ノマドランドのレビュー・感想・評価
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somethingを求めて
作品鑑賞中思い出したのは、若い頃少しだけ傾倒した寺山修司的な人生観。辛いことや絶望の淵にあっても、少なくとも前を向いて行こう。振り向かず前進しよう。少なくとも何かがある。それが何かは分からないけど、nothingではないのだと。
特にストーリーは無く、セリフもあまり多くはない。でも飽きることなく間延びすることもなく最後まで鑑賞できた。美しい景色とセリフに頼らない俳優達の演技が素晴らしかった。最後のボブの言葉が不自然ではない答え合わせのようになっていて親切に感じた。
ところでパンフレットが販売されていなかった。鑑賞した作品は必ずパンフレットを購入することにしているのだけど、こんなことは初めてだった。
アメリカの精神が大陸の自然美とともに巧く映し出されている。
夫を亡くし、職も定住地も失った初老(?)女性が、キャンピングカー生活の中で、季節労働をしながら、様々な同じような境遇の人たちと出会うロードムービー。
音楽も大きい展開もないが、彼女の生活や視点から様々な人生観を描いており、そこに何の答えもないが、終わってみれば、『生きる』という事を考えていた。
特にスワンキーという余命7~8か月の女性や、あのキャンプ地のリーダー的なサンタのおじさんの語りが、この映画の秀逸な点だった。
先日観た『ミナリ』にも通じる事だが、大陸の自然美の撮り方が絶妙に巧い。これは、本当アメリカ大陸だからこその美しさ。何もないところから何かを創り出す、また自分らしく生きるというのは、アメリカの開拓精神に通じるものがあるし、そう考えると、この土地には独特の精神が宿っているのかなあ、なんて考えた。
奇しくも『ミナリ』も『ノマドランド』も同時期公開で、アジア系アメリカ人監督作品。
昨今のアジア人ヘイトクライムなどが報じられる中、アジア系アメリカ人がアメリカの精神を映画にしたのは何かの偶然か。
寂寂とした世界観が色濃い、新たなるロードムービー。
劇中にAmazonの季節労働者の話が出てきたり、私が今まで観てきたロードムービーとは少し違う趣きで、現代社会のリアルさを物語に挿入することで、さらに寂寂とした世界観を色濃くしている映画。バギーツアーの観光客とトレーラーハウスのノマドの民とのコントラスト、砂漠と枯れた山並みとピンクに染まる美しい夕焼けの切なさ、企業が死に町が死に、それでもそこで生きる人がいる。昔撮影で二週間ほど滞在したアリゾナの風景はまさにあんな風だった。
「パリ・テキサス」や「バクダッド・カフェ」とはまた違うところで心の奥をツンと針の先で突かれるような映画。「スリービルボード」といい、フランシス・マクドーマンドの演技は強力のひと言。終盤にファーンが雨の岬で空を仰ぐカットは、全身で自然のパルス受け入れようとする、まさに魂の解放そのものだった。私もそのパルスを感じて心にさざ波が立った。
実はオムニバス仕立て。
スリービルボードは好きで、フランシスマクドーマンドと町のしがらみのモヤモヤも上手く描けていたし、ラストも好きだった。
いくつかの賞で話題になった今作も映画好きには注目の一作だった。
しっとりと始まり、しっとりと終わる。
終始、いやらしく無い湿り気が心地よい、アメリカの大地の壮大さが伝わるロードムービーで有り、実は細かい章毎に別れたオムニバス映画だと思う。
行く先々での出会いで人との心の触れ合いを描く作風をとてもすんなりと受け入れていたけど、ああ、これは深夜食堂と同じ作りなんだなと気付いたら、全てがすんなりと収まった。
これは、主人公をフィルターにしたそれぞれの登場人物の人生の旅路を描いていたんだなと。
結果、主人公自身は冒頭の出来事を彼女なりに乗り越え、そして今の生き方と向き合う。
自由という素晴らしいモノを手に入れつつ、死の厳しさが常に背後に迫っている。
彼女たちは前に進む限り、目の前の進む道筋は自由に選べる。
そういうメッセージを感じた。
感染症の恐怖で箱の中に閉じ込められた生活を強いる我々には、希望というより、憧れの世界だと思う。
生き方を考えるとても優しい良い映画だった。
P.S. 膝が痛くて、只者じゃ無いデブから、ただの膝の痛いデブにレベルアップしました。
アメリカ型資本主義に取り残された高齢者達
