ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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予定調和の通俗作品
この映画で主人公は最後にもっと妻と向き合うべきだったと懺悔する。こんなシーンは原作にはない。原作はあくまでメタファとしての域に止まろうとする。そこを出ると予定調和に堕してしまい、観客に1つの解釈を強要することになるからだ。この映画はその意味で人間性の闇に流行りの安直な解決を与え、原作をただの通俗作品に堕させてしまった。因みに太宰治は志賀直哉の小説を「お前のは詰め将棋と同じだ、最初から詰むとわかっている」と散々に罵っている。私はこの映画が詰め将棋にならないように、ならないようにと祈りながら観たが、最後にやはり詰め将棋になってしまった、と思った。
もう1つだけ書いておく。「ドライブ・マイ・カー」は「女のいない男たち」というタイトルの短編集に収録されている。「ドライブ・・・」のなかで劇中劇としてチェーホフの「ヴァーニャ伯父」が出てくるが、なぜ「ヴァーニャ伯父」なのか。それはヴァーニャ伯父さんもまた「女のいない男」の一人だからだ。村上春樹は登場したときからこのことだけを追究して作品にしてきた(最近変質しているが)。映画では様々な国の人をキャスティングすることで多様性をテーマにしようとしているが、このこともまた私には小賢しいことのように思えた。
村上春樹の小説
死をテーマに抱える人物たち
西島の演じる家福、奥さん役の三浦が演じる音、二人は夫婦、幼い娘を亡くしてしまう。
過去を背負いながらも良き妻であり、また同時に歪んだ性を持つ。元々女優だったが子どもの死から何も出来なくなってしまう。
少しずつ夫との性を通して快楽の後に脚本家として作品を作るようになるのだが、それは同時に夫との深い溝を作ってしまうのが切ない。
ある日、妻が病に倒れて急死する。
家福が広島で開演される作品のために、オーディションと演技指導を行うため、数ヶ月広島に滞在することになり、そこで出会った人達との人間模様にも死がある。
自分が、○○していたら、と言う罪悪感から現在の生き方が歪んでしまった、家福と似た女性が、家福が広島滞在中にドライバーとして雇われるのだが、相手を通して自分を見る事になる。
罪悪感を抱える人の辿る道が寒々しい北海道の何も無い土地へと二人を導いていく。
相手を通して自分を見た2人
その後の生き方は大きな変化を遂げた。
闇深い心理の変化を感じた。
人にはそれぞれストーリーがある。
久しぶりに映画界隈が騒がしい。出かけにちょっと時間があったので、映画館へ。始まって1時間、静かな時間が流れる。はたと、この映画3時間以上〜。出かけて、ちょっと、、、で観る映画じゃやないかも。監督も何やら話題だし、村上春樹原作なんて終わってから知ったし。
スクリーンの中では、物語が展開している。幸せそうだった主人公家福や音に起きたこと。寡黙なドライバーさんの生育歴、キーマン岡田くんなんてなんかやらかしている。登場人物一人一人にストーリーがある。そのまま掘り下げたら映画一本取れるくらいのスゴい話なのに、この映画ときたらさらりさらりと流れていく不思議。ドライブ・マイ・カーってタイトル、なんでやねん?っって考えながら3時間。あっという間だった。一人一人が自分の人生を生きている。傷つくことも沢山ある。それでも人は傷を隠したままにどこかに集い合いながら生きている。そんなあたり前の時間が愛おしいと思えた3時間だった。
日本語と韓国語、中国語に英語。韓国手話と様々な言語が飛び交っているのに抵抗なく観れている。韓国手話の子が「みんなに聞かないことを私にだけ聞かないで」今どきだよね。時代は確実に動いているんだ。
静か
言葉のやりとりがはっきりしていて、聞きやすかった。福家夫婦が愛し合ってるのは、わかったけど秘密があって、お互い話せないまま死別って後悔しかない。
舞台での最後のセリフには、涙が出た。
人生経験を重ねてから見るとより揺さぶられるものがあるだろうなと感じた。
何を言いたいのか伝わってこない
