ノマドランドのレビュー・感想・評価
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孤独と孤立
自分にあるものと自ら捨てたもの、始めからないものそれがこの映画の中で詰まっている様な気がしました。
主人公の女性は、大企業のAmazonで働く中家を持たず大型トレーラーで生活をしていく。
旅をしながら新たな仕事を見つけ、そこでの出会いがある。ぱっと見は、何かロードムービーの様なイメージだけど、実際にはそういう感じとまた違っていた。
孤独と孤立
これは少し似ているように聞こえるけど、僕自身の解釈だと少し違ったもの聞こえる。
孤独は、なりたくて自ら選んだもの
孤立は、なりたくてなくてもなってしまったもの
この主人公は、孤独を選択して自分自身に生きる事とは?テーマに生活していくそんな感じかと思いました。
人によって見方が変わるので、また別の時にみたら違った見え方がしてくるかもしれないと思いました。
こんな人にお勧めです。 ・人生に絶望を感じて全てを放り出したい人。 ・役者の演技力を感じたい人。
映画を観ながら、謎かけを出されているような気持ちで観ていました。
ファーンが胸の内に抱える苦悩はなんだろう?
序盤はずっとそのことを探しながら観ていました。
映画は静かにノマドとして生活する人々の姿を描き、彼らが持つ貧しさへの拒否感や人生への後悔、そして社会への不満から、背景にあるアメリカという国の現状とノマドの人々の現実を浮き立たせていきます。
そして淡々とノマドの人々と関わるファーンの日々を描く中で、彼女の亡き夫への思いと社会への拒絶が明らかになっていきます。
彼女の中にあった、おそらく彼女自身が子供の頃から持っていたであろう社会への違和感のような物、そして夫や町の人々を失った喪失感。
その2つは密接に結びついて彼女の自己を形作っていたように思いました。
違和感として感じたのは、彼女自身が社会で暮らす人々と衝突し、また誰かから手を差し伸べられることに対してその多くを拒んでいた部分です。
ホームセンターで同じ故郷に住む女性や、ガソリンスタンドの店主、実の姉や、彼女に好意を寄せるデイブなど。
そこには自身を異質と認め、誰かと交わることで彼らの世界を乱してしまうことへの恐怖を感じているように思い、それが彼女の違和感であり、社会から感じる疎外感のように感じました。
喪失感は、彼女がかつて家族の元を離れ、夫と築き上げた新しい場所での生活、夫を亡くした後もその土地で生きていたものの、その土地自体がなくなってしまった事実。
社会に違和感のある彼女だからこそ、やっと作り上げた居心地の良いコミュニティのような世界を無くした意味は大きく、もう一度、貴賤で人の価値が決まるような社会に戻って生きていくのは難しかったんだと思います。
ハウスレスと言いながらかつての土地の近くで車上生活を続けていた彼女は、この喪失感を抱え、なおかつ疎外感から社会にも入っていけず、動けないノマドのような存在だったのだと思います。
彼女が生活を求めてノマドのコミュニティに参加したのは本意ではないように思いましたが、その後、多くのノマドと接する内にその世界へ傾倒していくのは自然な流れのように感じました。
特にスワンキーとの出会いは大きかったように思います。
不必要な物は持たず、記憶と思い出に向かい合い、生のあるままに心が欲する物を求めてバン一台で放浪する生活。
かつての記憶と向き合いながら、それ以外の物に縛られることの少ない生き方、そして時に自然の中に溶け込み、自身の存在をその中に感じる生き方は、彼女自身の喪失感と違和感を受け入れてくれる生き方のように思いました。
ラスト、冒頭で捨てられなかったレンタルルームの荷物を処分した彼女は、出発点の街と家を訪れ、もう一度旅慣れたバンで走り出します。
かつて失意の中で生活を求めて旅立った場所に戻り、今度は少しだけ気持ちを軽くして、新たにノマドとして旅立っていったように感じました。