映画.com3.8 108分
フランシス・マクドーマンド、『スリー・ビルボード』を観て、作品と女優の世界感に引き込まれた。
この作品は、フランシス・マクドーマンドが原作に衝撃を受け、映画化権を買い、監督も指名したとの事。フランシス・マクドーマンドの世界感になっているのは、当然ではある。
出演者も、ほぼノマドの人達!キャストが役名と名前がほとんど一緒だったのも頷ける。
進化するIT・拡大するEC市場により求人の変化、取り残される高齢労働者、拡がる貧富の格差、自由の象徴のようなVANLIFEではなく家を失った為NOMAD生活とならざるを得ない。
彼らはアメリカという国に流されただけ…
それでもファーンは自由を求めてNOMADの生活に戻っていくのが、いかにもアメリカ映画らしい。
自分の願望が強すぎて、、
1991年夏にニューヨークからロスまで自転車で横断した。
23歳の私がその時思ったのは、日本での何気ない日常生活の
大切さ、貴重さだった。走りながら
ふと頭をよぎったのは、「帰ったら日常生活であれしよう、これしよう」という「日常への
想い」だった。
今回、ノマドランドの主人公に感じたのはあくまで「放浪」VS「日常」という
対比だった。ノマドの生活を続けるほど、日常に戻れない、戻りたくないと思う
ものなのか、、、
私のような遊びで自転車旅行した若者と異なり、主人公は
人生=仕事という側面でノマドを強いられている。だからこそ、主人公には
ノマドを強いられても「日常への想い」を持ち続けるような人であってほしかった、
という勝手な願望を抱いてしまいました。
羊がいれば
ノマドとは遊牧民を意味するそうだ。でも、この映画に出てくる人々は、別に生き物を育てているわけではなく、定住してないだけ。個人的にはこの生活を遊牧民のように言うのは、なんか違うなと思う。羊連れてればいいけどね(笑)。しかし、こんなに厳しい生活している人が多いのか、アメリカ。アメリカン・ドリームって、いつのこと?
食べるシーンがよくある。だけど、食事を楽しんでいる感じがあまりしない。限りのある調理道具で缶詰を温めたり、栄養のバランス悪そうであまり健康的ではない。労働で疲れた体に、エネルギーを補給するために食べてるみたい。
なので、デイブの息子の家で出される料理を真っ当な食事だと思いつつ、ファーンの身になると、自分まで気がひけてしまった。デイブは息子と距離があるように言っていたけど、並んでピアノを弾いたり、すごく仲良さそう。嫁も優しいし、孫をあやしたりする生活に満足している。その上、妻(だか彼女だか)まで欲しがるとは、欲張りじゃないだろうか。しょせん彼のノマド生活は、かりそめの姿だったわけだ。
ファーンは、家を捨て、思い出の品々を捨て、自分1人で生きている。いつか限界は来るだろうけど、それでも自力でやっていける限り、続けていくのだろう。今は昔の写真もお皿も持っているが、そのうちこれらも捨てる日が来るような気がする。
スワンキーが、今まで見た美しいものを語る時、自然の風景のことしか言わないのが気になった。家族や友達など、人間との情愛や触れ合いはどうだったんだろう? ないわけないけど、いろいろあって、人間から距離をとっているのかな。なにげに共感できる自分がやばいかも。
現代社会で貨幣も使わず、エネルギーも使わず、通信も使わずに生きていくのは不可能。特にガソリンを切らしたら死ぬので、そのために働くというのが本末転倒な感じ。太陽光パネルと通信機器搭載のキャンピングカーがあれば、ガソリンを買わなくてもいいなぁ。でも、その車自体が高いか。
映画見た後、資本主義経済について考えていたら、牛で例える話を思い出した。「君は2頭の牛を持っている」 資本主義なら雌牛1頭売って、雄牛を買って増やすのが定石。でも、全ての人がこの通りにできるわけじゃない。増やすどころか減らす人もいるし、たくさん持つ人とそうじゃない人の差は広がる。牛は例えだけど、資本主義もそろそろ行き詰まってる感じだし、近い将来新しい形ができるような予感がする。せめて年取ったら安心して暮らせる世の中であって欲しい。
ほんとにこの映画にはかなり考えさせられた。私も10年後くらいにはこんな風になっているかも。年金支給は延ばされ、バイトで食いつなぐとか。キャンピングカーでは暮らせないけど、プランターで野菜を作るとか、工夫して生きていかなきゃなー。
ノマドというより?
