ノマドランドのレビュー・感想・評価
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アメリカ再生の静かなるファンファーレ!
エンタメ、劇場系、総ロックダウンという歴史的な状況下のアメリカにおいて、果たしてこの作品を映画館で観たひとがどれほどいたのかなど予想もつかないが、これだけは言える。一本の作品の95%以上のシーンに主演が映り続ける。これを映画と呼んでいいのか?同時に世界中の多くの俳優が羨ましがる「フランシスじゃ仕方ないか」と。
アメリカの光と絶望をみてきた世代が「誇り高き『ハウスレス』」を活きる姿に涙があふれた。
「また砂漠からはじりゃいいのさ、俺たちアメリカ人は!」そんな新たなる再生の宣言と思えた。
こんな生活だけはしたくない
映像の美しさだけで映画作品としては素晴らしいけど
作品を見ただけで
車中泊生活者たちを幸せそうだとか、金に縛られない自由な人たちだとコメントしている方々は
あくまでも自分たちはこんな生活をするような人間にはならないと言う
経済的な保証を得ているからなんでしょう
排泄はどうする?
バケツを地面に置いて踏ん張るんだぜ!
その後は?穴を掘って埋める?
バケツは洗うのか?
それともそのまま使い続けるのか?
キャンピングカーだって維持費もあるだろうし
車が故障したらお姉さんにお金を借りたいなんて電話してるし
縛られていないようでも
結局は金がなくて困ってるじゃねーか
作品としては素晴らしいけど
もし、注文をつけるとしたら
一般的な暮らしをしている人から見た
ノマドに対する本音が垣間見えるような場面があったら良かったかな
序盤で主人公がスポーツショップで昔の知り合い親子と偶然に会うシーンがあって
主人公が昔、学校の代理教員をやっていて
目の前に大きくなった教え子と
思い出話しをする場面
自分だったら主人公が去った後に
娘が母親に
『先生、体臭きついね』とか言って
車中泊生活者ってこんな風に思われているんだよと
決して幸せに満ち溢れている訳ではないって演出があっても良かったかな
とにもかくにも
ノマド的生活なんてやめた方がいい
一生懸命働いて、貯金して
好きなもんたらふく食って
そしてまた働いてがんばろう
ノマド生活なんて
週末キャンプで充分味わえるんだから
魂が選択した孤独
もしかしたらファーンは子どもも亡くしているのかな、と思いました。ノマドをやめた彼の家に行き赤ちゃんを抱いている時、居心地が悪そうだったから。
もちろん経済的な困窮もあるのだけれど、彼女は信念を持ってこの生活を選んでいるのですね。近くに教会があると聞いても行かないし。
パートナーを失ったばかりの人にとって、カップルで暮らしている人を間近に見るのは、つらいということもあると思う。これは体験した人でないと分からないでしょう。だから姉の家にもいられない。
借り物のベッドを出て、自分の車の寝床に横たわった時のファーンの表情が好き。ここが自分のホームだ、という顔です。
ホームレスじゃなくて、ハウスレスよ
もっと孤独に坦々と、キャンピングカーで放浪するのかと思いきや、、、
夫との思い出が残る古い車にも、買い替えより修理を望み、色々と手を加えて愛着が強く感じられました
朝のコーヒーも、周りの人に声かけて、振る舞ったり。
でもお節介で、思い出のお皿を壊された時は、しっかり怒り、その場はシャットアウト。
欠けたお皿をボンドでせっせと修理する癒し的な時間。
残雪ある寒々とした元炭鉱の街と、ノマドの人達と夜の火を囲む集まりとの温度差の違い。
サンタクロース似の長のひとの言葉が良かった!