彼女の新しい旅が心を癒す平穏の旅であり、多くの仲間と再び巡り合えることを祈りたい気持ちになるラストでした。
映画としては、美しい景色と、感情に直接響く音楽が素晴らしく、ファーンの心情を受け入れる手助けになっていたように感じます。
音楽はルドヴィコ・エイナウディ、『最強のふたり』でピリピリする感情をあらん限りに表現していた方です。
今回も素晴らしい仕上がりでした。
役者としては、フランシス・マクドーマンドがひたすら凄かったです。
ファーンの感情は大きな波や小さな波でひたすら動き続ける謎かけのような感情でしたが、穏やかな口調で芯の強さも感じさせながら全てを丁寧に演じきった感のある演技でした。
『ファーゴ』に続いての視聴でしたが、今作でもアカデミー賞の主演女優賞を取ったそうです。
※ブログの方ではもう少し加筆しています。
※興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
どっちが良いとか悪いとかじゃなくて
ノマドの人たちの生活は、もっとキツいのかもしれないけど、それも映画の端々からちゃんと感じることが出来て、車の窓を叩かれてビクッとするところとか、お腹をくだすところとか、この映画の中では怖いことは起きないけど、たまたま起きていないだけで、起きることもあるだろうというような。
ノマドの人たちの教祖のようになっている人は、胡散臭くも見えたけど、悪い人じゃなくて、良いことをしようとしてる人だった。
みんなで集まって生活しているところは、お祭りのような、フジロックのような、でもずっと続くわけじゃなくて、時期が来るとみんな散っていく、たまたま会っている間の交流だけで、また会えるかもしれないけど確かではない、という繋がりだけというのは、寂しいように思うけど、繋がり方が違うだけで、繋がってないわけじゃなくて、、、
妹の家や、デイブの家で過ごしてる時の、ファーンの居心地の悪そうな様子が見ててハラハラした。
家族と住む家がある暮らしとノマドの暮らしは、対象的に描かれていたけど、どっちが良いとか悪いとかじゃなくて、どちらの暮らし方もありえるんだと知ることで、今私には帰る家があるけど、、、たまたまそうなだけで、、スミスの歌詞のように、家とは心の中にあるもの、だとしたら、私の心の中にある家は、、、と考えながら映画館を出ると、まだ明るくて、ああ今日は夏至だったなぁと思いながら、
フランシス・マクドーマンドが、とっても良い!
本当の自由は孤独でいる事
あらすじ
米国ネバダ州、60歳を超えて、夫を失ったファーンは、働いていた鉱山の資材会社が倒産し、職を失うだけでなく長年住み慣れた家まで失ってしまった。この機会にキャンピングカーに、大切なものをすべて積み込んで、「ノマド」(遊牧民)として生きることにする。年金などまったく当てにならない。移動する先々で仕事を探して働き、現金を得る。ときにはパートタイマーのアマゾンで箱詰めの仕事、時には掃除婦、時には季節労働者となる。同じノマド仲間同士の互助会もあり、そこには資本主義社会からドロップアウトした人々の貧しいながら助け合う集まりもある。ファーンは働く現場で知り合った人々と、ゆるやかな交流をしながら、淡々と移動を続けていく。
というストーリー。
主演のフランシス マクドーマンドが、とても良い。他の女優がやっていたら、ただの演技になっていただろう。彼女ほど孤独が似合う女優は居ない。彼女とデイブを演じた役者以外に役者を使わず、実際ノマドの生活をしている人々を使って、半分ドキュメンタリーのように撮影したそうだ。
自然がいっぱい。壮大な自然のなかで暮らす人々の小さな存在が映し出される。ファーンは、人よりも、自然を愛する。海沿いを走っている。車を止めて、ひとり大きな岩の上で波しぶきを浴びながら塩風を胸いっぱい吸い込んでみる。キャンプ地で、すべてのほかのキャンピングカーが立ち去った後、地平線に沈んでいく太陽をひとり、いつまでもいつまでも眺めている。そういったシーンをカメラが動かず、じっと捕らえる。