遊牧民という言葉に、壮大なイメージを期待して観に行ったが、ただの車を持ってるホームレスという感じ。仕事もあんなに簡単に見つかるものかなぁ〜?でも、ノマド仲間の「別れる時にさよならと言わない。また会おうと言う。」みたいなセリフだけが印象に残った。ラストに主人公が元住んでいた家に行って、裏庭の砂漠に出るシーンを見て、彼女は家があった時からノマドだったんじゃないか?少し思った。
ノマドの生活でしか…
自分の存在意義を見出せないのかもしれない。
主人公のファーンを見ているとそう思えてならない。
働いていた工場や夫、家、街ごと無くなってしまった事で、車中生活をしなければならない。
ましてや高齢になったとなれば、自分だったら絶望感に苛まれてしまう。
観ていてとても辛くなりました。
同じような境遇のノマド達も、片や家族とともに家に戻る人もいる、片や自分の目指す場所に行く人達だったりで…。
ファーンも、お姉さんやボーイフレンドから、失った家に戻れるチャンスがあったのに。
そういえば、夫との思い出があるバン🚌と言っていたなぁ。
ハウスレスじゃなかったんだな。
でも何処かに安住の地を見つけてほしいと、そう思った。
マクドーマンドの体当たりぶりは半端じゃない
フランシス・マクドーマンドの体当たりぶりは半端じゃない。だけどこの映画がどうして評価されるのか理解できない。根底には、定住文化の日本人と、フロンティア精神が残るアメリカ人の開拓民文化の違いがあるのか。「アメリカの原風景なのよ」とか言うセリフがあったとしても、それが大多数のアメリカ人に刺さる言葉とは思えない。一定数、そんな人々がいるなあという認識程度ではなかろうか。
編集は巧みで、ものすごい情報量をぶつ切りにして繋いであるので、セリフのつなぎ目がない。どちらかというと、登場人物がすべて独り言をつぶやいているように聞こえる。たまたまそこに、マクドーマンドが居合わせているだけのように。特徴的なのは、絶対に目を合わせないでしゃべっていること。ちょっとアメリカ人の印象が当てはまらない。だからこそ、ものすごいリアリティを感じた。音楽も、たまに情感を強調したピアノソロなんかがはめられているが、基本的には状況音しか入らない。例えばラジオから聞こえてくる音楽とか。みんなでキャンプファイアしながら合唱する歌とか。
そんなこんなで、意外にいろいろと事件が起きているのだが、お気に入りの皿が割れてしまった。とか、文字にするとその程度のことが積み重なっていくだけのこと。ゆっくりと時間が流れているかのような錯覚を起こす。これが、老人にとっては目まぐるしい変化なのだろう。放浪の一年を通して、彼女の身の周りがどんどん変わっていく。
或るミュージシャンと知り合った時、彼が「ツアーの時に、その土地土地の断酒会に顔を出し、地域性や風土を知る。それがその街を知る一番早道だ」なんてセリフがあった。とても印象に残った。
時間があまりないので、多分もう二度と見ない映画だと思うのだけれど、眠れない時にずっと流してぼーっと見ていたいとも思う。不思議なテイストの映画だった。ただ、若い人にとっては退屈で、良さが伝わらないんじゃないのか。そうじゃなきゃいけないとも思う。だから賞なんかとって欲しくない。
人よりも勇敢で素直なだけ
…というお姉さんの言葉が、心に残った。
一見、社会的弱者にも見えるワーキャンパーの人たちのなんと自由なことよ。でも自由って過酷。まさに自然。
家族のもとに戻り定住する人もいて、戻らない人もいて。どっちの生き方も否定も肯定もせず、説教くさいでもなく、人生が染み渡るいい映画でした。
自分はどう生きたいかな〜とか、考えさせられる映画でもあるんだけど、逆に小難しく考える必要はないよって思える映画。
保険だなんだ、家族だなんだ、家だお金だ、なんだかんだ、持てば持つほど、安心を得れば得るほど、動けなくなっていって最後は棺桶のサイズにすっぽり収まってしまう。それでいいのか?
