LION ライオン 25年目のただいまのレビュー・感想・評価
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子役のサルーが魅力たっぷり!
まず言いたいのは、この手の映画につきものの「感動の再会」に伴う涙。確かに泣けます。そこは外してない。でも、そこに至るまでの抑えておくべき事象をていねいにつぶしておかないと、必ずしも感動には至らないということです。 そういう意味では、この映画は期待に応えているし、その一点に絞って見せればよかったと思います。あまりにも、余計なものを描き過ぎた。もっとはっきり言ってしまえば、大人になった後の、サルーの日常を描く必要性を、まったく感じないということ。只々、映画が長くなるだけで、恋人との逢瀬など、バッサリ切ってよかったと思います。 デブ・パテルの、雰囲気たっぷりの主人公ぶり。彼は、今まで演じてきた中で、もっとも素の自分に近い役なのではないかなと思いました。良かったのは、水面から顔を出す登場シーンのみで、そこからはどんどん期待値が下がっていきました。ニコール・キッドマンも、初めて実年齢に近い、若づくりの必要のないというか、首元のたるみなんかを容赦なく映し出されていて、それなりの覚悟をもって挑んだ役だと思います。 でも、何といっても、子役のサルーの素晴らしい演技。彼に尽きます。ほとんどセリフのないフィジカルな演技で、観客の目をスクリーンにくぎ付けにしてしまう魅力にあふれているのです。彼が出会う、数々の大人たち。それを自分の本能だけで選別していく洞察力だったり、小さな体に満ち溢れているエネルギーたっぷりの動きだったり、蝶の大群に魅了されている幼い好奇心だったり、説明のいらない奇跡的な美しいシーンが、網羅されています。それだけでも見る価値ありだと思います。個人的には、小さいのに、走るフォームがとても完成されていることに感心しました。大人用の自転車を持ち上げるシーンも、どうやら自力でやっているようです。なので、彼は子供ながらに、完成された骨格の持ち主のようです。 それもあって、成長した姿のデブ・パテルが、集落でも頭一つ抜けた背の高い大人に成長したのは、ちょっと不自然な印象を受けました。いくら栄養状態がいい環境で育てられたとはいえ、もって生まれた体格はそんなに簡単に覆らないでしょう。ストーリー的にも、「親子」という説得力が、画面を通じて生まれていませんでした。 総合的に見て、いい部分と、そうでない部分の落差の激しい、、非常に残念な作品でした。 2018.5.30
インドの映画は美化されていてリアルを伝えたい
2019年にインドに行きました。 今から10年前にインドに投資した人が 10年経っても発展しない国はこの先ないだろう。そしてこの先10年経っても何も変わらないだろう、というくらい、インドの貧困は凄まじかったです。 インドで言う東京に当たるところですら治安は悪い。 ホテルに入るには車チェックしてから柵が降りて、中に入るには荷物検査に通してから。 世界2位の人口数を誇るのに 人口13億人に対して貧困率が13.4%。 日本人全員以上の人が貧困ということ。 この映画は、本当に一部に過ぎない。 今日1日を生き残るために必死に物乞いをする人たちがたくさんいました。 インドに行って世界観が変わったことを、この映画を通して思い出しました。
塞翁が馬
インドでは行方不明になる子供が毎年8万人と言われているらしいが、サルーは裕福な里親に引き取られ本当に運がよかったと思う。
生まれ故郷の田舎街で貧しい中暮らすより、迷子になり家族とは離れ離れになったが外の世界を知れ、何不自由なく大学まで通わせてもらえたことを考えるとあながち悪い人生でもなかろう。
遅ればせながら観ました
産みの母、育ての母もいずれも母親に感情移入してしまいました。 サルーが故郷に帰ったとき、「早く!早く!走って!」と1秒でも早く産みの親と会ってほしくて、気持ちがせわしかったです。妹と対面したときも胸がいっぱいに。 ネットで検索したところ、産みの母と育ての母も対面できたようで良かったです。