そんな彼女も、小さな恋をする。小さな町の観光ガイドの男に、心惹かれ一人で岩から岩に隠れてみて、相手が見つけだしてくれるのを待ってみる。そして男がちゃんと追ってきて、呼び戻してくれるのを見て満足する姿は、テイーンエイジャーのように可愛らしい。それでいて、男に求婚されると、迷いもなくサッサと立ち去るのだけれど。
自分による、自分のための、自分だけの人生を、しっかり生きている。自然と一体感を持ち、だれにも優しく、窮地に陥ると助けを求めるが、助けを押し付けず、すべての人と間隔を置く。徹底し個人主義だ。それもとても強い個人主義。誰にも決して嘆きや、苦情や、身の上に起こった不幸などを打ち明けたり、ぶつけたりしない。だから自分が情けないなどとは感じない。自分がホームレスや、社会的落ちこぼれだなどとは信じていない。自分の人生を自慢したり、人と比較して、自分が不幸かどうかなどと測ってみたりしない。淡々と自分に与えられた状況そのものを、楽しむ。執着心のない、透明な人格。
キャンピングカーが、もう修理に時間も費用もかかるので、買い替えるように勧められるが、「この車は私なの。私の家、家以上の存在なの。」と言って、修理に修理を重ねる。車が死ぬときは彼女が死ぬ時だ。思い出の深い皿が割れてしまうと、新しい皿を手に入れようとせず、接着剤で直して使い続ける。どんなに気に入っているものが大切か、それだけは譲れない、自分のものを持っている。映画にはヒッピーも出てくる。家出少年も出てくる。彼らとの交流も互いに尊重しあいながら、決しておせっかいをせずに優しい。
人生は、すべて自己満足。人と比べず自分の価値観に従って生きれば。それが一番幸せな人生だ。
他人には何も求めない。他人に何かを期待すれば、執着心が出てきて期待がかなえられないと自分が傷つく。他人から与えられれば受け取るが、それ以上は期待しない。彼らの生き方は、托鉢で与えられた食べ物だけで命をつなぐ修行僧のようなストイックな生き方を思わせる。
孤独という、何にも代えがたい自由の喜びに満ちた生き方だ。とても勇気付けられた。孤独は怖くない。何という豊穣な世界か。
日本にもこのような漂流して生きていく老人が増えていくことだろう。
アメリカの大自然の映像が静か、かつ、重力を感じた。
デイブの家を訪ね、彼から一緒に住まないかと言われたシーンでは、ファーン、一緒に住まなよ!っと声を掛けたくなった。でも、きっと、そうしないんだろうなとも思った。
最愛の夫や、最愛の町を失ったファーンにとって、これからの最後の人生、同じように最愛のものが消失してしまうのを目の前で受け止めることはもうしたくないのかもしれないな。ノマドの生き方のように、さよならではなく、またね、と。
大自然の映像は素晴らしかった。石や砂や山や広い大地は、日本に住む者にとっては想像以上の大きさだ。
大自然と主人公の生き様に感動
家も旦那も無くしたおばさんが
キャンピングカー生活を始める話。
自身の価値観が問われる作品でした。
一緒に観た人は「あんな生活は絶対ごめんだ」
と言ってましたが僕はなぜか惹かれました。
不自由や困難なことはたくさんあるけれど
大自然の中で社会や貨幣にしばられない生活は
自由で優雅で難しいことを考えなくてよい!
キャンプが好きだからなのかな?
とにかくキャンプしたくなりました。
キャンプと一緒にするなって話ですが。
劇中には多くの過去を持ったノマド(放浪者)が
登場します。すごくリアルだなあと思ったら
実在する人もいたんですね!
観た後レビュー等で知りました。
どおりでリアルだと思った。
彼らは自分の目的や夢に向かって
ノマドランドを立ち去りますが、
主人公はそれを見送るばかりで
ひたすら放浪を続けます。
彼女の居場所は見つかるのか、
やはり元の家しかないのか、
答えは僕にはよく分からなかったですが、
他人に流されない自分を貫く主人公の生き様に
感動しました!
