劇場公開日 2017年1月21日

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沈黙 サイレンス : 映画評論・批評

2017年1月17日更新

2017年1月21日よりTOHOシネマズスカラ座ほかにてロードショー

究極の試練を突きつけられ“なにが正しいのか”を見失った人間たちのドラマ

少年時代のマーティン・スコセッシが「聖職者」か「マフィア」になりたかった――という逸話はもはや映画界の伝説のひとつと言っていい。ちょっと話が膨らんでいる気がしなくもないが、スコセッシが“信仰”と“暴力”に魅入られ引き裂かれてきたことは、監督作の主人公の大半が善と悪の狭間で葛藤し、狂気の域に踏み込んでいくことからも見て取れる。

悪に正義の鉄槌を下すつもりが実際にはストーカー気質のテロリストでしかない「タクシー・ドライバー」のデ・ニーロ。憧れたマフィアの世界でのし上がりながらわが身かわいさで仲間の絆を裏切る「グッドフェローズ」のレイ・リオッタ。実業家、映画監督、パイロット、航空機デザイナーとありあまる才能を持ちながら潔癖症で身を亡ぼす「アビエイター」のディカプリオ。平たくいえば“とっちらかって”おかしくなった連中ばかりだ。

スコセッシが28年ごしに実現させた「沈黙 サイレンス 」は、キリシタン弾圧が苛烈を極めた江戸時代初期の日本に乗り込んだキリスト教宣教師の物語だが、これもまた“とっちらかった”人たちの物語だ。そもそも主人公のロドリゴは、尊敬する師が「キリスト教を棄てた」と聞き、ことの真相を確かめようと日本に潜入する。熱い信仰心と「うちの師匠が“とっちらかる”わけがない!」という確信だけがロドリゴの武器なのだ。

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展開はほぼ遠藤周作の原作小説の通りだが、こんなにスコセッシ的なキャラクターたちもいるまい。誰よりも人格者であるはずなのに裏切り者の烙印を押された師匠。情熱に突き動かされてやってきたのに、信者たちの苦境に一筋の救いの光も見出せない弟子。そもそも言葉も分からない極東の島国で、本当に彼ら自身が命を賭す意味はあるのか?

宗教論を語る難解な映画ではない。あまりにも厳しい現実を前に、価値観を根底から揺さぶられ“なにが正しいのか”を見失った人間たちのドラマ。大小のレベルはともかく、日々大切なことを見失いがちなわれわれに降りかかる“究極の試練”が描かれた作品なのである。

映画を観てスカッとしたい人には残念ながら向かないが、人間の前に屹立する大自然の荘厳さや、清濁あわせのむ凄味を見せるイッセー尾形浅野忠信、もはや弱いのか強いのかもわからない卑小さの権化に扮した窪塚洋介らの日本勢の名演など、一部だけ取り出しても見応えがありすぎる要素を塊にしてギュッと凝縮させたような渾身作である。

村山章

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