母
母を思う子、子を思う母。サルーの子供時代は可愛い、いじらしい。大人になったサルーは今一つ。自分の事ばかり、後ろばかり見て前や周りが見えていない。
再会は感動シーンなのだが、その後の兄クドゥの死がいたたまれなかった。
実話と知り、感動と困惑
幼少期、兄、家族、故郷と別れ危険な目に遭いながらも生き延び、成長し忘れた故郷へ帰るために葛藤する姿がドラマチックだった。
だが、感動とともに孤児の身売りや性被害の現実が明らかになり動揺も感じた。主人公は強運の持ち主だったのだと思う。
兄の死因は取り上げられていなかったが、立派に成長した姿で再会を果たせず、お互いが心残りだっただろうと思うと切なくなった。
目を背けたくなる現実
文盲の母、幼い子供が労働や盗みを働いて得られるのは不衛生な牛乳。家族思いな子供たち。物語前半の描写は、自分がどれだけ恵まれているかを再認識させられる。大人になった主人公の、何もかも恵まれた生活に対する「吐き気がする」のセリフが印象的。 今もなお世界でこのような現実があることをなんとなく知りながら、他人事として生きている自分への嫌悪感を感じた。
全てが今に繋がっている
故郷ganesh talaiと、コルカタと、オーストラリア、全て、物価から言葉から喧騒、人々の暮らし、何もかもが違う場所。
インド内だけでも、言葉が違い土地をまたぐとコミュニケーションを取るのが大変だと言うのに、共通語の英語が浸透しきっていない数十年前、識字率が低い街の生まれでは、5歳でうろ覚えでも故郷の名前を覚えていただけでも御の字だろう。
せめて、カンドワの地名だけでもわかれば!
インドでの5歳児の知恵、命や生活に密着した生きぬく力、体力と、欧米の子供の幼い暮らしぶりは全く違う。何ヶ月も幼いながらに危機を回避し食べ物と寝る場所を確保しながらホームレスをしてきた子供に、里親夫妻がコアラのぬいぐるみを差し出すシーンはとても印象的だ。どんなに優しく思いやりのある人達に囲まれていても、誰の想像にもつかないほどの土地や暮らしをいくつも超えた経験を、1人でしてしまったのである。
同じ月日に生きていても、稼ぎ方や生活水準、必要とされる暮らしぶりは土地により全く異なる。
迷子から里子になり成人し、視野が広がり世界に目を向け、それを理解するほどに、ルーツと育った環境の間でどちらに落ち着くべきか揺れ動く心情はとてもよくわかる。まして、一生懸命に育ててくれた、育ての親だが心からママだと思える母がいて、産みの親を探すことには罪悪感がかられるのは当然だ。
でも、満たされた暮らしの中で埋もれて消えそうになっていたおぼろげな記憶の断片が、育ったオーストラリアでの出会いの中で掘り起こされ、ヒントとなり、つなぎ合わされ、与えて貰った暮らしと教育の延長で得た友人や知識のおかげで、再会への現実味が増していく。
地図で見ると気が遠くなるほどの探すべき範囲と駅の数。間違いなくGoogle earthの力は多大なのだが、ふとしらみつぶしの思考から離れ、直感的に記憶を辿り、色や草木の感じから辿れば、ぐんぐんと見つかる。ソフトウェアと人間の直感の掛け合わせの威力を感じた。
故郷の名前はganesh talai。カネストラ、と覚えていた主人公だが、もしもオーストラリアに引き取られていなければ、大学に入る学力があれば、カネスはどういう意味だろう?ガネーシャっぽい名前だな、と推察することもできたかもしれない。
神様の名前がたくさんあり、名付けに神様の名前を使うのは普通、獅子の神もいるインド。ライオンという意味の名前だったというと面白おかしく聞こえるが、ganesh talaiを実際にグーグルアースで調べると、寺院が多いのがわかる。お母さんが子供の将来を想い、大切に名付けたsheruという名前で、欧米で言えばキリストの弟子に入っている、アンドレとかトーマスみたいな物だと思う。