息子の自殺の理由や対象を憎まず、ただ悲しみを乗り越えるのは、自分の行いが供養だと。
ラストシーンに流れるピアノ音のBGMも、切なくて優しい。
なかなかの一大決心と覚悟はいるし、誤解もされるけど、強くて温かみのある話しでした。
あ、若い男子に親は心配してないの?とか詩を伝えるシーンも良かったです(*^_^*)
映画の底力を観た
スゴイ映画を観た印象。
ドキュメンタリーのロードムービーは退屈な絵になりがちで、人が絡んでくるとカメラを意識して素人は下手な演技になりがち。リアリティを追求すると隠し撮りみたいな画面構図になるが、ノマドランドはまさに映画。
アマゾンに依存するノマド生活者の話はニュースにも取り上げられているので知っている人も多いと思うが、日々の実情にこれほど迫った映像はないのでは。
広大なアメリカの大自然の美しさは添え物で、何より凄いと思ったのが終盤のノマドサークルのリーダーと主人公の対話シーン。ただのドキュメンタリー映像ではなく、映画として構図やカット割りを抑えながら、出演者はベテラン俳優と勘違いしてしまいそうなセリフや表情を見せる。
盛り上がる音楽や、演技者の過度な叫び、わめき、アクション、顔芸に慣れた人にはピンとこない場面かもしれないが、まるで奇跡の瞬間に立ち会ったような気がした。
こんな映画が興行として成り立つことに、アメリカ映画産業の底力を見たような気がする。
somethingを求めて
作品鑑賞中思い出したのは、若い頃少しだけ傾倒した寺山修司的な人生観。辛いことや絶望の淵にあっても、少なくとも前を向いて行こう。振り向かず前進しよう。少なくとも何かがある。それが何かは分からないけど、nothingではないのだと。
特にストーリーは無く、セリフもあまり多くはない。でも飽きることなく間延びすることもなく最後まで鑑賞できた。美しい景色とセリフに頼らない俳優達の演技が素晴らしかった。最後のボブの言葉が不自然ではない答え合わせのようになっていて親切に感じた。
ところでパンフレットが販売されていなかった。鑑賞した作品は必ずパンフレットを購入することにしているのだけど、こんなことは初めてだった。
アメリカの精神が大陸の自然美とともに巧く映し出されている。
夫を亡くし、職も定住地も失った初老(?)女性が、キャンピングカー生活の中で、季節労働をしながら、様々な同じような境遇の人たちと出会うロードムービー。
音楽も大きい展開もないが、彼女の生活や視点から様々な人生観を描いており、そこに何の答えもないが、終わってみれば、『生きる』という事を考えていた。
特にスワンキーという余命7~8か月の女性や、あのキャンプ地のリーダー的なサンタのおじさんの語りが、この映画の秀逸な点だった。
先日観た『ミナリ』にも通じる事だが、大陸の自然美の撮り方が絶妙に巧い。これは、本当アメリカ大陸だからこその美しさ。何もないところから何かを創り出す、また自分らしく生きるというのは、アメリカの開拓精神に通じるものがあるし、そう考えると、この土地には独特の精神が宿っているのかなあ、なんて考えた。
奇しくも『ミナリ』も『ノマドランド』も同時期公開で、アジア系アメリカ人監督作品。
昨今のアジア人ヘイトクライムなどが報じられる中、アジア系アメリカ人がアメリカの精神を映画にしたのは何かの偶然か。
寂寂とした世界観が色濃い、新たなるロードムービー。
劇中にAmazonの季節労働者の話が出てきたり、私が今まで観てきたロードムービーとは少し違う趣きで、現代社会のリアルさを物語に挿入することで、さらに寂寂とした世界観を色濃くしている映画。バギーツアーの観光客とトレーラーハウスのノマドの民とのコントラスト、砂漠と枯れた山並みとピンクに染まる美しい夕焼けの切なさ、企業が死に町が死に、それでもそこで生きる人がいる。昔撮影で二週間ほど滞在したアリゾナの風景はまさにあんな風だった。
