ブラックアダム : 映画評論・批評
2022年11月29日更新
2022年12月2日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー
暴力による復讐は是か、否か? 社会の憤怒の爆発を予言するかのような、示唆に富んだ一作
ドウェイン・ジョンソンのビルドアップされた肉体は、強靱なイメージを導く。いつしか、斯様なタフさは対人のみならず、「ランペイジ 巨獣大乱闘」(2018)では巨大化したワニと、「スカイスクレイパー」(2018)では超高層ビルと“闘う”にまで至る。もはや彼には、恐れるものなど存在しない。破壊神・ブラックアダム役も、彼が無敵なイメージを纏っているからこそのキャスティングだと言える。今作の惹句にもあるように、ドウェイン・ジョンソンがハリウッド映画界において最強で最“恐”のひとりであることへ異論はないだろう。
5000年の眠りから覚めたブラックアダム(ドウェイン・ジョンソン)は、かつて息子を殺められた復讐心から、現代の地球で破壊の限りを尽くす。そんな彼を人類の敵とみなし、JSAなるスーパーヒーローチームが捕獲を試みるのだ。この映画が興味深いのは、ブラックアダムの復讐心に寄り添った姿勢によって描かれている点にある。勿論、それは彼が“主役”だからであるし、終幕に向けて「復讐はいけない」ことを彼が悟ってゆくというプロセスも描かれている。だがそれにしても、正義の味方であるはずのスーパーヒーローたちを痛めつけ、破壊に次ぐ破壊が描かれているため、復讐をよしとしているようにさえ見える瞬間があるのだ。
奇遇なことに、全米での公開時期が近い「ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー」(2022)でも、終盤に至るまで復讐心をよしとするような描写に溢れている。こちらも、結果的には「復讐はいけない」と描いているわけだが、悟りに至るまでのプロセスがあまりにも暴力的ではないかと感じてしまったのだ。この符合が、単なる偶然だと思えないのには理由がある。時に、映画は「社会を映し出す鏡」と云われるが、それは社会派の問題作に限らず、アメコミを映画化したハリウッド映画においても同様ではないかと考えているからだ。
例えば、同じ2016年に公開されたDCの「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」と、マーベルの「シビル・ウォー キャプテン・アメリカ」。この2本には、スーパーヒーロー同士がイデオロギーの違いによって衝突してしまうという物語の共通点がある。2016年はアメリカ大統領選挙の年。現実の社会でも、異なるイデオロギーを掲げて民主党の正義と共和党の正義とが衝突していたのである。真偽はどうであれ、観客が無意識のうちに社会状況と作品とを深層心理で重ね合わすことを狙って、公開時期を定めたのではないかと邪推させるのだ。
架空の都市を舞台にしながらも、DCの「ブラックアダム」はパレスチナを、マーベルの「ブラックパンサー」はアフリカを否応なく想起させる。解決の糸口を見出せない南北問題。抑圧された人々の不平不満は集積し、忍耐がいつ臨界点に達してもおかしくない状況にある。いつしか怒りが爆発した時、抑圧された人々は過剰な“行動”に出るかも知れない。そんな疑心暗鬼が、現代のアメリカ社会には見え隠れする。それゆえ、ブラックアダムが暴力によって復讐を遂げようとする姿は、斯様な憤怒の爆発を予言しているかのようにも見えるのである。
(松崎健夫)