本作中に「前世ではヤツメウナギで、川の底で口の吸盤で石にくっついて、ただゆらゆらと揺れていた」と語った時、輪廻転生を深く理解した作者の作品だと思い、期待しながら最後の方まで見ていました。後半の演劇で手話の女性との掛け合いを見ていたら、生まれ変わりの理由や生きている目的、生まれてきた理由といった、高ステージの話はなく、俗物的な「悲しみを背負って、でも明るく生きていこう」的な展開にはあきれてしまいました。
こんな展開で「前世」という言葉を使ってほしくはなかったですね。
東京テレビ開局50周年スペシャルドラマ「永遠の0(ゼロ)」(向井理主演)を100点とするなら、この映画の評価は8点ぐらいですかね。
昨日アカデミー賞受賞してましたね
私は、平たく言って村上春樹の作品のファンです。
彼の書く文章が好きで、その文章に漂う時間が好きです。
彼が生きていて作品を生み出すこの同じ時代に生きてる事が心から喜びである、と思えるくらいに。
これを原作 村上春樹って言われても。
彼の書いた作品の行間とモチーフだけ使ったやつ。
行間。書いてない部分を勝手に読者が想像していい部分ですよ。
モチーフ。話のネタ、別の女の話を全部一人の女のした事として脚本処理し、された夫は全部一人でそれを傷として背負って「傷つくべき時にきちんと傷つかなかった」って、そんな浅くてご都合主義の話に感動出来なかった。
彼の使わない言語をふんだんにセリフに入れて原作って言われても、私にはそれは原作とは思えない、ということになります。
まあでも。この原作の短編集は私には一番合わないものだったけれど。
これ、高評価しないと 映画わからんやつ。
って事ですよね。
私はそれです。
途中 何十回も寝ました。
(当然 何度も見直す事になったわけですが)
冒頭の場面も、劇中劇の場面も
なんかよく理解出来ない多国籍言語の作品も。
全然 いいと思えない。
これが村上春樹?
だから嫌いなのよ。
ってなる人絶対増えます。増えていいですけど。
村上春樹の物語のエンターテイメント性を全然わかってない。
わからなくていいです。
まあ わからない人には わかる必要ない。
そう思っている村上春樹ファンは多いと思います。
吉田羊さん主演の ハナレイベイ という映画があります。
村上春樹原作です。
あの空気感はまさに村上春樹作品だった。
彼の文章に漂うように見ていられた。
この作品は村上春樹って言うな と言うくらい空気感が違う。
訳分からん系や男とか女とか性交する男女が出て来るのが村上春樹だと思ってる人がいるなら、違いますと言いたい。
わかりにくい話が村上春樹だと思うなら大間違いです。
日本語話者でない彼ら審査員は この作品の何を見て
と言うか
自分達に全く理解の及ばない感情を一切表に
出さない人種たちの映画の評価を した
んじゃないかとしか思えない。
アカデミー賞取った作品だよ!
しかも取る前から映画好きには高評価の嵐!
それを酷評(ですね) してるから まあ私ってその程度です。
でもしょうがない。
そう思ったんだから。そう書きました。
[追記]
昨日、この映画のトレーラーを見ました。
すごく良かった。
トレーラー作った人って監督じゃないんだと思う。
余計な部分が全部なくて、素晴らしい出来だった。
「3時間は冗長じゃない」
「3時間は必要」
そういう人はこのトレーラーはどう思うのか聞いてみたいなと思った。
本編もこうだったら良かったのに。
前半の西島さんやけにかわいい。
前半の奥さんとのシーン、嫌いな雰囲気の映画だと思った。
文学的って良さがよく分からない。
中盤のドライバーさんとか、韓国人夫婦とのやりとりの部分はちゃんと見たけど、後半の演劇のくだりはまた何だかなぁって感じた。手話での静かなシーンは感動するところなのかもしれないけど、早く終われって思ってた。
面白さが理解できなかった。
映画素人の自分には理解できないだけかも知れないけど、率直に面白くなかった。
長い映画だけど、ずっと何も起きないからだらだらしてる。
音の話す物語とかワーニャ伯父さんの話が映画とつながってるんだろうなと思い、理解しようとしたがワーニャ伯父さんの話は全然頭に入ってこない。
解説を見て、細かすぎて伝わらない暗喩が何重にもあるのを知ったけど、暗喩詰め込むことが面白いってことなのか?