「パリ・テキサス」や「バクダッド・カフェ」とはまた違うところで心の奥をツンと針の先で突かれるような映画。「スリービルボード」といい、フランシス・マクドーマンドの演技は強力のひと言。終盤にファーンが雨の岬で空を仰ぐカットは、全身で自然のパルス受け入れようとする、まさに魂の解放そのものだった。私もそのパルスを感じて心にさざ波が立った。
実はオムニバス仕立て。
スリービルボードは好きで、フランシスマクドーマンドと町のしがらみのモヤモヤも上手く描けていたし、ラストも好きだった。
いくつかの賞で話題になった今作も映画好きには注目の一作だった。
しっとりと始まり、しっとりと終わる。
終始、いやらしく無い湿り気が心地よい、アメリカの大地の壮大さが伝わるロードムービーで有り、実は細かい章毎に別れたオムニバス映画だと思う。
行く先々での出会いで人との心の触れ合いを描く作風をとてもすんなりと受け入れていたけど、ああ、これは深夜食堂と同じ作りなんだなと気付いたら、全てがすんなりと収まった。
これは、主人公をフィルターにしたそれぞれの登場人物の人生の旅路を描いていたんだなと。
結果、主人公自身は冒頭の出来事を彼女なりに乗り越え、そして今の生き方と向き合う。
自由という素晴らしいモノを手に入れつつ、死の厳しさが常に背後に迫っている。
彼女たちは前に進む限り、目の前の進む道筋は自由に選べる。
そういうメッセージを感じた。
感染症の恐怖で箱の中に閉じ込められた生活を強いる我々には、希望というより、憧れの世界だと思う。
生き方を考えるとても優しい良い映画だった。
P.S. 膝が痛くて、只者じゃ無いデブから、ただの膝の痛いデブにレベルアップしました。
アメリカ型資本主義に取り残された高齢者達
映画.com3.8 108分
フランシス・マクドーマンド、『スリー・ビルボード』を観て、作品と女優の世界感に引き込まれた。
この作品は、フランシス・マクドーマンドが原作に衝撃を受け、映画化権を買い、監督も指名したとの事。フランシス・マクドーマンドの世界感になっているのは、当然ではある。
出演者も、ほぼノマドの人達!キャストが役名と名前がほとんど一緒だったのも頷ける。
進化するIT・拡大するEC市場により求人の変化、取り残される高齢労働者、拡がる貧富の格差、自由の象徴のようなVANLIFEではなく家を失った為NOMAD生活とならざるを得ない。
彼らはアメリカという国に流されただけ…
それでもファーンは自由を求めてNOMADの生活に戻っていくのが、いかにもアメリカ映画らしい。
自分の願望が強すぎて、、
1991年夏にニューヨークからロスまで自転車で横断した。
23歳の私がその時思ったのは、日本での何気ない日常生活の
大切さ、貴重さだった。走りながら
ふと頭をよぎったのは、「帰ったら日常生活であれしよう、これしよう」という「日常への
想い」だった。
今回、ノマドランドの主人公に感じたのはあくまで「放浪」VS「日常」という
対比だった。ノマドの生活を続けるほど、日常に戻れない、戻りたくないと思う
ものなのか、、、
私のような遊びで自転車旅行した若者と異なり、主人公は
人生=仕事という側面でノマドを強いられている。だからこそ、主人公には
ノマドを強いられても「日常への想い」を持ち続けるような人であってほしかった、
という勝手な願望を抱いてしまいました。
羊がいれば
ノマドとは遊牧民を意味するそうだ。でも、この映画に出てくる人々は、別に生き物を育てているわけではなく、定住してないだけ。個人的にはこの生活を遊牧民のように言うのは、なんか違うなと思う。羊連れてればいいけどね(笑)。しかし、こんなに厳しい生活している人が多いのか、アメリカ。アメリカン・ドリームって、いつのこと?
