彼は秘密の女ともだちのレビュー・感想・評価
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僕はゲイでもバイセクシャルでも無いが、デビットの考え方に共感する。...
僕はゲイでもバイセクシャルでも無いが、デビットの考え方に共感する。
ヒゲ面のデビットを見て、主人公が『ひげ剃りは』と質問する『分かる?』『分かるわ。女でいるって大変よ』
『男の子はキャベツから女の子は花から生まれる。私はカリフラワーから生まれたの』
見た目じゃないと言う事なんだけど、心の中の問題だと思う。僕自身の個人的な性的な嗜好は『ヒゲ面の暴力的男が大嫌い』って所だ。個人的嗜好だ。その感情を省いて、現在のLGBTの問題は存在するが、どんな性的な嗜好であっても、女性の地位が低い事に問題があると思う。兎に角、売春防止法を『物理的な男女』の為に確立する事が出発点だと判断する。
付け足し
バイセクシャルの女性と半年間仕事をしたが、彼女(物理的)は、性的な嗜好と関係無く、人間的に長けていた。その印象が強いので、LGBTには理解はあるほうだと思っている。
そうでもないかなぁ?
『キンキー・ブーツ』の『ドラッグクイーン』のローラよりもこの映画のローラのほうが見た目で美しいと思うもの。
この映画は男性監督の男目線な短絡的な解決方法として理解するし、共感も持てる。ご都合主義だけどね。
【女装癖のある男が、亡き妻との間に出来た子を”母であり父”として育てる姿。それに違和感を感じつつ男をサポートする亡き妻の親友の姿を描いた作品。文化の許容度を示した作品でもある。】
■幼い頃からの親友・ローラを亡くし、悲しみに暮れるクレール(アナイス・ドゥムースティエ)。
残されたローラの夫・ダヴィッド(ロマン・デュリス)と生まれて間もない娘リュシーを守ると約束したクレールは、ふたりの様子を見るために家を訪ねるが、そこにはローラの服を着て娘をあやすダヴィッドの姿があった。
◆感想<Caution 内容にやや触れています。>
ー 私事で恐縮であるが、高校時代の友人で、私に好意を持ってくれる男がいる。
最初は驚いたが、徐々に彼の性癖を理解出来るようになり、私はクイアの性癖を持つ人たちに対する偏見は無くなった、(この辺りは、「アナザー・カントリー」や是枝監督の「怪物」の当方のレビューをご一読頂けると有難い。)-
・今作は、女装癖がある男が、妻を失ってから幼子の為に、”母と父“を演じる姿がややコミカルテイストで描かれている。
・私は、フランソワ・オゾン監督は、クイアの性癖を持っているのではないか、と以前から思っているのであるが、今作を観るとその思いは強くなる。
但し、それを否定する気は全くない。
彼は、人間の性癖を肯定的に描いているのである。
・今作でも、妻を亡くしたダヴィッド/女装の際にはヴィルジニアを演じたロマン・デュリスがその姿を絶妙に演じている。
ー 更に言えば、その彼の姿に驚きつつも、クレールを始めとした周囲の人間はその姿を肯定的に受け入れてるのである。ー
■少し前に、荻上直子監督が公開した「彼らが本気で編むときには。」が公開される前に、この映画サイトで多くのレビュアー(今や、影も形もない・・。)が1を付けまくっていたのを見た時には心底、がっかりした。
映画はクイアの男性(生田斗真)と同居する男性(桐谷健太)の生きる姿を描いた心に沁みる作品であったが、人間性肯定の素晴らしき映画であった。
アメリカに在住されていた荻上監督の発言は今でも覚えている。
”アメリカでは普通に男性同士、女性同士が手を繋いで街を歩いているのですが、日本に来るとそういう姿は見ないんですよね。”
<私は、同性愛を推進する積りは毛頭ないが、人間の様々な性癖を許容する文化の深さって、その国の文化度を示すのではないかなと思うのである。
同性愛者という理由で虐殺される国には住みたくないよな、とも思うのである。
今作は、フランソワ・オゾン監督の懐の深さを感じる作品でもある。>
オープンな心構えで見ないと混乱しそう
ダヴィッドはメンタルが女性で、
好きになるのは女性なので
ややこしいけど同性愛です。
クレールは男女ともいけるバイです。
ただし常識にとらわれてるので、
自分の中の同性愛部分をなかなか
認めることが出来ないのです。
そういった性癖もあるんだと
認識をもててないと
観てて途中で混乱してしまう可能性あります。
でも、大枠は性癖云々ではなく
自分の中に眠っている本当の自分の発見と
それを受け入れてくれる相手と結ばれる
難しさと素晴らしさを描いた
コビーどうりの人生賛歌だと感じました。
夫ジルがとってもいい人だっただけに
かわいそうでしたけどね・・・。
ラストの解釈が難しく2,3回みました。 クレアとデビットは2人にし...