ロードムービーという位置付けのとおり、
劇中は多くのアメリカ絶景が出てきます。
それを大画面で見れただけでいい気持ちになれます。
タイトルなし(ネタバレ)
失ったものをどこか探し求めてる、それを何かで埋めようとか、新しい居場所とか、もしかしたらまた会えるんじゃないかとか、そんな感情が作品から溢れ出ている気がします。
なんていうか物って捨てられないんだよね。
自分で手を加えたり、長く使ってきたものって思い出や愛着出てくるから手放せないのはわかる。
それこそ愛する人と一緒に住んでいたときの家財を処分するなんて本当に辛いし、無理だ。
自分も最近の断舎利ブーム?で結構物捨てるので捨てちゃえばいいのにって思うけどやっぱり捨てられない!
賃貸ガレージ?取っておいた物を捨てたときは何をおもったのかな。
そういうタイミングがくるまでってやっぱり時間が必要だと思う。
思い出のあるものって時には足かせになってしまうときもあるし、バーって全部捨てて身軽になりたいって思うときもあるけど、一方で帰る場所があってそういう物に囲まれてる空間(家)ってのもすげー嬉しい事なんだよね。
この作品はそういう要素が良い感じのバランスで描かれていると感じた。
変わり果てた社宅の裏から見える景色はどう映っていたのか。
夫と一緒に住んでいたときとは違って見えたのかな。
デイヴや姉に一緒にくらそうって言われても断り、ノマドでいることを選んだことに答えのひとつがあるのかもしれない。
あとAmazonね。いやなんとなくはわかるんだけど現実味もあるんだけど、心の中でAmazonで働く描写に少し引いた(笑) ほんとにちょっとだけ。たぶん何かに期待してみちゃってるのか。
あとあれだスマホあれば世の中だいたいなんとかなるんじゃないかとすら思えてくる。
GPSとか使えるテクノロジーは使いまくって何かを探すなり空いた穴なりを埋める。死んじゃいかんし、ある程度の保険は大事。
アナログとデジタル、バランスよく付き合って生きていきたいな。
もう少し死に近づくか、死を意識するような体験があるともうちょい共感できたりするのかな、と思ったりもした。
人生に対する老いと孤独について、問題っていう認識じゃないけど、問いかけや自分なりの答えを探すのは難しい・・・。
自分はしないけど、これも1つの生き方
アクションとかサスペンス、アニメ、アドベンチャー系などが好きなので、
ドキュメンタリー風なタッチの映画なら見ないつもりでいたんですが、アクセスランキング上位に来ていて気になり始めて鑑賞しました。
ある程度レビューも読んでいたので、淡々と主人公の生き様が描かれていることは分かっていて、「起承転結が無い日常をただ描いているのは逆にどうやってこの映画を終わらせるんだろう?」とそこに興味が湧いてきました。
おそらく伴侶を無くした場合、高齢だと体力的な問題もあって大抵はその家から完全に離れられる人は少ないでしょうけど、
いつまでも伴侶のいない家から、景色だけは変わらずそこに残っていることに耐えられない時、もしまだ体力があるなら、
「伴侶がいた時は見たことが無かった景色を見ることで、伴侶のいない空虚な気持ちを和らげる旅」に出ることを、主人公は選んだのかもしれないな、と思いました。
きっと伴侶がいた時の、同じ砂漠の景色を、同じ窓から自分1人だけ見ていることに、主人公は耐えられなかったのかもしれない。
でも、現実的には自分ならその都度稼ぐ旅暮らしはしないし出来ないだろうな、と思いました。職を転々と変えるということは、ふらっと立ち寄る人でも出来る仕事ということ。つまり来年もまたAmazonとか、今年短期就職した場所に、年齢が上がってもまた雇ってもらえるかは不透明。そして来年になり年齢が上がるほど、立ち仕事とか掃除の仕事もある程度体力が必要だし、雇う側になればなるべく若い体力のある人を雇うと思う。
そんなに、年に何回も就職活動しなきゃいけない生活はしたくない。それは無理。なんとか出来る職を見つけたら、なるべくそこに長く留まりたい。
主人公は臨時教員にもなってた。それなら教師を続けたらいいのに、安定してるのになって思ってしまいました。まぁ、最初から勤務年数が決まってたのかもしれないし、本人が永続勤務を希望しなかったのかもしれませんが。