細かすぎて伝わらないモノマネは、伝わってるから面白いんであって、伝わらないんじゃ面白くないでしょ。
だらだらした映画だから「勉強してからまた見てみよう」とも思えない。
予習とか解説無しでも分かる内容の方が楽しめると思うが、それだと賞は取れないかー。
受賞前に遠くの映画館で観ました。
地元では上映してなかったので、ちょっと離れた映画館まで足を運んで観ました。
なんでもない日常を切り取ったような映画は好きだけど、この映画のどこがよくて大きな賞を受賞したのか誰か教えてください。
村上春樹さん原作の作品を西島秀俊さん主役で、となると見逃せない作品...
村上春樹さん原作の作品を西島秀俊さん主役で、となると見逃せない作品だと思っていたら、アカデミー賞にノミネートされて(外国長編映画賞受賞おめでとうございます!)、アカデミー賞発表の前に急いで鑑賞しました。
「THE村上春樹」といいたくなるようなストーリーで、チェーホフのお芝居のセリフが多言語で展開されて、日本なのに車は赤いサーブだったり、どこの国の話だか分からなくなっていく感じと、観光名所ではない日本の風景がドライブをしながら描かれていて、車にのってどこか遠くに行きたくなりました。
丈夫な車
原作は未読ですが映画のために構築された──となっていました。
『村上春樹の同名小説「ドライブ・マイ・カー」より主要な登場人物の名前と基本設定を踏襲しているが、同じく村上春樹の小説「シェエラザード」「木野」(いずれも短編集『女のいない男たち』所収)の内容や、アントン・チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の台詞を織り交ぜた新しい物語として構成されている。』
(ウィキペディア、ドライブ・マイ・カー (映画)より)
主役は喪失──という感じ。(なのかな。)
いろいろな喪失がでてきました。
家福(西島秀俊)と音(霧島れいか)は娘を失っています。家福は音を寝取られています。家福は音に先立たれています。家福は片眼をゆっくり失明しています。みさき(三浦透子)は父親を知らず母親を失っています。
家福はそれだけの逆運に遭いながらも感情を出さずたんたんと生きています。
みさきも感情を見せずストイックなドライバーに徹しています。
つねに理性的な家福の悔恨がこの映画の結論のうちのひとつだと思われます。それは高槻(岡田将生)との対比で語られます。高槻は激しやすいタイプです。家福からみると未熟な男です。いみじくもこんな台詞がありました。
家福「きみはじぶんをじょうずにコントロールできない」
高槻「はい」
家福「社会人として失格だ。でも役者としてはかならずしもそうじゃない(後略)」
みさきの故郷へ弔いに行き、大切な者を失った者同士で感慨にひたったとき、いままで抑えていた家福の感情が噴出します。高槻は罪人になりましたが、家福のように感情を隠していなかった──少なくともじぶんに正直だった──というロジックにおいてひとつの結論が見えたわけです。
家福とみさきは埋もれた家のまえで抱き合って生き延びる決意を固めます。
総括な結論は手話で表現されるワーニャ伯父さんの有名な幕切れの台詞が、そのまま家福とみさきの行く末に重なっていることだと思います。
『「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」』
(ウィキペディア、ワーニャ伯父さんより)
これは家福の決意でもあり、みさきの決意でもあると思います。ふたりはこれから死んだ者を背負って生きていく──のですが、おそらくそれは諦観にみちたワーニャ伯父さんの台詞本来の意味よりも、明るいものとして描かれている──と思います。
