パラサイト~禁断の島~
――邪悪は「存在」か、それとも「読み」か
この映画をどう読むかで、観後に残る感触は大きく変わる。
大きく分けるなら、二つの読みがある。
ひとつは、邪悪を歴史的に蓄積された怨念として捉える読み。
もうひとつは、邪悪を理解しようとする行為そのものが生み出すものとして捉える読みだ。
どちらが正しいかではない。
この映画は、その差そのものを観客に突きつけてくる。
物語の舞台である無人島には、明らかに「影」がある。
父を殺し車を奪った暴力と、島に潜む邪悪さはよく似ている。
だが、その類似は最後まで説明されない。
説明されないからこそ、怖い。
邪悪の正体が回収されないこと自体が、この作品のホラー性を担っている。
物語は途中で、主人公を失う。
主人公であったはずのトビーは、終盤に向かうにつれ、物語の中心から滑り落ちていく。
彼の成長や選択ではなく、名づけられない「邪悪さ」そのものが前景化していくからだ。
トビーが参加させられるカウンセリング・プログラムは、
トラウマと向き合うためとはいえ、あまりに乱暴だ。
心の問題を個人の内部に閉じ込め、
孤島という極端な環境に放り込む。
結果としてトビーが対峙するのは、自分の心ではない。
妄想と誤認によって作られた「マデリンの母像」であり、
制度が用意した敵だった。
これはプログラムの失敗であると同時に、
「治そう」「理解しよう」とする行為そのものの危うさを示している。
癒しを目的にした言葉が、
別の暴力を生むことがある。
マデリンという存在もまた、単純な被害者ではない。
「母をやったの?」と声を弾ませる彼女は、明らかに異様だ。
彼女は邪悪を引き継ぎ、
島の外へ運び出す存在として描かれる。
だが同時に、
彼女はその役割を選んだのだろうか。
邪悪は、意思を持って憑依するというより、
意味づけの空白に入り込む。
誰かを「説明しよう」とした瞬間、
そこに寄生する。
トビーには確かに成長がある。
考え、罠を張り、生き延びる。
16歳という設定は、未熟さと同時に、
成長譚の装置として機能している。
しかし、人を殺してでも守りたいと判断した瞬間、
その成長は邪悪にとって最も都合のいい形になる。
成長は否定されるのではない。
利用される。
島に残る歴史――
略奪され、奪われ、忘れ去られてきた側の記憶。
ロビンソン・クルーソーの時代から続く暴力の連なり。
考え方は時代によって変わると言う。
だが、略奪だけは変わらない。
あるのは、勝者の理論と勝者の歴史だけだ。
その怨念が邪悪の正体だと読むこともできる。
一方で、それを「原因」として説明した瞬間、
現在の暴力が見えなくなる危険もある。
島を出たマデリンは、
怨念にパラサイトされ、
それを世界に撒き散らしていくのだろう。
あるいは、
そう読もうとする私たち自身が、
すでに物語に寄生されているのかもしれない。
この映画は答えを出さない。
ただ、二つの読みの差を残す。
だから腑に落ちる。
正解があるからではなく、
自分の立ち位置に気づかされるからだ。
邪悪は、どこから来たのか。
それは存在だったのか、読みだったのか。
その問いだけが、
観終わったあとも、静かに寄生し続ける。