多分、80歳とかになったらいくら車が運転出来てもAmazonとか倉庫のピッキングとかの仕事は就職出来ないと思うし、年金以外に仕事もするとしても、もう少し体力的になんとかなることを探さざるを得ないと思う。
ただ、伴侶が無くなったあと、人によっては子どもが先に他界した場合などで、どうしてもそのまま今の家に留まり続けることが精神的に辛すぎる時、
ある程度体力がある人は、気持ちを落ち着かせるために、完全な答えが見つけられなかったとしても似たような辛い境遇の仲間と出会う中で、自分なりに喪失感や空虚感に折り合いをつけるための1つの手段として、
3年だけ、とか期間を区切って放浪の旅に出るのは悪くないのかな、と思いました。
私は映画を見たりするために少し家を出るのは好きだけど、やはり終わったら家に帰りたい。布団とお風呂とウォシュレットのトイレが無い生活に何年もいたら、そのほうがストレスで無理です。何を見ても伴侶を思い出すとしても、その中でどうやって1人で生きるかを全力で探したい。その日暮らしはしたくない。
ふと、亡くなった祖父が、祖母を亡くして15年以上気丈に暮らしていたことを思い出しました。それまでしていなかった台所に立って孫の私の為に時間がかかってもお好み焼きを作ったり、祖母と一緒に通った近くの畑にも行っていて、多分祖母との思い出を辿りながら、そのままその家で暮らしていたのかな、と思いました。
でも、映画として、これも1つの生き方なんですよ、と提示したことは理解しました。人はみんなそれぞれに違うので、自分なりを生き方を見つけられたらいいんじゃないかな、と思います。こういう切り口の映画は初めて見ました。
喪失感の埋め方
その昔(か、ちょっと前か)にミニマリストという生き方が取り上げられていて、住まいこそあれど、必要最低限の物だけで生活する若者が話題になっていた。
あまり予備知識や先入観を持たずにこの映画を鑑賞することにしたので、単に都会の喧騒や物質主義から離れるために、最低限の必要物資だけで放浪生活を送る人の話かと思っていた。
物語が進むにつれわかってきたことは、愛する人、大切な人を失った後、どのように自分の人生を過ごすか、がこの映画のテーマなのでは、と個人的に思った。
誰かのために生きてきた人が、パートナーを失った後、自分の人生に生き甲斐を見つけるのは容易ではないだろう。
この映画のように、キャンピングカーでの生活は、なかなか日本人にはイメージしにくいが、過去の生活や思い出に一度訣別して新しい人生を模索するためにどう生きるか、という点では大きなヒントとなるだろう。
大きな事も起きないが、ジワジワくる。
夫が亡くなり、夫が働いていた工場も閉鎖、それに伴い町も閉鎖され、家を失ったファーン。
キャンピングカー暮らしを始めて田舎を転々とする。そこでいろんな人に出会うという話。
その中で一緒に住もうと姉や季節労働で知り合った同僚に言われるものの、それをことごとく断る。
それは亡くなった夫との思い出を大切にしたいから断っていたことが分かるものの、それを尊重し助ける周りの人々。登場人物はほぼ本名で、ロードムービーとドキュメンタリーの間といったところ。
日本では住まいを持たず、ホテルや共同生活を転々とする若者がよく取り上げられるが、アメリカではリタイアした世代が社会から置いてけぼりにあい、ノマド生活をするケースが多いようだ。ただ、年を重ねるたびに、病気のことや体力低下などノマド生活に支障が出てくる。それとどう向き合うかというのもこの映画のテーマの1つだといえるだろう。
ハウスレスという生き方