みさきが最後に走り去っていく道はどこまでも続いていて「再生」といっても言いような明るさがありました。
映画には幾つかの短篇や戯曲を切り貼りしたとは思えないまとまりがありました。村上春樹にくわしくありませんが、おそらく原作を忠実に映像化したばあいより、わかりやすい決着点へ行き着いたと思います。
また濱口監督は日本/日本人をきれいに撮ると思います。──米欧韓の映画を見てその合間に邦画を見たとき日本の景色や日本人に見劣りを感じることが(個人的には)よくあります。あまり美しくないとかかっこわるいとか趣(おもむき)がないとか、もっときれいに撮ればいいのに──とおもうことがよくあります。が、濱口監督は寝ても覚めてもでも感じましたがシーナリーも人もきれいに撮ります。遜色を感じません。本編では車もきれいに撮っていました。
棒演技と棒読みが着色や偏った印象になるのを避けている──と同時に多義で多元な捉え方があると思われ──観た者それぞれが違う印象をもつであろう自由度も感じました。が、前述のとおりワーニャ伯父さんと重なる明解な結論がありました。
本作の(rotten tomatoesの)海外批評家評は断トツですがアート系映画にしては海外一般観衆評も高めなのは、その明解な結論のおかげだと思います。
しかし、こじんてきにおそらくもっとも感心したことは(少なくない日本映画を見ているはずなのに)見たことのない種類の日本映画だったこと──でした。
少し難しい
少し難しい。おおよそのストーリーは分かったけど、うっかり岡田将生扮する高槻が「同じ女を愛した男としての語り」の一部を聴き逃す。何してんだか。
妻が演劇のストーリーを作るために愛する旦那さん以外の男たちとセックスしていて、その現場を見た主人公西島秀俊扮する家福は、彼女のための行為(セックスするとストーリーが降ってくる)なので、見て見ぬふりをする。
しかし、その事が嫌で仕方なく、帰りたくない病が出てきて、彼女のくも膜下出血の病気発見が遅れたから死なせたと思い込み、悲しみの沼に落ちる。
演劇で生きている家福は、演劇に没頭し、高槻という才能溢れる役者に遭遇し、彼も妻「音」を愛した男たちであった。
演劇を進めるにあたって、訳あり運転手に女性ドライバーと人生のやり直しを二人で模索する。
作り上げた戯曲でのストーリーも良かったのかな。
「苦しくても生きろ」というセリフが俺の心に刺さる。
このくらいかな。
週1ぐらいで映画館で観ている。当初国内ではあまり評価がされなかった?ような記憶があり、上映場所も先細りだったように思う。スケジュールが合わず、見られない予定だった。
その後海外で評価され上映館も増えみることができたのだが、期待度が高い分イマイチという印象。ふーん。というのが感想だ。ただ展開が読めないこともあり、3時間は楽しめた。
あらすじとテーマ
【要約】妻を失った役者が、専属運転手との交流を通じ、再び舞台に立つまでを描く。
【あらすじ】舞台演出家である主人公には、テレビ脚本家の妻がいました。
二人はかつて幼い娘を亡くしたものの、深く愛し合っていました。
しかし実は、妻は主人公がいないところで他の男と何人も寝ていました。
主人公はそのことを知っていながらも、夫婦関係が壊れることを恐れ、話題にしませんでした。
主人公と妻とのあいだに性交渉はあり、お互い満足できるものでした。
お互いの仕事にも関心を持ち合っており、毎日共同作業もしていました。
ある日の朝、主人公に向かって「今夜話がしたい」と妻が切り出します。
