「視聴者だって「自分の見たいようにしか物事を捉えられない」」哭声 コクソン ヨックモックさんの映画レビュー(感想・評価)
視聴者だって「自分の見たいようにしか物事を捉えられない」
「ヒトは自分の見たいようにしか物事を捉えられない」
こんなシンプルなテーマをしっかり作品に落とし込んだ素晴らしい作品。キリスト教的な知識の前提がないと観れないとの評判もあるが、決してそんなことはない。
何が痛快かというと、前述の「見たいようにしか捉えない」ということが登場人物達の行動原理だけではなく、他でもない視聴者の意識にも意図的に強く働かされている点だろう。そういう意味で非常にメタ的な作品であると言える。
確かに所見のラストシーンを見た瞬間は、空いた口がふさがらないだろう。だがいざ冷静に回想をしてみると、別段注意深く見てなくても、映画論やキリスト教の知識がなくても、違和感を覚えるシーンがいくつもあったことが思い出される。それは韓国人にとって馴染みが薄く「オムツ」とわざわざ言及するシーンがあったふんどしを祈祷師がつけていることや、祈祷師が「呪いの元を殺す為に“殺”の儀式をする」と言っていたにも関わらず儀式を連動して身体を痛めるのが主人公の娘だったことなどが代表的だろう。
しかし視聴者は「この祈祷師は作中でも希少なイケメンだし、なんか必死に頑張ってて善玉っぽい」という印象がある故に、そういう小さな違和感を無視するか、あるいは自分にとって良いように解釈して無いものにしてしまう。
果ては、國村隼が映画や漫画でよくいる「悪人と見せかけて実は善人だった」というスネイプ先生ポジションであることを“作品の盛り上がり的にそっちのほうがありそうだし、楽しいから”という理由で、つまり非常に映画作品をメタ的に捉えた上での直感で決めつけてしまう。
それゆえに、挙げ出せばいっぱいあったはずの國村隼と霊媒師の怪しいところに目を瞑り、ついにはラストシーンで衝撃を受ける。最高にひねくれていて性格が悪い、素晴らしい構成だった。
前半パートの日常を強く意識させる描写も面白い。きっと韓国の田舎町のリアルな空気なのだろう。とても素朴で美味しそうな食事シーンが意図的にたくさん盛り込まれていて、出てくる登場人物たちも決して美形とは言い難い素朴な連中ばかりだ。
彼らのささやかで幸せな日常が十二分に描かれているからこそ、それが崩壊していく絶望感もまた大きなものになっている。
ニュース映像などでみるに感情が昂ぶった時に大声で叫び立てるのは韓国人の習性なのだろうが、後半はもうギャーギャー叫びっぱなしで割とうるさかった。もうちょい静かに落ち込むするシーンがあっても良かったのではないか。
おそらく善なる精霊か何かであろう白い服の女は、主人公が家に帰るのを引き止めたが、それはせめて彼一人だけでも救うために呼び止めたのだろうか?
白い服の女は割と喋れるし動き回れるので、もうちょっと密にコミュニケーションとりながら積極的に行動すれば色々解決できたろうに。(と言い始めると映画自体が終わってしまうのだが)