息子がそれを乗り越えて認知症の母を面倒みるという同情とも言えるストーリーは興ざめでしかなかった。
でも。
菅田将暉と原田美枝子の演技は素晴らしく、脚本が悪いだけにもったいない。
ただ泣ける
タイトルなし(ネタバレ)
『世界から猫が消えたなら』の原作や『君の名は。』などのプロデューサー・川村元気の初監督作品。
原作は自身の手によるが、脚本は平瀬謙太朗と共同(平瀬がトップなので、彼に書かせた脚本に手を入れたのかしらん)。
また、製作・プロデューサー陣は別、という体制。
横浜の自宅でピアノ教室をしながら一人で暮らす初老の百合子(原田美枝子)。
ここのところ記憶が混濁していることがあるのだが、本人に自覚はない。
離れて暮らす一人息子の泉(菅田将暉)がときどき百合子のもとへ帰ってくるが、大晦日の夜、戻ってきたところ百合子の姿が見えない。
外は雨。
近くの公園のブランコに乗った百合子が言うには、「買い物の出かけたのだけで、ちょっとわからなくなってしまった・・・」
といったところからはじまる物語で、若年性認知症を患った母親と息子の、親子の絆を描いた感動作を期待するところだろう。
が、オープニングのワンショットで「それは違うな」と気づく。
ひとりピアノを弾く百合子、物音が気になり玄関の方へ行ってみるが誰もいない、振り返るとピアノを弾く自分の姿が見える、というのをワンショット(のようにみえる手法)で撮っている。
記憶の混濁を表しているいるのだが、その感触は「感動」よりも「不安」「不思議」を感じさせる。
この感触はSF映画に近い感触で、『惑星ソラリス』やフィリップ・K・ディックの諸作品を想起しました。
つづく泉の百合子捜索のシーンもワンショットにみえるように撮っており、息子・泉の現実世界も百合子の混濁記憶の現実世界もシームレス、一連の地続きというアプローチ。
なかなかの仕掛け、演出の意図がうかがえます。
記憶混濁の進んだ百合子は、浅羽という男性の幻影をスーパーマッケットで見、後を追って店外へ出てしまったことから万引き事件へと発展し、検査の結果、若年性認知症であることが判明する。
その間、百合子と泉が想起する記憶の断片が物語に短く挿入され、泉は小学生ぐらいのときに百合子に取り残されてしまったことがわかります。
百合子を施設に入居させたあと、自宅の整理をしていた泉は、6パック以上も買われた卵のパックや、3つも4つもあるケチャップを発見して居たたまれない気持ちになるのだが、百合子のベッドの下から25年ほど昔の百合子の日記を発見し、百合子が泉を棄てて出奔したときの気持ちを知ってしまう。
妻子ある男性・浅羽(永瀬正敏)と不倫関係になった百合子は、自身の女性としての感情を抑えきれず、転勤になった浅羽の後を追って神戸へと向かい、ささやかな蜜月関係を築く。
が、阪神淡路大震災により浅羽は死に、ひとりとなった百合子は横浜へ戻ってきたのであった。
と、このエピソードが長く、かつ話法的に乱れてしまっているので、映画の後半が活きてこなくなったように感じました。
エピソードが長くなったことで、観客の百合子への感情は悪化し、「母親と息子の絆を描いた感動作」を期待した観客からはそっぽを向かれる。
話法の乱れは次のとおりで、百合子と浅羽の物語は、泉が読む日記の内容の映像化として登場し、「記憶」の映像化ではない。
が、大震災でひとり彷徨う百合子の映像からは、施設で過ごす百合子の「記憶」につながっていく。
これにより、「記憶にまつわるSF映画的なもの」を期待している観客も、記憶なのか記録(日記、または事実)なのかと混乱してしまう。
ということで、百合子と浅羽のエピソードの長い尺は、いい方向には働いていない。
このエピソードの乱れが、後半、もっとよくなる要素を殺ぎ落とした感があります。
後半は3つのエピソードが展開されます。
ひとつは、泉が携わっているAIヴォーカロイド・KOE(コエ)のエピソード。
もうひとつは、泉の妻(長澤まさみ)の出産のエピソード。
最後に、もっとも尺が割かれる、百合子が頻りに見たがる「半分の花火」のエピソード。