どれだけシステムが発達しても、実際に行ってみて感じてみないと想像が及ばず理解し合えないことはたくさんある。育ての母も、里子になるまでに大変な思いをした事はわかっても、石炭をくすねてきて売らないと牛乳が買えない暮らしや、迷子がきっかけで、でも迷子が遠く離れたインドでは売られたり、保健所のような環境に入れられて人生終了の意味を持つとは到底わからなかっただろう。
カネストラと言っても、良くわからない地名だし遠すぎるし、無賃乗車をさせたり幼児に添乗員を同行させる訳にも行かず、まともに相手にできなかった駅員。
里親探しの女性が実の親探しをしてくれたが、コルカタから遠く離れた山あいの街で新聞とは程遠い暮らしぶりの家族には、届くはずもなかったこと。
遠いオーストラリアに来て、不自由ない暮らしに元の暮らしを忘れそうになりながらも、元の暮らしでは不可能に近かった、大学に進学させて貰えたこと。
本当は兄の後ろを着いて歩く弟だったのに、里子同士の関係性では急に兄になったこと。それでも、不安定な弟の兄として関われたのは、似たような子供を孤児院で見たことがあったからなこと。
インドの子だからか、オーストラリアで両親がクリケットを教えてくれて、得意になったこと。
全てがものすごく遠回りに思えるが、大学の友達との出会いがなければ、過去を思い出すきっかけの揚げ菓子には出会えなかったし、グーグルアースを知る事も調べ方に気付くこともできなかった。オーストラリアの家庭に引き取られておらずインド内だったら、飛行機のチケットを買う事も難しかった。
育ての母が、ある日運命として茶色い子を育てることを悟ったと話していたように、25年間の全ては運命に導かれる必然の出来事だったのかもしれない。
大きくなるごとに、里親家族と過ごすごとに、人の気持ちがわかるようになるごとに、探して貰えなかったのではなく、兄がどんなに心配したか、母がどんなに心配したか、想像して確信が持てるようになっていく主人公の心の成長は、間違いなく里親家族との生活の中で培ったもの。
迷子になったその夜に、兄が弟とはぐれた不安と後悔に苛まれながら汽車にはねられたと想像すると、幼児ゆえの当時の自分が引き起こした取り返しのつかない命に心底申し訳なく感じるだろうと後味は悪いのだが、誰も悪くはない実話である。
インドでの年間迷子8万人。2度と親元に戻れないばかりか、生きて成人できるかも怪しい子ばかりだろう。25年かかった事より、25年ぶりにでも会えた奇跡が素晴らしい。
インド人の友達の中のひとりの息子が、本作品子役のサニーパワールにそっくりの顔立ちである。インド人の子供にはよくいる顔立ちではなく、選ばれた整い方の顔立ち。サニーパワールくんがいかにシンデレラボーイかよくわかる。でも、私の友達とその息子の家族を見ていると、サニーが成長しても絶対に主人公の成人後のような頭の大きさにはならない、インドでも、小顔は小顔のまま成長する。激変ぶりが見ていて面白く、最初水面から成長後の姿が出てきたときは、弟かと思った。
綺麗な映像のドキュメンタリー
物語は単調単純でしたが、
ドキュメンタリーとしては素晴らしいのでないでしょうか。
こんな事実があるということ、
人生どうにでもなると思えてきます。
サルーの何という強運、
すぐ後に亡くなったお兄さんが守ってくれてたんのかなあ、なんて思いました。
映像は綺麗、ストーリーとしては中身が薄い
映像が綺麗で、俳優も脚本もいいと思う。 だけど、実話自体の内容が薄いのか、尺をとるためにやっているの?って見えてしまう、主人公の葛藤の下りが長い。 迷子になった子供がオーストラリアに養子として出国、25年後故郷に帰ったという話し。有名女優を起用しているけど、そこを深掘りするか、全部無くすかで良かったと個人的に思う。 実話としての最大のオチが最後にあるとしたら、それもインパクトに欠けたと思います。
タイトルなし
実話で本当に生き別れた母親に会えて良かったし、素晴らしい話で、Google Earthの便利さは凄い。インドというとデブ・パテル一択か分からないが、もう少し、ルーツを探す苦悩や立派に育った過程を描いてほしかった。
ボタンの掛け間違い