主人公は覚悟の上で了承したものの、仕事から帰宅した時、妻は急病によって倒れていました。
彼女はそのまま帰らぬ人となります。
主人公のライフワークは、チェーホフの小説『ワーニャ伯父さん』の舞台化でした。
彼は演出を手がけるだけではなく、自ら舞台に立ち、重要な役を演じていました。
しかし妻の死後、彼は舞台に立つことができなくなります。
その理由は「チェーホフのテキストは感情を引き出すから」。
感情に蓋をしてしまった彼は、舞台に立とうとすると自らの感情が飛び出てしまいそうになり、耐えられないのだといいます。
それ以来もっぱら、彼は演出のみを手がけていました。
しかしある日、舞台に出演予定だった俳優の一人が、不祥事によって出演をキャンセルすることになります。
そのため、主人公は「公演そのものを中止するか」「自らが再び舞台に立つか」の2択を迫られます。
舞台に立つには辛すぎるが、大切な公演を中止したくないーしかもここまで時間をかけて準備してきた
公演をー。
葛藤する主人公は、公演期間中の専属ドライバーに頼ります。
彼女は虐待されて育ちました。
無表情で感情の無いような、淡々とした女性でした。
その彼女に頼んだのは、「彼女の故郷に連れて行ってくれ」ということ。
彼女の故郷には、土砂災害で崩壊した彼女の実家がありました。
災害が発生したとき、彼女は屋内に取り残された母親を見捨てたのです。
「自分がもっと早く帰宅していれば、妻が倒れているところをもっと早く発見できていた」ー。
妻を見殺しにしたという罪悪感から、母親を見捨てた彼女に自らを重ね合わせます。
彼女は母親に虐待されていましたが、必ずしも母親を完全に憎んでいたわけでわありませんでした。
また彼女は、解離性同一障害のうたがいのあった母親の二面性を、決して「裏表」だとは捉えていませんでした。どちらも真実であると。
そう諭された主人公は、妻の「浮気」を、「嘘」「秘密」「隠し事」だと見る考え方の見直しを迫られます。
彼を愛する妻も、他の男との愛を求める妻も、本当の姿だと。
ここにきて「嘘」と「本当」の境界をなくした主人公は、自らの本当の気持ちに気づかされます。
本当は怒っていたのに、妻に責められなかったと。
自分は正しく傷つくべきだったと。平静を装っていたと。
傷つくべきだったのに傷ついていないフリをしたことが、自分の感情に蓋をすることだったのだと。
そう気づいた主人公は、まだ喪失の重みに深く傷つきながらも、舞台に立ち、再び重要な演技を行うのでした。
舞台のラストには、「つらくても生きていくのだ」と、希望に満ちたメッセージが込められています。
【解説】
劇中に登場するドライバーは、主人公の「ミラー」です。
ドライバーを客観的に眺め、彼女の境遇を自らと同一視し、自らに重ね合わせることで、主人公は自らを見つめなおすのです。
表面的には、感情のない「能面」のようなドライバーですが、過去に傷ついた記憶を抱えており、この「仮面」と「内面」の二面性が主人公との共通点でもあります。
【テーマ】仮面と真実
舞台こそ感情の表出の場である。舞台とは、「演技」をする場所だと思われがちだが、舞台こそ、真の感情を表出する場所である。
私生活上の経験が、真に「載る」場所だ。
それゆえ、「仮面」であると思われがちな舞台こそ、「真実」であると言える。
引いては、「嘘」であると思われがちな物語、虚構であるが、まさに「真実」であるとも言える。
それでは、この物語が引き出すあなたの「真実」ーまことの感情とはなんであろうか。
この物語は、どのような人生を送っている人に響く作品であるか?
誰のために、書かれ、撮影された映画であるか?