最後に荷物を全部処分できる主人公に、少し嫉妬してしまう。僕には勇気も素直さもないかなぁ。
カヤックおばちゃんも最高でした。
ここで人生完成だなんて思える瞬間、なかなかないよね。
あと、ドキュメンタリー的な面白さもたくさん。
Amazonの配送場すご!
ジャガイモ畑ヤバ!
車の改造おもしろ!
みんな愛車に名前つけるの可愛い。
映画って、誰かの人生を経験することができる、すごい装置だなと思った。
新年に、毎年つけてるカチューシャがなんかいいよね。
さよならではなく、またね
生き方を尊重しつつも、その年で車中泊?!季節労働者?!車が故障したらやっていけるの?病気になったらどうする?という世間の目。
しがらみもなく、自分には出来ないことをやれている。そこは正直羨ましくさえ思った。もちろん好きで家や仕事を失ったわけではないけれど。
自由なノマド妹に、素敵な家に住んでいる姉はおそらくそんな気持ちもあったことでしょう。
自分には出来ないし、日本では無理だから、余計に羨ましく思ってしまったのだけれど。そういう車専用の施設がちゃんとあるアメリカはやっぱすごいわ。
集会は若干宗教的な雰囲気も感じたが、ミニマリストとして、敢えてそういう生き方を選ぶ人もいると思う。
息子家族と暮らし、ノマドではなくなった友人を訪ねるシーン。ノマド仲間としては淋しさを感じるだろうが、お互い押し付けることもなく。歩み寄るというより、距離を置くことでうまくいくのも。
最後、息子さんを亡くしたノマドの言葉が刺さった。
生きている間、いろんな人との出会いや別れがあるけれど、さよならとは言わなくていいんだね。
誰とでも「またね」と別れられれば、淋しさも半減するかな。
スリービルボードでは終始怖い人というイメージのマクドーマン、この作品でもやっぱり男勝りな雰囲気はあったけど、女性らしさとかお茶目な一面も見られた。
リーマンショックの後のこと。 米国ネバダ州にある石膏大企業の企業城...
リーマンショックの後のこと。
米国ネバダ州にある石膏大企業の企業城下町は、その企業の倒産とともに地図から姿を消した。
町そのものがなくなってしまったのだ。
60代のファーン(フランシス・マクドーマンド)もそこで暮らしていた一人だった。
石膏企業で働いていた夫が死んだ後も住み続けていたが、町がなくなってはどうにもならない。
そこで彼女が選んだ残りの人生は、全米をヴァンで移動しながら季節労働の現場を渡り歩くノマド(遊牧民)の生活だった・・・
という物語で、季節労働の現場現場で知り合う人とのも交流が描かれるがストリーとしてはこれだけである。
しかし、心に沁みる映画である。
なにが心に沁みてくるのだろうか・・・
つらつらと考えているうちにたどり着いたのが「喪失感」。
夫を亡くし、町もなくなった。
残されたのは、自分ただ一人。
そして、残された自分のまわりに広がる米国西部の土地と風景。
茫漠とした喪失感と対峙する茫漠とした風景・・・
主人公ファーンは常に「対峙」しているようにみえる。
オートキャンプで見知った仲間たちと出会っても、すぐには輪に加わらない。
孤独というのとは少し違う感じがする。もちろん、孤立とは違う。
対峙しているのは自分。
内省している。
しかしながら、内省し、喪失感を抱いているのは、周囲にいるノマドの仲間たちも同様である。
ノマドの仲間たちは、もう老境にはいった人たちも少なくない。
その歳になれば、何かしらの喪失感を抱えているのは、ごく自然なことだ。
リンダ・メイもスワンキーもボブ・ウェルズもそうだ。
そんな彼らにファーンは共感し、ファーンと同様に観客も彼らに共感していく。
リンダ・メイもスワンキーもボブ・ウェルズ、かれらノマドの仲間たちは、実際にノマド生活を送っている人たちで、監督のクロエ・ジャオはそんなかれらの心情を上手く引き出している。
