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◯作品全体
次々とパートナーを変えていき、浮気をして、結婚間近の空気感をも振り払い、浮気相手のところへ身を寄せ、その相手すら自分の理想的な答えをくれなければ切り捨てる。挙句の果てに妊娠して母親になることの戸惑いをどうにかしようと末期がんの別れた男のところへ顔を出す始末。相手が自分のことを好きでいてくれていることに甘んじて、自分にとって都合の良い距離感となった男と昔話をして「良い母親になる」という言葉を引き出そうとする。死期が迫っている男に対して付き合っていたときに会っていたと平然と言ってのける姿は、病人の傷口をえぐっているようにしか見えない。
…いや、本当に、酷い女だなあと思うんだけれど、個人的に憎むことができないのは、その最悪な振る舞いが「何者にもなれない」ということにもがいているからだ。
自分の中で未来にいろいろな選択肢があることを自覚している時を「若いころ」というのであれば、若いころは「何者かになれる」と思っていた。自分の理想としている自分の姿にいつかはなれるんだと思っている間は、きっと主人公・ユリヤもその確証の無い向上心が自分を支えていたはずだ。
しかし自分が「何者かになれない」ということを自覚したとき、そうではないと誰かに言ってもらいたくて仕方がなくなる。本作ではパーティでアクセルが評価されていてユリヤが蚊帳の外にいるシーンが、その境界線だった。ユリヤは誰もしらない別のパーティで踊り、後々アイヴィンから「場所をとっている」踊りだったと言われるような存在感を示した。そして自分を主役と見定めてくれたアイヴィンに痴態を晒す。そうすることで、誰かの主役になっていたかったのだ。
一方でアクセルに自分の文章を的確に分析してもらって世間から注目されると、ユリヤの振る舞いも物語としての波風も落ち着いてくる。自分自身が主役であるうちは自己実現が出来ている、という認識なのだろう。
個人的にはこの、何者にもなれないことを突き付けられたときの悲しみや、年齢とともに役割を押し付けれる苦しみ、自分の役割を自分で選んで自己実現ができている間の喜びにすごく共感して心に刺さった。そしてユリヤの痴態ともいえる行動に、怒りや滑稽さよりも悲しさを感じてしまった。なぜならその行動には「何者かになりたい」という感情がしっかりとあって、思い通りにいかないユリヤの苦心が伝わるからだ。
自分が何者かになろうとしても、世間の評価や年齢が自分の心を折ってくるあの感覚。一番辛辣だったのは本屋でバイトをするユリヤがバックヤードから出てくるカットで、スタッフ用の服の背中に「喜んでお手伝いします」と書かれていたことだ。お前は主役ではない、サポートをするポジションだ、と冷たく突き付けられ、それを背中に掲げなければならない。何者かになりたい人間にとって、これほどつらいことはないだろう。そしてその服を着たユリヤは入院したアクセルに会いに行き、母親として生きるために背中を押してもらいに行く。「何者かになる」ということを一度は諦めてしまったように見えた。
しかし流産し、物語のラストはユリヤがカメラマンとして仕事をこなす。アイヴィンはユリヤが撮影した女優の夫になっていて、ユリヤが望んだ仕事に一人没頭する姿で幕を閉じるが、その結末は「最悪」だったのだろうか。
個人的には答えはノーだ。「私」の振る舞いは確かに最悪だったが、この結末は彼女が望んだものだ。それが孤独であれ、本人がずっと望んでいるものを追い続けるのであれば、「最悪」と結論で付けるのはまだ先のはずだ。
自分は「何者かになる」を諦めてしまった人間なので、諦めずに独り前へ進むユリヤには、どうか自分が主役だと思えるハッピーエンドの未来をつかみ取ってほしい。
本作を見ている時も、見終わった後もそう願い続けたくなる作品だった。
◯カメラワークとか
・朝のなにげない一コマで時間が止まり、アイヴィンとともに高台へ向かうシーン。空想の時間の切り取りが上手だった。街の人々が動かない、というのは空想の表現でもあるだろうけど、個人的には街の中で動いているのは自分とアイヴィンだけ、という主役を夢見るユリヤの理想が垣間見えたような気がした。
◯その他
・パーティ終わりにユリヤが街並みを見つめるカットが良かった。夕方の寂しい空気感と綺麗な街並み。街並みはすごく綺麗だからこそユリヤ自身のみじめさが浮き上がってくるような。