【鑑賞直後の感想】
虚構の物語に、現実生活が肉を持って載る時。
始まりはとっつきにくい映画(物語)でしたが、主人公がなぜ自分では主役を演じられないのか、どうして役を受けるのか、という疑問点をつかみにして、主人公の私生活事情を載せてやると、虚構と現実、あるいは「物語とは」みたいなテーマが浮かび上がってくると思います。
会話場面が多く、映像的な真新しさはありませんでしたが、クリアな映像、丁寧な音響がよかったと思います。(悪く言えば日本のドラマらしい感)むだな音楽がなく、静寂を大事にしていたのもよかったですね。配役は素晴らしかった。
舞台と私生活、ということで『バードマン』(イニャリトゥ)との比較で語りたい作品です。
『バードマン』の劇中に登場する『愛について語るとき我々の語ること』の日本語訳を手掛けたのが、村上春樹です。
かしこそうな作品
「木根さんの1人でキネマ」というマンガで「アカデミー賞ってどんな作品が取るの?」という質問に対して「かしこそうな作品よ」という答えがありまして、本作は正に「かしこそうな作品」でした。アカデミー賞にノミネートっという話題性につられて観に行ってしまったのですが、やっぱり無理でした。
そもそも個人的に村上春樹が苦手なんです。10代とか20歳前後とか若い頃はよく読んでいたのですが、大人になって読むと登場人物の大人としての責任感の無さに辟易してしまって。近年の作品もキャラクターが昔っから変わらないんですよね。ずっと責任感の無い大人しか書けない作家という印象です。で、そんな村上春樹の原作の映画が好きになれるはずもなく。
車の中での告白とか時におっと思う演出はあったのですが、総じて観てるのが辛い3時間でした。
「ワーニャおじさん」買いました
日比谷シャンテそばの居酒屋で,映画好きの友人が「ドライブ・マイ・カー」どうだった?と質問してきたので,「うーん...」と言葉を探していると,彼は私の答えを待たずに「すっごく良かったでしょー」と絶賛.
友人は若いころ演劇論の講義を受けたり,映像制作にかかわっていたこともあり,いろいろと琴線に触れるところが多かったようです.
「作劇にチェーホフの『ワーニャおじさん』を選んだところが,すごい!
ピアノでいえばバイエルみたいに,「ワーニャおじさん」は初歩テキスト的な位置にあり,それだけにいろいろと奥が深い脚本,storyであって………云々かんぬん」とのことでした。
確かに,思い返すと,わざと感情を入れずに脚本読みを繰り返したり,手話や日本語以外の言語での台詞だったり,なんだか奥深そうと思います.
なので,「ワーニャおじさん」を買ってきました.読んでみます.
いたるところで高評価なので,きっといい映画なんだと思う...
いやいや,『偶然と想像』を撮った濱口竜介監督の作品なんだから,すごい映画なんだと思う.
ハッピーアワーの後で
先週ハッピーアワーを観て濱口監督に興味が湧き、
こちらも鑑賞。
5時間17分は休憩があったので良かったが、
こちらは後半カックン😴
それでも、濱口ワールドは堪能できたので
評価は3.5としました。
映像作品としては楽しめますが、ピンとこなかったな〜
異文化交流とジェンダーと少し格差社会を取り上げており、ポリティカルには正しい作品なんでしょうが、正直いって、長くて説教くさい話。あ、あとハルキね。インテリリベラルな目線感がハルキっぽい。といっても、ノルウェーの森しか読んでいないので、違ってたらゴメン。
テーマになっている演劇もさっぱり門外漢。演劇もチェーホフですからね。まあ、チェーホフなんて吉田秋生「桜の園」しかしらんしな〜。あ、もう1本の「ゴドーを待ちながら」はアニメ「SHIROBAKO」でも出てきたから、オタクとして戯曲の有名ところは嗜まないといかん、ってことかね〜。
う〜ん、抽象的なテーマで言えば「現代社会のミスorディス・コミュニケーション」ってことですかね。社会性に乏しい生き方をしている自分にはピンときませんでした。
映像作品としては楽しめると思います。アカデミー作品賞ノミネート、おめでとうございます。最近の作品賞傾向的には可能性ゼロではないと思いますので、見ておいた方が良いでしょうね。
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