食べるシーンがよくある。だけど、食事を楽しんでいる感じがあまりしない。限りのある調理道具で缶詰を温めたり、栄養のバランス悪そうであまり健康的ではない。労働で疲れた体に、エネルギーを補給するために食べてるみたい。
なので、デイブの息子の家で出される料理を真っ当な食事だと思いつつ、ファーンの身になると、自分まで気がひけてしまった。デイブは息子と距離があるように言っていたけど、並んでピアノを弾いたり、すごく仲良さそう。嫁も優しいし、孫をあやしたりする生活に満足している。その上、妻(だか彼女だか)まで欲しがるとは、欲張りじゃないだろうか。しょせん彼のノマド生活は、かりそめの姿だったわけだ。
ファーンは、家を捨て、思い出の品々を捨て、自分1人で生きている。いつか限界は来るだろうけど、それでも自力でやっていける限り、続けていくのだろう。今は昔の写真もお皿も持っているが、そのうちこれらも捨てる日が来るような気がする。
スワンキーが、今まで見た美しいものを語る時、自然の風景のことしか言わないのが気になった。家族や友達など、人間との情愛や触れ合いはどうだったんだろう? ないわけないけど、いろいろあって、人間から距離をとっているのかな。なにげに共感できる自分がやばいかも。
現代社会で貨幣も使わず、エネルギーも使わず、通信も使わずに生きていくのは不可能。特にガソリンを切らしたら死ぬので、そのために働くというのが本末転倒な感じ。太陽光パネルと通信機器搭載のキャンピングカーがあれば、ガソリンを買わなくてもいいなぁ。でも、その車自体が高いか。
映画見た後、資本主義経済について考えていたら、牛で例える話を思い出した。「君は2頭の牛を持っている」 資本主義なら雌牛1頭売って、雄牛を買って増やすのが定石。でも、全ての人がこの通りにできるわけじゃない。増やすどころか減らす人もいるし、たくさん持つ人とそうじゃない人の差は広がる。牛は例えだけど、資本主義もそろそろ行き詰まってる感じだし、近い将来新しい形ができるような予感がする。せめて年取ったら安心して暮らせる世の中であって欲しい。
ほんとにこの映画にはかなり考えさせられた。私も10年後くらいにはこんな風になっているかも。年金支給は延ばされ、バイトで食いつなぐとか。キャンピングカーでは暮らせないけど、プランターで野菜を作るとか、工夫して生きていかなきゃなー。
ノマドというより?
遊牧民という言葉に、壮大なイメージを期待して観に行ったが、ただの車を持ってるホームレスという感じ。仕事もあんなに簡単に見つかるものかなぁ〜?でも、ノマド仲間の「別れる時にさよならと言わない。また会おうと言う。」みたいなセリフだけが印象に残った。ラストに主人公が元住んでいた家に行って、裏庭の砂漠に出るシーンを見て、彼女は家があった時からノマドだったんじゃないか?少し思った。
ノマドの生活でしか…
自分の存在意義を見出せないのかもしれない。
主人公のファーンを見ているとそう思えてならない。
働いていた工場や夫、家、街ごと無くなってしまった事で、車中生活をしなければならない。
ましてや高齢になったとなれば、自分だったら絶望感に苛まれてしまう。
観ていてとても辛くなりました。
同じような境遇のノマド達も、片や家族とともに家に戻る人もいる、片や自分の目指す場所に行く人達だったりで…。
ファーンも、お姉さんやボーイフレンドから、失った家に戻れるチャンスがあったのに。
そういえば、夫との思い出があるバン🚌と言っていたなぁ。
ハウスレスじゃなかったんだな。
でも何処かに安住の地を見つけてほしいと、そう思った。
マクドーマンドの体当たりぶりは半端じゃない
フランシス・マクドーマンドの体当たりぶりは半端じゃない。だけどこの映画がどうして評価されるのか理解できない。根底には、定住文化の日本人と、フロンティア精神が残るアメリカ人の開拓民文化の違いがあるのか。「アメリカの原風景なのよ」とか言うセリフがあったとしても、それが大多数のアメリカ人に刺さる言葉とは思えない。一定数、そんな人々がいるなあという認識程度ではなかろうか。