ヴォーカロイドのエピソードは、記憶/記録することと忘れることの対比が描かれ、記憶/記録するだけでは「人間らしさ」に欠けるというディック的エピソードで、個人的にはこの部分をもう少しふくらませて描いてほしかった。
この部分を膨らませることで、「半分の花火」のエピソードも、もっと活きたように感じました。
ふたつめの出産のエピソードは、短くさらりと描かれ、「母と息子の感動作」を期待した観客には、終幕の「半分の花火」のエピソードへ向かって、感動を積み重ねていってほしいところだったが、物語の流れとしてつながっているように感じられなかったように思います。
さて最後の「半分の花火」のエピソードなのですが、ミスリードを挟んでの謎解き(納得感のある)要素なのですが、伏線がうまくなく、「なるほど」感を醸成できていないのが惜しいです。
たしかに前半、泉と妻が百合子の暮らす旧宅に向かうシーンで、あの建物を写しているのですが、旧宅との関係がわからない。
なので、なるほど感が少なくなってしまう。
さらに、百合子と泉が憶えていたことが、それぞれで異なっていることがわかりますが、ヴォーカロイドエピソードが短いため、記憶と忘却の対比が乏しく感じられます。
また、百合子が記憶していたことは、泉との楽しい時間・事柄であったけれども、泉が記憶していたことは母に棄てられた悲しい記憶が主で、楽しかった時間・事柄については誤って記憶していたことがわかります。
と、この終盤は盛りだくさん。
盛りだくさんの内容が少々さばき切れなかった感がありますね。
なお、最後、縁側で百合子と泉が縁側に並んで「半分の花火」を観るショット、個人的にはなぜか『東京物語』をふと思い出しました。
ということで、「残念」なところばかりを書き連ねましたが、一連の川村元気企画・プロデュース作品の押しつけがましさがなく、作家性が出た感じがして好感が持てた作品でした。
岩井俊二さん何言ってんの?
切ない…けど、考えたいこと。
画面の世界で記憶を増やし能力を増すAIに関わる仕事をしている泉。
一方、実家にいけば
目の前にいる母はだんだんと記憶をなくし、会話や、家事に支障が目立ちはじめ1人暮らしが心配な状況になっている。
この二つの真逆とも言える状況がまず重くのしかかってきた。
それだけでなく、
冒頭あたりから母子でいても、夫婦でいても、泉は家族関係にどこか諦めたようなドライな空気を持ってるなと思った。
それは幼少期の心の傷跡。
母が自分をおいていなくなったことの癒えない傷の深さがつくる影だったのだろうとあとでわかる。
だから、
母から母が失われていく姿を感じるのは、
自分の感情を始末できないままの自分でいる焦りとして
跳ね返り爆発したのだ。
海辺で母に叫んでしまう泉。
しかし、
目の前の息子に叫ばれた母は母でありながら昔の母ではないのだ。
ふたりに漂う質の違うやるせなさ。
暗い波の色が現実を物語る。
その後、施設に入ることになった母の荷物の片付けで
泉はたくさんの覚書きのメモ、大切にとってあった男からの贈り物、母のその頃の本心がかかれていただろう手帳をみつけながら、かつてを思い出す。
母と行った魚釣り、一輪挿しの花瓶、一輪の花、ビスケット…
そして最後に
昔の家の縁側から建物のむこうにみえた半分の花火をみる。
これこそ、
母の消えゆく記憶の中で大切にしてた泉とみた花火だ。
ようやくそれを思い出したとき
傍の母の焦点定まらず発する言葉もない横顔。
そこにいるのに、同じ時空にいない淋しさ。
けれど、母の認知症をきっかけにして
泉がようやくその愛の断片を寄せ集めれたのも事実。
つなぎあわせたそれを胸にしまって父となった自分を今から生きていく。
きっと、泉はここから
母や家族に対して本当の意味で優しくなれるんではないだろうか。
…というほのかに期待できる余韻があった。
認知症があらわれはじめた家族が頭によぎり続け、私には現実的でせつない鑑賞時間でした。
小さな子を残して出て行く母の行動に
賛同は全くありませんが
親であれ、子であれ まわりの人は
AIではない生身の人間。
尊重して向き合うこと、についてしばらく考えています。
(修正、追加あり)
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