物に溢れている現代社会の中で、この作品中に出てくるノマドたちは自然を愛し、目に見えないものを信じながら日々を生き抜いている。彼らにとって車は自分の身体の一部であり、地球自体がホームなのではないか。じゃあこの映画はその生き方を賛美しているのかというと、そういう訳でもない。物に執着をしてしまう社会を構成している会社の一つでもあるAmazonでの仕事にノマドたちが携わっていることにも皮肉的な意味合いを感ぜざるを得ないほか、経済やお金とは無縁という様子でいながら、いざバンが故障してしまったとなると、不動産で稼いでいる妹夫婦に頼っていくという矛盾点も赤裸々に描き出している。私たちは時に『自由』に憧れを抱くが、それを真の意味で手にするためには様々な代償が付き物であり、アウトサイダーであったとしても完全に自分と社会を切り離すことはできないのだという現実をも突きつけてくる作品。観る人の年齢・バックグラウンドによって、かなり評価は分かれるのではないか...。本当のノマドを起用した効果でもたらされているリアリティや、物語全体に続く円環構造など、本作品の作り込まれ方には目を見張るものがあるが、個人的には物語自体があまり刺さらなかった。もう少し歳を取ってからまた見直したら変わるのだろうか...。
家を持たず車で生活する人々を遊牧民(ノマド)ととらえて描いた作品。観る人によって、感じ取るものに違いが出る作品なのかなという気がします。
ノマド。遊牧民。
現実の生活とはかけ離れた世界。
だからなのか、その言葉を聞くと、
胸の内に憧れにも似た想いが
沸き起こるような、そんな気がします。
そんな自由な生活を送る人々の話なのだろうか と
勝手に想像し鑑賞してきました。
で
想像していたのとは、ちょっと いや
だいぶ違ったような気がします。
◇
主人公の女性、名前はファーン。
年齢不明。 (老齢の入口に差しかかったくらい? たぶん)
夫と暮らしてきたが、働いていた工場が閉鎖 …。
住んでいた家も立ち退かざるをえず
車上生活者となります。
この作品では、
彼女の車上生活者としての生活が
淡々と描かれていきます。
同じ生活スタイルの仲間たちとの接点も
描かれなくはないのですが
人生の重大事と呼べるようなイベントは起きません。
人生の終盤に差しかかった主人公を描いた
ロードムービー。
そんな作品に感じました。
◇
昔教え子だった少女に
今はホームレスなのかと訊かれた主人公。
彼女はこう答えます。
「ホームレスではない。 ハウスレスなの。」
定住する家。 それは、無い。
共に暮らす者。 それも居ない。
家は無くとも、帰る場所はある。
彼女は、そう相手に伝える。
それは、
自分自身にも言い聞かせている言葉なのかも
そんな風にも聞こえました。
この作品に登場する人たちは
ほぼ全て高齢の人たちです。
アメリカという国のある一面を描いた作品
そんな印象も受けました。
◇
人によって
受け止め方や感じ方作品の評価など
全てに差が出そうな作品なのかもしれないと
そう感じます。
人生これから上り坂の人と
折り返し地点を過ぎた人 (私はこっち☆)
この作品に共感できるのは
おそらく後者なのだろうと思います。
観てすっきりするタイプの作品では無いですが
色々と考えるきっかけにはなるかも
そんな作品でした。
◇あれこれ
ノマド生活の彼らは、 「さよなら」 を口にしません。
皆の元から立ち去る時に口にするのはこの言葉。
「また会いましょう」
これにはとても共感。
再会の見込みがなくとも 「またね」 がいいですね。
もう一つ
仲間の一人が病のために命を亡くし
それを知った皆が、焚き火の中に石を投げ入れる場面
生前の約束を果たす訳ですが
ここも心に残りました。
◇最後に
車が壊れたら、
彼らはどう生活していくのだろう などと
そんなことも考えていました。
動かなくなった車の上で踊るのかしらん なんて
⇒ それはラ・○・ランド…(汗)
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
囚われ
会社が倒産して町ごとなくなり、ノマド生活が始まったことはわかるが、なぜ定住しないのかはなんとなく終盤までわからない。
理解者である妹や好意を寄せてくれる男性とその家族。暖かいベッドや不自由しない生活がすぐそこにあるにも関わらず、彼女がノマド生活にこだわるのは、彼女にとって過去の夫との狭い社宅での生活のみが還る場所だったのだ。そしてそこから見えていた荒涼とした風景に似た場所が唯一彼女が生きて行ける場所なのだ。