編集は巧みで、ものすごい情報量をぶつ切りにして繋いであるので、セリフのつなぎ目がない。どちらかというと、登場人物がすべて独り言をつぶやいているように聞こえる。たまたまそこに、マクドーマンドが居合わせているだけのように。特徴的なのは、絶対に目を合わせないでしゃべっていること。ちょっとアメリカ人の印象が当てはまらない。だからこそ、ものすごいリアリティを感じた。音楽も、たまに情感を強調したピアノソロなんかがはめられているが、基本的には状況音しか入らない。例えばラジオから聞こえてくる音楽とか。みんなでキャンプファイアしながら合唱する歌とか。
そんなこんなで、意外にいろいろと事件が起きているのだが、お気に入りの皿が割れてしまった。とか、文字にするとその程度のことが積み重なっていくだけのこと。ゆっくりと時間が流れているかのような錯覚を起こす。これが、老人にとっては目まぐるしい変化なのだろう。放浪の一年を通して、彼女の身の周りがどんどん変わっていく。
或るミュージシャンと知り合った時、彼が「ツアーの時に、その土地土地の断酒会に顔を出し、地域性や風土を知る。それがその街を知る一番早道だ」なんてセリフがあった。とても印象に残った。
時間があまりないので、多分もう二度と見ない映画だと思うのだけれど、眠れない時にずっと流してぼーっと見ていたいとも思う。不思議なテイストの映画だった。ただ、若い人にとっては退屈で、良さが伝わらないんじゃないのか。そうじゃなきゃいけないとも思う。だから賞なんかとって欲しくない。
人よりも勇敢で素直なだけ
…というお姉さんの言葉が、心に残った。
一見、社会的弱者にも見えるワーキャンパーの人たちのなんと自由なことよ。でも自由って過酷。まさに自然。
家族のもとに戻り定住する人もいて、戻らない人もいて。どっちの生き方も否定も肯定もせず、説教くさいでもなく、人生が染み渡るいい映画でした。
自分はどう生きたいかな〜とか、考えさせられる映画でもあるんだけど、逆に小難しく考える必要はないよって思える映画。
保険だなんだ、家族だなんだ、家だお金だ、なんだかんだ、持てば持つほど、安心を得れば得るほど、動けなくなっていって最後は棺桶のサイズにすっぽり収まってしまう。それでいいのか?
最後に荷物を全部処分できる主人公に、少し嫉妬してしまう。僕には勇気も素直さもないかなぁ。
カヤックおばちゃんも最高でした。
ここで人生完成だなんて思える瞬間、なかなかないよね。
あと、ドキュメンタリー的な面白さもたくさん。
Amazonの配送場すご!
ジャガイモ畑ヤバ!
車の改造おもしろ!
みんな愛車に名前つけるの可愛い。
映画って、誰かの人生を経験することができる、すごい装置だなと思った。
新年に、毎年つけてるカチューシャがなんかいいよね。
さよならではなく、またね
生き方を尊重しつつも、その年で車中泊?!季節労働者?!車が故障したらやっていけるの?病気になったらどうする?という世間の目。
しがらみもなく、自分には出来ないことをやれている。そこは正直羨ましくさえ思った。もちろん好きで家や仕事を失ったわけではないけれど。
自由なノマド妹に、素敵な家に住んでいる姉はおそらくそんな気持ちもあったことでしょう。
自分には出来ないし、日本では無理だから、余計に羨ましく思ってしまったのだけれど。そういう車専用の施設がちゃんとあるアメリカはやっぱすごいわ。
集会は若干宗教的な雰囲気も感じたが、ミニマリストとして、敢えてそういう生き方を選ぶ人もいると思う。
息子家族と暮らし、ノマドではなくなった友人を訪ねるシーン。ノマド仲間としては淋しさを感じるだろうが、お互い押し付けることもなく。歩み寄るというより、距離を置くことでうまくいくのも。
最後、息子さんを亡くしたノマドの言葉が刺さった。
生きている間、いろんな人との出会いや別れがあるけれど、さよならとは言わなくていいんだね。