ボタンの掛け間違いのような 紙一重で人生は良い方にも悪い方にも転ぶ 実の子を育てるよりも不運な子供を 引き取り育てた方が意義があるという言葉 なんでも過剰な現代を改めて考えさせられた
寒いレビューが目立ちますね
ノンフィクションものであればここまでの完成度はあまりありません。 作品として完成させるなら改善点は多いかもしれませんが、私はこの作品はこれで良かったと思います。だってラストが感動したもん! ストーリーの構成は単調で、時系列もいじることなく進んでいきますし、育ての両親の想いや、サルーが25年間インドの家に帰れなかった理由、または役者の使い方、作品としてみれば大いに不満がある方もいるかもしれません。 私も途中までは、3.5くらいの評価なのかなと思っていました。しかし、もうただの一般観覧者からすればラストのワンシーン、タイトルの意味、それらに感動した瞬間、評価が4にも5にも変わっていいはずです。 序盤、列車の中の緊張感の演出も上手いですし、子役の演技も際立ちます。私は、実家の見つけ方も好きです。あそこはかなり脚色があると思いますが、ど定番の予測可能な、でもワクワクする描き方でした。 ここまで引き込まれたノンフィクション映画は他になかったかもしれません。 確実にお勧めできる作品ですね。
実話
海外には自分の子供を作るより、外国の身寄りのない可哀想な子供を育てたいと思う人間愛溢れる人がいるんだなぁとそこが一番感動しました。引き取られる前の色んなトラウマを抱えた子供を育てるなんて苦労するのは目に見えている。でもこの主人公は養父母の気持ちにしっかり応えられる立派な大人になりました。
家族になるという意味。人間の愛情に貧富の差はない。
インドに住む5歳の主人公が、不運にも、兄とはぐれ迷子となり、浮浪児となる。あぶない大人に利用されそうになりながらも保護され、幸運にも、オーストラリアに住む夫婦の養子となる。この愛情深い養父母はもう1人インド人の男の子を引き取り、4人家族として不自由のない暮らしの中で主人公は育てられる。 幸・不幸はなにが決めるか。 主人公は迷子になったお蔭で、貧困から抜け出せたとも言えます。しかし兄弟となったもう1人の養子の子は、同じ環境でも、全然馴染めず、ずっと適応できないまま苦しんでいる。 主人公は適応し、順風満帆な幸せな人生を送っている。 しかし大学生となり、新しい環境と友人との会話から、何かが動き出す。 自分のルーツへの扉。 それは抑えることのできない自分自身への旅。 インドの母や兄の記憶。地名も自分の名すらうろ覚えなのに。 迷ったあそこから記憶を辿りGoogle Earthで、くる日もくる日も探さずにはいられない。 すると恵まれて幸せだった暮らしが、 突如「吐き気がする」ほど忌々しく感じられてしまう。 実母を探そうとする自分を、養母に知られたくない。 愛しているからこそ傷つけたくない。 仕事、恋人も、養父母との関係も、距離を置くようになり、これまでの穏やかな日常が土台から崩れていきそう。 主人公を傷つけないように、誰も言葉にはしないが... ほんとは主人公は実母や兄に、捨てられたのではないか。口減らしに。年間何万人も同じような子いるという事実。 20年以上経って親を探したところで、かえってヤブ蛇では。だって真実は時として残酷だから。 ならばもうこのまま、インドのことは忘れて。 今が幸せなら、それでいいじゃないか。 観客の私ですら、苦くもうっすらそんな思いを抱きつつ。主人公の恋人もさりげなく「引っ越してるかもよ」などと言ってみたり。 でも主人公は違いました。 貧しい家だったけれど、母も兄も自分に愛情を持ってくれていたこと。 自分がいなくなって、どれだけ心配しているか。 信じているのです。 5歳でも、自分がほんとうに愛されているかどうか、 わかるんですね。そしてそれは時間が経っても消えない。 逆に甘い言葉をかけても、利用しようとしてるかどうかもわかる。 人間社会は愛もあれば、嘘や偽りもある。 真実は心の眼でしか見えないし、人を信じるのは勇気が要ります。 最近私も人間性善説に迷いが出てきたところです。 でもこのニコール・キッドマン演じる養母が教えてくれる。