本作品は「ゴッホの複製」に全てを賭けた男のドラマだ。
複製といってしまえば、それは平たく言えばまがい物であり、コピー品であり、
つまり我々がよく知っているあの《商標や意匠を不法に犯して世界中でチープな金稼ぎをする偽物市場》の、残念な姿なのだが、
まさかのその“偽物工場"を取り上げてのドキュメント。
働く男に焦点を当てた大変珍しい映画なのだ。
・複製は 低級品。
・いかがわしいからダメ。
・丸写しはやってはいけない事なのです。
― この“正義観"は、テストのカンニング行為や、夏休みの宿題のズルが 許されない卑劣な行いなのだと、ずっとずっと教え込まされてきた我々の「規範」だし、それらは僕らの骨身に、幼い頃から染み込んでいる「道徳」。
だからコピー品も、コピー品を作る人たちも、そしてその工場を抱える国のことも嫌いだし、軽蔑してしまいたくなるのも分かる。その感情は身に覚えがある。
でも!まさに!そこをポジティブに昇華させているこの映画の着目に驚くのだ。
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学生時代に僕はギリシャ語聖書をテクストとする「写本学」をかじった。
いにしえの写本家が、原典や原本を手本として、忠実に肉筆で写し取ろうとするその作業を、コピー複製された複本を俎上にして、そこから様々な情報を読み取ろうという学問である。
もう少し詳しく説明すれば
「写本」とは、心を無にして写し取る行為。
もし例え原本上に文法やスペルのミスを発見しても、ミスをミスとしてそのままで写本する。訂正や改善や解釈をしてはならない。
雑念を払い、恣意的な改変の欲を捨て、ただただその原典への畏敬のみから、自分の存在を消して使命にいそしむ訳だ。
しかし、ところが!
写本学の面白さは、第一段階として、ミスもミスのまま写経する、写譜をする、コピーをする=つまらないが正しい行為に挺身した写本書記たちへのリスペクトと、
そして第二段階として
興が乗ってしまったが故に筆が滑ってしまった写経屋・写譜屋のメンタルや、それをさせた当時の時代的・文化的背景を、欠格コピー品の裏側に発見し、そこを批判的に読み取る学問なのだ。
より古く、より短く、より稚拙で難解な写本がより原本に近いとされるのが写本学なのだ。
(逆に言うと より新しく、より長く、より読みよい写本は後代の物と見なすという原則がある)。
自分のパーソナルな衝動を抑えきれない職人は、その仕事に不適合で、失格者なのだ。
中国。深圳のターフェンで、20年間、数万枚のコピーを作るこの複製工房。
職人たちは “正しく自分を殺して"忠実に原画を写し、「ゴッホのサイン」を入れ続ける。
ところが本作、
趙小勇=チャオ・シャオヨンは、ついにコピー行為に飽き足らず、彼は道を踏み外し、アムステルダムへと出かけてしまう。
出家だ。
写経の道。般若心経を知る我々としては、そこに欣求する信心を理解しやすいのではと思う。
膝を打ち、筆を置いて立ち上がる。
「信従」が起こるのだ。
人生の旅路において、ついに本物に出会うと
修行してきた者の技術が変わる。
技術が変わるだけでなく、人間も変わる。
その変化の内面を写し取ったこの映画は、僕自身の衰えていた「本物への憧れ」を静かに再燃させてくれるものだった。
趙がアムステルダムで目撃したのは ―
①太刀打ち出来ないと知ったゴッホ真筆の輝きと、そして
②自分たちの作品が画廊ではなくて道ばたの土産店で売られていた情けない光景だった。プレハブの小屋だった。
が、
衝撃のその光景を、趙は新しい仕事へのきっかけにする事が出来たのだ。
いじけるのではなく、挫折するのでもなく、むしろあのゴッホの境遇をそこに重ね見て、喜びと芸術へのマグマを、彼は自身の内に感じたのだ。
20年間の徹頭徹尾があったからこそ、あの人はプレハブの土産屋には負けなかったのだ。
中学中退の辛かった境遇に思わず涙する本人。
子どもたちの苦労や貧乏生活を語る場面では暗い「馬鈴薯を食べる人々」が映る。
素晴らしい編集だ。
趙はゴッホの弟子として
フィンセント・ファン・ゴッホが誰からも理解されずに、その生涯を貧しく閉じたように
趙はオランダに同行した絵描き仲間に向かって「オリジナルを描こうじゃないか」と熱く提案する。
彼の凄まじく燃える目。
尊敬するお婆さんをモデルにして絵筆を振るい始めた彼の目。
工房の仲間や妻の姿を描きながら 熱く語りだす趙。
「ゴッホは俺たちを見ていてくれたはずだ」
「今は評価を求めない」
「こいつらの絵はダメだと今 言われても」
「50年後、100年後だ」
「俺の人生が俺の芸術」
と、熱意がその口からほとばしり出る。
このドキュメンタリーの頂点の場面だ。
下積みを経てきた者だけに与えられる、本物に出会うことの圧倒的事件が、ここに有るだろう。
鳥肌が立つ。