彼女にとってのノマドとは、自由を求めて等ではなく囚われて抜け出すことの出来ない生活なのだと感じました。
自分の価値観と向き合う作品
ファーンの飾らない旅を覗かせてもらったようでした。
止むを得ず車で暮らす者たち、、そんな話ではなかったです。
勉強して、安定した仕事を見つけて、働いて働いて
お金を稼いで家に帰ってご飯を食べて寝る
一般的な幸せに思います。
生まれた瞬間から死へのカウントが始まっている
分かっていても保険だらけの人生を歩みます
日本に馴染みのないノマド
訳あり、苦労人、はじかれた人かと思いきや
望んでこの暮らしをしている人々もいました
自分という人間を生きたい
命を燃やしているように思いました
自分の知識のなさ、価値観の狭さが恥ずかしくなりました
私たちが屋根の下にいる間に
ノマドの人々はこの地球で起きている奇跡を日々、
目の当たりにして出会うこともなかった人と出会い
言葉を交わして時には物々交換して仕事をして
またどこかで笑顔で再会する
現実的に、日本でこれをするのは難しい
子供がいたら尚更
馬車馬のように働いて、
働けなくなれば野に捨て放たれる
このような人が沢山いるのだと思います。
頑張った人には幸せが待っていてほしいです。
何が幸せか何が大事か何を思って生きるか
ある程度の自由があるこの時代に
残されたあなたの人生、どう生きる?
と今この時代に生きる地球人に投げかけられたような
スクリーンの中で完結しない作品でした。
ある日、大切な人を亡くす
この世界のどこを探してもいないけど
自分の中にあるその人との思い出は大切にしたい
そうしたいと思えました。
焚き火を囲んでノマドになったきっかけを話すシーンがとても良かったです。
一度きりの人生、納得のいく生き方を。
車旅、景色の綺麗さにつられたけど期待と違ってた
予告動画が綺麗で、キャンピング的な面白いものや、心が穏やかになるものを期待していましたが、
内容は期待外れでした。
見終わった後ちょっと寂しい気分でした。
日本でのキャンピングカーは、老後の楽しみのような一種贅沢な趣味という括り。
この映画は、家を持たず(持たざるを得ず)期間工などで稼ぎしながら、生活している
高齢の方々のドキュメントに近い作品という印象でした。
ある企業が無くなると、街一つ捨てるようにして人々が消えてしまう
キャンピング施設でなく、広々とした荒野でヒッピーみたいな人々が集まれる放置された場所がある。
アメリカ、広いなーと驚くことばかり。
ちょっといいなと思ったシーンは、
ある女性が亡くなって、皆で焚き火を囲むシーン。
いわゆるお葬式よりもこちらの方が素敵でした。
生き方、暮らし方は人それぞれ
キャンピングカーで旅をする。
私が老後にしてみたいことの一つだ。
そのイメージは持家があり、旅はあくまでも観光主体の趣味であって、生活ではない。
未亡人の主人公のファーンは、家を手放し家財を倉庫に預けてバンで旅に出る。Amazonや季節労働をしながら生活費を稼ぎ、定住しない自由気ままな車での生活。
行きたい時に行きたいところに行く。
多くのノマドと会い、仲間も得るが、皆戻る場所を持つノマドが多かった。孤独を感じた時、寄り添う相手の側での定住を選択しなかったファーン。
高齢で車上生活をしていくことの本当の厳しさを経験しながらも、最後に倉庫の家財も処分し、完全なノマドとしての生活を選択する。ファーンの後ろ姿はどこか達観しているようだった。
美しさの中にある"何か"を感じる為の作品
本年度アカデミー賞 作品賞 受賞作品。
経済不況によって長年住み慣れた家を失った女性がキャンピングカーで旅をしながら再出発し、そこで出逢う人々との交流をアメリカ西部の広大な自然を背景に描いていくロードムービー。
率直な感想として、とても素晴らしい作品でした。
従来のロードムービーは人と人との交流や友情などに重点を置き、そこにある感情を読み解くことで共感を得るのがスタンダードであるが、本作はその交流や感情に重きを置いてはいない。代わりに自然の美しさや雄大さを余すところなく前面に映し出し、失った"何か"を探す旅のなかで、人間という存在がどれほどちっぽけなものかを感じさせてくれる作品に思えた。