優しさも、人間のもう一つの真実だと。 養母は2人の養子に、幸せをもらえたと同時に、 大人になっても心が潰れそうなほど心労が重なっています。 養子をとった自分は正しかったのか。 迷いが出たことを正直に打ち明けつつも、本当に選り好みせず、育てにくいもう一人の養子に対しても忍耐強く見守り続けます。 子は授かりものですね、実母だろうが養母だろうが。 愛情とは、覚悟のこと。 自然に湧いてくるだけのものではありません。 私も正直、子育てって20歳になれば終了と思っていました。そこまで頑張るぞって。 が、全然そうじゃない。 一生続く。むしろそこからが大変なことも。 家族になるって、親子になるって、たくさんの課題を乗り越えて行かなくてはならない。 愛情が本物かどうか試されてしまう。血が繋がっていても。残酷です。 一人で越えられない時、その苦しさが、否応なく家族の心にも流れ込んできます。 一緒に耐えられるか。 ギリギリの判断をしないといけないことも出てくる。 いまの世の中は断捨離の流れ、物だけでなく関係も切り捨てることが早いように感じます。 社会も会社も変わりましたから。 ストレスフルだから、簡単にしないと、自分が潰れてしまう。抱えきれないのです。 だから何でも面倒を減らす。 でもこの面倒臭い何か。捨てられない何か。 お金ではなく、それを持つことが豊かさで、人を支えてくれるものかもしれない。 一生に一つか二つくらいですよ。 そういうものに出会うのは。 捨てたら楽なんですが。 逆に安易に手放してはいけないのかも。 若い時は、失くしてもまた次がある、と私も考えていました。 でもそうじゃない。 この映画、実話です。執着しないことは大事だけれど、愛には粘りも要りますね。少し考え、変わりました。
子供時代のサルーが可愛すぎて
5歳で迷子になり、養子としてオーストラリアで暮らしていたサルーがGoogle Earthを用いて25年ぶりに故郷に戻る話。
結果が分かっていてもやっぱり再開シーンは感動した。
感動だけでなく前半、養子になるまでの過程にしっかりと時間を費やし、貧困による子供の労働、人身売買、路上で暮らす子供達…5歳のサルーを通して適切な保護を受けていない子供が多くいる現状をみせられた。子供の保護施設なんか監獄なんじゃないかと思った。そんな中でたくましく生きるサルーの可愛さたるや。
後半、意外と家族を探すのに奮闘するのはあっさりと描かれていた。それより、探すことによる育ての親への罪悪感であったり、こんな経験した人はいないため苦痛を分かち合う人がいない中での葛藤を見せたかったのだと思った。
養子は子供ができないからとるもんだと勝手に思っていたが、苦しむ子供を救うため、そういう考えあるんだとハッとさせられた。
個人的には最近推しているルーニーマーラとの関係の描き方があっさりとしすぎてちょっと残念。
「Google Earth、すご!」ってのもありますが。それより。...
「Google Earth、すご!」ってのもありますが。それより。
ブライアリー夫妻は自らの子を産み育てることができたにも関わらず、
今現在不幸な境遇にある子を救うべく彼らを養子にすることを選んだ
というエピソードの方がもっと衝撃を受けました。
不幸な子をマイナス1とした場合、
それを放置し、実子をもうけ、それに働きかけて全体的にプラスにするのではなく、
まずマイナス1をプラスに変えようとする、ということでしょうか。
そこには、子に血の繋がりの有無という仕分けはなく、
天からの授かりものなのですべて同じとする考えがあるように思えました。
そして、宗教心なのか人道的思想なのかは分かりませんが、
そういった理性的な判断を感情に優先させうることが驚きでした。
そういえば。小野不由美「十二国記」の世界では、
生殖的に得る子という観念はなく、夫婦が里木に祈ってそこになった実から子を得ます。
これと似ているように思えました。
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