よくよく観るとわかるのだが、かれらがひとりで語るシーンは、かれらが自分自身のことを語っている。
監督がインタビュアーとして、かれらから言葉を引き出したのだろう。
映画では、それらをファーン演じるフランシス・マクドーマンドが聞いているように編集で上手く繋いでいる。
仲間と共感・共鳴しながら、喪失感と折り合けていく・・・
底にあるのは、米国の自由の精神だろう。
相手の自由を認め、相手の自由を束縛しない。
裏を返せば、自分自身も他者に認めてもらい束縛されない、ということ。
そう考えると、日本とはまるで生き方考え方が違う社会だ。
老境の、そして白人たちばかりの、ノマドたちの暮らしに、米国の原風景をみた思いがしました。
足さず引かず
何だろう すごく期待感が大きかった。 ちょっと肩透かしだった。
でも気分は悪くない。
俳優が演技してることすら忘れる演技と没入感。
俳優2人以外、他全員本当のノマド。
このことがフィクションなのにノンフィクションのような境目を彷徨うような不思議な心象にさせている。
宵闇、曇り、排泄、アマゾン、皿(驚いて前のめりになった)、郵便番号が抹消された町
漂流(遊牧)しつつ、季節労働は現代に一番欠かせない物流・ファストフード・娯楽という対比に、
この時代に何にもしがらみが無く生活できる場所と自問して小学生回答しか思い浮かばず。
例えば自分の家の裏手がどこまでも開けた砂漠で愛着も感じてて、そこを強制的に追いやられて次に住むところを考えてみる。
それは海の近くに生まれた人が海の無い土地に住むのを強いることに似てるのかもしれない。
そう考えると、代わりになるような土地を彷徨うように探すかもしれない。
〝旅〟と捉えるか、〝孤独〟と捉えるか
季節労働をしながらキャンピングカーで生活をするファーンと、往く先々で出会うノマドたちとの心の交流を描く実話を基にした作品。
ファーンはどんな仕事もそつなくこなし、人の輪に溶け込むことも、積極的に周りに声をかけることができる良い人柄でもある。
心配してくれる友人や手を差し伸べてくれる姉もいる。
誰からも好かれる大きな要素がありながらも〝普通の人生〟を選ばないファーン。
友人の子供からはホームレスと見なされ、姉夫婦(夫はファーンの友人)たちからは自由な人と好奇の目で見られて理解されない。
実情は周りの見方とは異なり、自ら苦労を選んで旅をする(生きる)ファーンの姿にとても惹きつけられました。
亡き夫をいつまでも想う姿は、ファーンにとって夫だけが心の拠り所だったのだろうと…。
人間は弱いと自覚している。だからこそ、彼女はノマドという生き方を選んだのだと思いました。
旅の途中、ノマド仲間から好意を寄せられたファーン。
ファーンもまた徐々に彼に惹かれつつあった。
彼は息子に帰るように促され、親子をやり直すためにノマド生活から降りる決意をする。
道中、ファーンは彼を訪ね「一緒にいたい、此処で暮らそう」と思いを告げられる。
親子の絆を取り戻した彼の姿を見て、自分の居場所は此処ではないと…ファーンは別れも告げずに去ってしまう。
ノマドたちはさよならは言わない。
いつか必ず会えると知っているからだ。
ノマドたちは皆、悲しみを抱えながら自分らしさを大切にしている。
亡き夫との長年住み慣れた場所を訪ね、過去から立ち直り前を向くファーン。
最後は、ノマドという生き方に誇りを持って生きる力強いファーンの姿がありました。
年を重ねて自身がファーンくらいの年齢になった時に、人生の答え合わせのように、その時の目線でこの映画を観返したい。
壮年はまだまだ未熟、そう思わせられた作品でした。
出てくる人々が少し羨ましくなった
ファーンや他のノマドの人々が生き生きとしていて、見ていてその生き方含めて少し羨ましくなりました。