誰とでも「またね」と別れられれば、淋しさも半減するかな。
スリービルボードでは終始怖い人というイメージのマクドーマン、この作品でもやっぱり男勝りな雰囲気はあったけど、女性らしさとかお茶目な一面も見られた。
タイトルなし(ネタバレ)
リーマンショックの後のこと。
米国ネバダ州にある石膏大企業の企業城下町は、その企業の倒産とともに地図から姿を消した。
町そのものがなくなってしまったのだ。
60代のファーン(フランシス・マクドーマンド)もそこで暮らしていた一人だった。
石膏企業で働いていた夫が死んだ後も住み続けていたが、町がなくなってはどうにもならない。
そこで彼女が選んだ残りの人生は、全米をヴァンで移動しながら季節労働の現場を渡り歩くノマド(遊牧民)の生活だった・・・
という物語で、季節労働の現場現場で知り合う人とのも交流が描かれるがストリーとしてはこれだけである。
しかし、心に沁みる映画である。
なにが心に沁みてくるのだろうか・・・
つらつらと考えているうちにたどり着いたのが「喪失感」。
夫を亡くし、町もなくなった。
残されたのは、自分ただ一人。
そして、残された自分のまわりに広がる米国西部の土地と風景。
茫漠とした喪失感と対峙する茫漠とした風景・・・
主人公ファーンは常に「対峙」しているようにみえる。
オートキャンプで見知った仲間たちと出会っても、すぐには輪に加わらない。
孤独というのとは少し違う感じがする。もちろん、孤立とは違う。
対峙しているのは自分。
内省している。
しかしながら、内省し、喪失感を抱いているのは、周囲にいるノマドの仲間たちも同様である。
ノマドの仲間たちは、もう老境にはいった人たちも少なくない。
その歳になれば、何かしらの喪失感を抱えているのは、ごく自然なことだ。
リンダ・メイもスワンキーもボブ・ウェルズもそうだ。
そんな彼らにファーンは共感し、ファーンと同様に観客も彼らに共感していく。
リンダ・メイもスワンキーもボブ・ウェルズ、かれらノマドの仲間たちは、実際にノマド生活を送っている人たちで、監督のクロエ・ジャオはそんなかれらの心情を上手く引き出している。
よくよく観るとわかるのだが、かれらがひとりで語るシーンは、かれらが自分自身のことを語っている。
監督がインタビュアーとして、かれらから言葉を引き出したのだろう。
映画では、それらをファーン演じるフランシス・マクドーマンドが聞いているように編集で上手く繋いでいる。
仲間と共感・共鳴しながら、喪失感と折り合けていく・・・
底にあるのは、米国の自由の精神だろう。
相手の自由を認め、相手の自由を束縛しない。
裏を返せば、自分自身も他者に認めてもらい束縛されない、ということ。
そう考えると、日本とはまるで生き方考え方が違う社会だ。
老境の、そして白人たちばかりの、ノマドたちの暮らしに、米国の原風景をみた思いがしました。
足さず引かず
何だろう すごく期待感が大きかった。 ちょっと肩透かしだった。
でも気分は悪くない。
俳優が演技してることすら忘れる演技と没入感。
俳優2人以外、他全員本当のノマド。
このことがフィクションなのにノンフィクションのような境目を彷徨うような不思議な心象にさせている。
宵闇、曇り、排泄、アマゾン、皿(驚いて前のめりになった)、郵便番号が抹消された町
漂流(遊牧)しつつ、季節労働は現代に一番欠かせない物流・ファストフード・娯楽という対比に、
この時代に何にもしがらみが無く生活できる場所と自問して小学生回答しか思い浮かばず。
例えば自分の家の裏手がどこまでも開けた砂漠で愛着も感じてて、そこを強制的に追いやられて次に住むところを考えてみる。
それは海の近くに生まれた人が海の無い土地に住むのを強いることに似てるのかもしれない。
そう考えると、代わりになるような土地を彷徨うように探すかもしれない。
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