更にストーリーを進めていくと、主人公のファーンが探しているものは実は見つからないのではないか、"何か"とは形としてあるものではない"何か"なのか、自然の美しさが目立つ前では何もかもが小さく見えてしまい、そもそも探している"何か"というもの自体ないのでは?と考察が膨らんでしまった。私の映画知識の中でそれはとても新鮮な体験で、観る者にそういった感情を抱かせてくれるのも新鋭クロエ・ジャオの手腕なのではないだろうか。旅を重ねていく中で、沢山の人との交流のなかに様々な思いを感じ取っていくファーン。そこに明確な答えはなくとも、それぞれがこの生活に誇りと自由を持って生きていることに感化されていく彼女がまた美しく画面に映っていた。
ラストも明らかな答えというのはない。だが、その答えは観る者に委ねられる。この後、ファーンはどのように生きていくのだろうかと考察することでこの作品は美しく輝くのではないだろうか。
ノマドという生き方
切ない…
ホームレスではない、ハウスレス。
家は心の中にあるもの。
ノマドを敢えて選んでいる人たちは、目的があって、群れない強さを持っているように見える。
ファーンは善き人。
だれとでも仲良くなれ、自分から偏見なく相手と関わろうとできる。
けれども、とこに行っても最後までみんなを見送る人。
彼女には、目的がないから?
きょうだいもいて、手を差しのべてくれる人もいるのに、そこに甘えようとはしないファーンの心にあるものが、最後の風景なのかもしれない。
ただただ、切ない。
一人になることが怖いわけではないけれども、ひとりの世界を突きつけられたような静寂。
ファーンを自分と重ね合わせて、あらためて隣に座っているパートナーの横顔を見つめてしまった。
ダブル・ミーニングとしての「ノマド」
まず初めに注意したいのが、本作は非常に注意力を要する映画だということです。
「会話」によって話が展開されていくため、散漫にスクリーンを眺めていてもストーリーの内容や面白みは頭に入ってきません。台詞を聞き漏らさないような意識が必要です。また、主人公であるファーンの家族や生い立ちについての情報が段階的に伝えられるため、序盤でここを聞き逃すと、ファーンの葛藤という本作のテーマが理解しにくくなります。
ストーリーは起伏が無いように見えますが、ファーンの内面における葛藤は映画後半に差し掛かるにつれて大きくなります。衣食住に困らない生理的充足を思い出す中で、それでも亡き夫との思い出を積んだヴァンでの車内生活を選びます。その意志の裏には「夫の生きた証を残すため」と語っており、過去の思い出を支えに生きるだけの「弱い女性」でなく、辛い車内生活を引き受けてでも亡き夫に愛を注ぐ「強い女性」としてファーンは描かれています。「夏のような」女性でしたね。
(愛についてのテーマは指輪や詩についての会話などで深められます。)
本作は「自然」もテーマにしており、美しい景観を撮った映像が何度も出てきます。しかし同時に、人間も含めた「自然」の美しくない側面(肉食の犠牲になる動物や排泄物、老いや死など)も前半を中心に描かれており、「映画」としての美しさと「ドキュメンタリー」としての説得力を兼ね備えた作品になっています。資本主義(文明化)の負の側面から逃れる「(漂流民としての)ノマド」な生き方が決して理想的で気軽なものではなく、当事者にしか分からない苦しみがあることを本作は代弁してくれていると言ってよいでしょう。
本作における「ノマド」とは「物質的および精神的な漂流」だと読み取れます。それは主人公のファーンが物質面での居場所であった家屋と、精神面での居場所であった夫を失っていることにあります。ちなみに私は東京の狭いアパートで一人暮らしをしています。私の生活は決して「ハウスレス」ではないですが「ホームレス」とは言えるでしょう(映画レビューを書いているのも寂しさゆえです)。孤独死が問題視されるように、今の日本に住む私たちにも決して無縁ではない作品なのでは、と思った次第です。
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