また終盤にノマドの生活をしていると「さよならがない」という話が本当に素敵だと感じました。「またどこかで」という挨拶、そしてボブもファーンもそれぞれまた息子や夫に会える……。
美しい景色が多く見れて、さらに人々の人生を垣間見ることができた気がします。
出演者の中に実際にノマドとして生活をしている人々がいることがあとからわかって驚きましたら。
素敵な映画に出会えて本当によかったです。
(´∀`*)〝さよなら〟のない人生
良かった、、、、。アメリカ、季節ごとにキャンパーで渡り歩きその地で働く高齢者の生き様を描いたお話です。過酷な生き方なのですが、その生き方に誇りを持つ彼らに敬意を払いたい。主人公のファーンは幾度となく定住のチャンスがあったにもかかわらず放浪する。
その生き方は〝さよなら〟がないから、、、、、。大切な誰かを失い整理がつかない人達はこの生き方を好むのでしょう。大切な誰かをなくしてもどこかでまた会えるんじゃないか?という生き方だからなのでしょうかね。
別れに交わす言葉が
〝いつかどこかでまた会いましょう!〟素敵です。
広大で美しいアメリカの大自然がいつまでもこの生活、この生き方が続く事を表しているような、、、そんな気持ちになれます。
しかし、凄い綺麗なロケ地、、、。なんて言ったか忘れちゃったンダけど。
もっと痛感した事は身体を動かした労働。私にはコレが激烈に欠けています。
どうにかしたいと思います。
生き方や思想でもあり、理想でもあり、「過程」でもある作品かと思います。
アカデミー作品賞ノミネート作で「ミナリ」と並んで、評価が高く受賞するのでは?と目される話題の作品を観に行きました。
鑑賞した「TOHOシネマズ新宿」はなかなかな盛況ぶり。
で、感想はと言うと。良い。
…ただ良い作品なんだけど、個人的にはちょっと淡々とし過ぎているかな。
この淡々さが良いと言う人と「アカン。合わない」と言う人に分かれそうですが、個人的にはちょっと淡々し過ぎw
たんたんと言い過ぎましたが、監督のクロエ・ジャオの継母は女優の宋丹丹(ソン・タンタン)って言うのを書いてから知りましたw
アメリカ西部の路上に暮らす車上生活者たちの生き様を描いたロードムービーで、高齢の主人公、ファーンの生き方が何処か刹那であり、孤独に気高く描かれています。
ネバダ州の企業城下町で暮らす60代の女性ファーンは、リーマンショックによる企業倒産の影響で、長年住み慣れた町が廃都と化し、住む環境を失ってしまう。
夫を亡くした事もありキャンピングカーに全てを詰め込んだ彼女は遊牧民として、過酷な季節労働の現場を渡り歩きながら車上生活を送ることに。毎日を懸命に乗り越えながら、行く先々で出会うノマドたちと心の交流を重ねていく…
最初に難点を言うと娯楽性が少なく、ファーンの目的も分かり難い。
主要キャスト以外は実際にノマド生活をしている人達が出演しているからかドキュメンタリーな感じもします。
そもそも、車上生活を送るのに当たり、「金銭的な事情でそうせざるおえなかった」者と「自ら望んだ」者とでは意識も違うので、そこを理解する所から始めないとこの作品は理解し難い。
「スリー・ビルボード」のオスカー女優フランシス・マクドーマンドが高齢の流浪の車上生活者ファーンを演じていますが、個人的には何処か頑なにも感じるんですよね。
家を持たざる者としての生活の割には、車が故障した際の修理費を姉に頼ると言うのは仕方ないにしてもちょっと安易にも映る。
車上生活をしているのなら車の故障なんて起こりうる想定内の出来事かと思うんですが、その修理費が無茶苦茶莫大でもないのに、それすら貯金してなくて「自分はノマドの生活に誇りを持っている」と言われても、ちょっとどうなの?と映るんですが如何でしょうか?
