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完璧。
完璧だ。
今年のアカデミーは、またかっこつけたせいで、この大傑作の監督、マーティン・マクドナーを候補から外すというイカレた結果。
まったく何考えてんだか。
その演出力は、前作「セブン・サイコパス」の収拾がつかなくなったタランティーノのバッタもののイメージから一転。本作を、タランティーノ以上に人が描け、デヴィッド・リンチ以上にわかりやすい映画に仕上げた。
それは、フォーマットが西部劇であり、田舎町での珍事、という「ツインピークス」を彷彿させることでも分かる。
うまい!!こりゃ映画オタクにはたまらない。
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「スリー・ビルボード」
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本作の登場人物は常に対比の関係を持っている。親子、夫婦、黒人。白人、小人、ホモ。イカレた元軍人。
すべて何らかの形で「異形の存在」である。
そう、それこそが、アメリカ。
「そもそも、お前ら自身が異形の存在じゃねえか、なにを国外で、国内で、街中で、身内でバカな争いをしてんだよ(笑←これ重要)」
これこそが、マクドナー監督のメッセージだろう。
それを皮肉たっぷりに、でも愛すべき「西部劇」のフォーマットに乗せて、「愛すべきキャラクター」として登場人物を描いているのだ。
怒るものは怒る。
どうせお前たちはそうなんだろ?だったら、いっそいくところまで行っちゃえよ。
本作は主人公二人の成長のストーリーでは決してない。彼らは行きつくところまで行き、足を止めたのに、最後の最期でも間違った行動を起こす。だが、ラスト、その道中の一言が本作の、最も重要なセリフなのだ。
「あんまり」
なんだか気乗りがしない。でもまあ、みちみち考えてみようか。
このすこし今までの執着と諦めの分岐点。
人は簡単に転ぶ。また人が転ぶのは、これまでそうと思っていなかった人物の言葉に寄ったりする。
身勝手に自殺した(これはあまりにずるい行為だし、実際そのようにコミカルに描かれていた)署長の手紙に、大好きな曲の影響もあり、簡単に転ぶディクソン。ちょうとその裏では、最も怒りがMAXにおよび明らかに常軌を逸した行為となったミルドレッド。
行き過ぎた感情の爆発による警察署の放火のなかで、改心している奴がいるというブラックな笑いの構図。
あんなに差別的なディクソンの母親もとてもいい。ディクソンがああ育ったのはこの女のせいだが、ディクソンの支えになっているのもこの女なのだ。ソファーで眠る母親に赤い照明は、リンチの映画のよう。だが、その感情はリンチとは違い、とても穏やかだ。
誰もが、自分勝手、だが誰もが愛され、大事にしている人がいる。でもつまんないことで転び、つまんないことに改心させられる。
これって実はオレたち、外から見たアメリカのことでもあるんだよね。
本作は常に、怒りと笑いが寄り添う。それすなわち、執着と諦めの関係と密接に関わっており、それが本作の味わいとなっている。
声高に負の連鎖とか、赦しとか、じゃなくって、その先にあるものがこの映画の在り方なんだと思う。
追記
映画で使われる楽曲が、字幕なしになったのは本当にイタイ。何とかしてほしい。最近の映画は本当に楽曲はセリフなのだ。
追記2
本作を観ると、「デトロイト」の今年のアカデミー完全無視の事情もよく分かる。やっぱり「デトロイト」が古臭いのは、何も手振れの撮影方法だけじゃないってのが分かるというもの。
追記3
署長、もと夫、広告屋。田舎の野郎はみんな若いキレイな奥さんを手にしているなあ。
と最後にくだらないことを言ってみる。