楽園
劇場公開日 2019年10月18日
解説
「悪人」「怒り」など数々の著作が映画化されてきたベストセラー作家・吉田修一の短編集「犯罪小説集」を、「64 ロクヨン」の瀬々敬久監督が映画化。綾野剛、杉咲花、佐藤浩市ら豪華キャストが集結し、犯罪をめぐる喪失と再生を描き出す。ある夏の日、青田に囲まれたY字路で少女誘拐事件が起こる。事件は解決されないまま、直前まで被害者と一緒にいた親友・紡は心に深い傷を負う。それから12年後、かつてと同じY字路で再び少女が行方不明になり、町営住宅で暮らす孤独な男・豪士が犯人として疑われる。追い詰められた豪士は街へと逃れ、そこである行動に出る。さらに1年後、Y字路に続く限界集落で愛犬と暮らす養蜂家の善次郎は、村おこし事業を巡る話のこじれから村八分にされてしまう。追い込まれた善次郎は、ある事件を起こす。
2019年製作/129分/G/日本
配給:KADOKAWA
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2019年10月28日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会
吉田修一の「犯罪小説集」は、タイトルに反するようだが犯罪を描くことが主眼ではない。人間が(日本人が、と限定してもいい)一線を越えて罪を犯すまでの状況、そんな状況に個人を追い込んでいく周囲の直接間接の圧力(これも広義の罪と言える)を描くことに重きを置き、犯罪の場面の描写や犯人の内面はあっさり省略するか微妙にぼかしている。
瀬々敬久監督による脚本と演出も原作の趣旨を踏まえ、小さな町や村の人々が、同調しない人間、理解できない人間を排除する集団の“暴力”を、じわじわと胸を締めつけるような迫力で映像化した。作家と監督の心はともに、2つの短編をつなぐ役割を担った紡(つむぎ)という名の女性(杉咲花)と同様、綾野剛と佐藤浩市が演じる排除される側の個人に寄り添う。復讐のカタルシスを与えるでもなく、観客に鏡を突きつける意図でもなく、想像力にかすかな希望を委ねる優しさが映画の題からも伝わってくる。
2019年10月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
村八分の力学は恐ろしい。犯人かどうかわからない人を追い詰め、殺人を犯しそうもない人を殺人犯へと変えてしまう。日々のニュースを観て、我々は犯罪者に対して憤っている。だが、人が犯罪者になるには理由がある。この映画ではどこにでもいる人々が追い詰められた結果として犯罪者になってしまう様子が描かれている。フィリピンからやって来た母子はそれだけで異物のように扱われ、東京から戻ってきた初老の男はささいな予算の問題で孤立させられる。移民問題や限界集落など、現代日本が抱える諸問題が数多く描かれるが、それらの問題が日本的な村八分と結びつき、人を犯罪者に駆り立ててしまう。これらの物語は実際の事件から着想を得ているが、本当に日本ならどこにでも起きうる物語だと実感させられる。吉田修一と瀬々敬久監督の組み合わせはきっと面白くなるだろうと思っていたが、期待どおりに面白かった。善悪の彼岸を超えた犯罪映画だ。
2022年2月6日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:VOD
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サスペンスかと思っていたら違った。
二つの大きな事件が起こりますが、特に後半の善次郎が絡む事件はどこかで聞いたことがあると思ったら、実話ベースなんですね。
当時ニュースで知って村八分の恐ろしさと限界集落の閉塞感の怖さを感じたけど、この映画もまさしく。
孤独が人を追い詰めていく話だと思った。
どうでもいいけど、混浴誘っておいて相手が欲情したら思いっきり嫌悪感出す久子も罪深い。
2021年11月27日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル
『悪人』『怒り』の原作者と同じと聞いて、納得できる感じがした。何というか、尻切れトンボの感じが全部共通している。
本作のテーマは村社会的人間関係の閉鎖性ということであり、社会問題となった山口・周南5人殺害事件を連想させる。
現実問題としては、日本の村社会的共同体はもはやほとんど崩壊しており、地方の集落の多くは都市部と同様島宇宙化が進んでいるし、物理的にも限界集落化して消滅寸前なのである。
部分的には旧来の閉鎖的関係が盲腸のように残存する地域はあるし、それが都市部から地方への移住ブームと衝突する結果、村八分などという事態が新聞ダネになったりするが、それはもはや現代の課題とはなりえないはずである。
課題になるとしたら過去の残存遺制としてであるし、そんな遺制に直面したら引っ越せばよいだけだ。それができない場合には、個人の特殊事例の問題が残るくらいなものだろう。
前述の山口・周南5人殺害がそれで、そこでは犯人の人間関係のとり方に大きな問題のあったことが報道等で指摘されている。
ところが本作の前提としている社会認識は、この消滅寸前の村社会的遺制がさも現代社会における大問題ででもあるかのように正面から大仰に取り上げる。
面白半分に見ていくと、何やら集落内の犯罪や揉め事の責任をすべて弱者、少数者、異端者に押し付けてきたのが村社会的共同体である、と言いたげなのだが、
前近代の話ならともかく、現代日本においてそんな問題が本当に社会の大きな課題だと思っているなら現実認識を大いに誤っているとしか言いようがない。
その一例が、集落の多数の人間が犯人と疑わしい人間をリンチにかけようとするシーンで、小生は現代においてそんなことがあり得るとはまったく思わない。
また、山口・周南5人殺害事件における犯人の妄想らしき事柄をすべて実際に生じた出来事として描いているほか、中国からの帰国子女問題をそれにからめてしまったため、どうにも現実味がない。フィクションとしてはリアリティが希薄すぎるため、悪い冗談にしか思えない。
要するに、作者たちは過剰な修飾で村社会的共同体を攻撃したがっているが、倒錯論理で在日朝鮮人殺人者を擁護した『怒り』と同様、実体のない、どこかで聞いた絵空事を描いているだけだから苦笑いしか浮かんでこないのである。
初めに記載した「尻切れトンボ」の感想は、恐らくは作者たちの頭の中の攻撃対象が実際には存在しなかったことから、振り上げたコブシの置き所がわからないという中途半端さからくるのであろう。はっきり言って、バカバカしい。
最後に少女が「これではいけない」と歩み始めるようなのだが、そもそも前提自体が大いなる勘違いの産物なのだから、どう考えたって外国人参政権とかフェミニズムとかのデタラメな社会運動wにシャシャリ出て、社会に害悪をもたらすとしか思えないのは小生だけだろうか。
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