ただ、いろんな事があって、その生活を選んだ訳で、その理由は本当の所は本人しか分からない。そこの真意を全て理解しようとしても無理だと思うんですよね。
この作品はそこに魅せる映像と生き方の断片なのかと。
都会の香りが殆どしない描写が多く、ハイウェイの横目に様々な大自然が広がっていく。
雄大な風景と無限に広がる空。1日の始まりと終わりを虚いの様に描き出す情景は大きく共感を産むのかは人それぞれとしても静かに心のひだに沿っていく様な感覚を感じます。
まるで水滴が長年に渡り、石を穿つかの様に何かを解していく様が心地良いんですよね。
これって、スローライフにも似た様な感覚なのかと。
ノマドと言う言葉はこの映画の前では知らなかったんですが、現代用語としてWI-FI環境のあるカフェなどで仕事をする人を指す「ノマドワーカー」と言う言葉を思い出しました。
それと同じ意味に近いとの事で、最近ではコロナ禍の影響でテレワークを推奨している企業も増えている事からノマドワーカー(ノマドワーク)はノートパソコンやスマホがあって、WI-FI環境であるならば、どこでも仕事が出来るので、今の社会性事情に「ノマド」はある意味タイムリーw
また、同じくコロナ禍で所得の低下等で最低限の物しか所有しない「ミニマリスト」も注目され、家を持たない生活も見直しされていますが、個人的には家を持たないというのは何かと不便でデメリットが多い(気がします)。
一番は住所が無いので証明などがし難い。郵便物などが届かない。また受け取りがし難い。普段家でやれている事が大幅に制限される。特に風呂とトイレと言った物は不便この上ない。
勿論いろんな事で応用も出来るとは思いますが、それでも自身の家に住むと言うのが当たり前と考えているので、どうも違和感を感じる。
たまにだったら良いけど、友達の家に居候するのもホテル暮らしもどっちかと言うと嫌なので、ノマド生活は自分には合わないなあw
でも、こういう生活にも憧れる気持ちはなんとなく分かります。
作品配給がサーチライト・ピクチャーズと言うのも知ってちょっとビックリ。
サーチライト・ピクチャーズが20世紀スタジオの姉妹会社と言うのを知らなかったので、あのオープニングを見た時に「あれ?社名変更したのか??」と思いましたw
作品としては淡々と書きましたが地味と言えば地味w
ドキュメンタリー的な感じの作品で娯楽性は正直少ないし、何処か思想感が漂う。
でも昨今の娯楽性豊かな作品の中ではいろいろと考えさせられる事がある作品だし、ロードムービー系は嫌いじゃない。
アカデミー作品賞ノミネート作の中でも「ファーザー」や「ミナリ」と並んでの有力候補作の一つですが、こう考えると最近のアカデミー作品賞候補作の毛色は以前とは少し変わってきているかなと。
まあ、それでも何処か政治的匂いは感じますけどねw
ちなみにアカデミー作品賞受賞予想は…アンソニー・ホプキンス主演の「ファーザー」と予想していますw
「ヒッピー」や「バックパッカー」と同じ様でも似て非なる言葉で、日本にかつて存在したとされる放浪民の「サンカ」とも違う。
ファーンのこのノマドの生活がこれ以降も続くのかも分からない。もしかしたら一生続けるかもしれないし、明日には止めるかもしれない。
でもそれはそれで良いのではなないかと思う。
居場所がある事で心の拠り所とする事もあるだろうけど、居場所が無い事を心の拠り所する選択肢もある。
何かを持つ幸せと何も持たない自由の価値は人それぞれ。
この作品で描かれているのは生き方や思想でもあり、理想でもあり、「過程」でもあるのではないかと思います。
好みが分かれる作品ではありますが、観てみるといろんな事を「感じさせる」「考えさせてくれる」作品です。
ご興味がありましたら、是非是非です。
ノマドの良さは、、
セリフの少ない映画でした。
主演女優の演技力の素晴らしさが際立っていた。
ノマド、ホームレスではなくハウスレスだと言う。なるほど、そうなんだなぁ。
家族も家も街も無くした女性がでもそこから離れられずにハウスレスになって暮らす。広大な自然の中で自分の生き方を見つめている。強いなぁ。
残念ながら、この女性がこういう生き方を選ぶに至る背景、無くなってしまった大切な人達の話は全く出てこない。途中でエピソードが出るかと思いきや、全くなかった。私的にはストーリー性の低さに少し残念な気持ちになった。
でも、最後にノマドの良さは、別れはさよならじゃない、またねだという言葉にはグッと来た。どこかでまた会えると思っていられる。それはステキな話だな。
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