ラストの解釈が難しく2,3回みました。
クレアとデビットは2人にしかわかり合えない思い出と世界観があるからこそ2人でした辿り着けない幸せがあって。クレア自身が無自覚のレズビアだったのかな、、
ジルは育児に家事が出来て昇格も昇給もして…もし7年後クレアと別れてたとしても幸せにやってけるよ
なによりラファエル・ペルソナーズさん格好良すぎる
フランソワ・オゾン流幸せのカタチ
最初は女同士の友情物語と思った。
クレールとローラ。
少女時代に出会い、一目惚れの如く、無二の親友に。
何をするのも一緒。恋も。失恋も。結婚も。
やがてローラは出産。が…。
ローラは病に倒れ、亡くなる。
クレールはローラの葬式で悲しみに暮れながらも、彼女の夫ダヴィッドを支え、娘リュシーを守る事を誓う。
死後も変わらぬ女の友情。
ある日…。
ダヴィッドとリュシーの様子を見に行く。
驚きの光景を目にする。
ダヴィッドが女装してリュシーをあやしていた。
ダヴィッドには女装の趣味が…いや、女性の心が。
女同士の友情物語から、LGBTの作品へ。
“女性”になったダヴィッドにはローラも理解は示していたと言うが…、
クレールは理解出来ない。
しかし、秘密を知った/打ち明けた者同士、交流を深めていく内に…。
クレールは再び女性としての魅力を取り戻していく。
ダヴィッドも“女性”としての魅力を増していく。ヴィルジニアと呼んで。
LGBTへの差別/偏見、理解/受け入れも込められている。
夫を愛しているものの、いつしかヴィルジニアに惹かれているクレール。
ダヴィッドとして夫と親友となり、ヴィルジニアで居られる時が減り、彼女に会いたいと訴えるクレール。
二人は身体を求め合うも、我に返り…。
その直後…。
LGBT題材の作品では大抵悲劇が付き物。
このまま『ミッドナイトスワン』のような路線一直線かと思いきや、
最後は幸せのカタチ。
フランソワ・オゾンにしては珍しく、ハッピーエンドに感じた。
この作品はわたしが同性愛に抱いていた疑問を見せてくれた初めての映画...
この作品はわたしが同性愛に抱いていた疑問を見せてくれた初めての映画でした。
というのも、大抵の映画では生物的に男である人が生物的同性を好きであれば同性愛としています。
でも、生物的男の人が自分を女だと自覚した上で男を好きであれば、異性愛なのではないか。
一方、生物的男の人が自分が女だと自覚した上で女が好きであれば、見かけは異性愛だけれども彼にとっては同性愛になるのではないか。てなことを思っていたのでした。
ここは、さすが自身がゲイであるフランソワ・オゾンだからこその心象描画ってところでしょうか。
そして、七年後を描いたラストシーンは、
クレールと(ヴィルジニアとしての)ダヴィッドがリュシーを小学校に迎えに行っていますが、
観客の想像を色々とかき立てます。
クレールはジルとは離婚しヴィルジニアと同居しているらしい、
で、クレールは妊娠しているようだけど、それはジルの子?ダヴィッドの子?
オゾン作品としては・・・
女装癖はもともと少しはあったようで、妻ローラ(イジルド・ル・ベスコ)が死んでからそれが復活してしまった。女装すると娘リュシーが泣き止むことも彼の女装を加速させた。
父親と母親の両方をやり抜くなどと決心したものの、まだ女装のまま外出したことがないダヴィッド(デュリス)。女性名はヴィルジニアだ。クレール(ドゥムースティエ)を連れてショッピングに行くと、自信が持てるようになった。一泊旅行で、ローラの実家の別荘に泊まったときのことを、夫ジル(ペルソナーズ)に誰と行ったんだと問いただされるが、ダヴィッドがゲイでその悩みを聞いていたと答えるクレール。
次第にクレールのことを好きになっていくダヴィッド。昼食後にホテルに誘い、彼女と男女の関係を強引に結ぼうとする。しかし、クレールは寸前に逃げ出してしまう。その後、ダヴィッドは車に撥ねられ、意識不明の重体。何日か経って、病院で覚醒しそうにないデヴィッドに対して、女装を施すクレール。すると目が覚めた・・・
7年後、小学校に入ったリュシーが女装したダヴィッドの元へ喜んで駆けつける姿を見ると、上手くいってるんだな~と、ハッピーエンディングでした。
オゾンが素直に女を愛でた、新たな一作。
幼いころからの親友同士の女2人の内、一方が病に伏せ他界した後、亡き女友達の夫の女装癖を知り、女装した彼との間に不思議な友情、そして不思議な浮気が発生していく。うん。これはフランス映画でないと成り立たないし、なんなら、フランソワ・オゾンでなければ描けない話のような気がする。
この映画で一番うれしいのは、女装癖を持つ男性をロマン・デュリスが演じたことだ。細い足と薄い体こそ、女装向きであるものの、しっかりとした顎や濃い髭などはまったく女性的ではない。最初に女装姿を見せる瞬間の衝撃たるや。しかし、それがいいのだと思う。映画で「女装」や「同性愛」を描く際、女装して美しく見える男優を起用するのが決まりのようになっている。しかし、世間一般にいる女装家たちが皆美しいとは限らない。むしろそうでない人の方が多いはずだ。そう考えたとき、この映画で女装をするのがラファエル・ペルソナではなくロマン・デュリスだったことが実に心強い。
原題は「Une nouvelle amie」。「amie」には「女友達」のニュアンスと「(女の)恋人」というニュアンスの両方がある。ちょうど「ガールフレンド」という言葉が一番近い感覚かもしれない。親友を失った後で生まれた新しいガールフレンドの異様さと奇妙さと気高さ。二人とも同じ大切な人を失った者同士で、女装の中に亡きローラを求める一人と、女装するダヴィッドの中にローラを見つける一人として、理解し合える部分があるのは分かる気がするし、分かるような気にさせる映画になってくれている。そして、セクシャリティやジェンダーの境界線を軽やかに超えて、しかも自由にステップを踏みながら行き来するようにして、二人が次第に距離を縮め壁を取り除いていく様に、不思議な魔力を感じる。もともとローラとヒロインのクレールの間の友情も、どこか同性愛的なムードが漂っていた。そしてクレールが女装したダヴィッドと情事をするその途中で「あなたが男だから」その先が出来ないと逃げ出してしまう・・・。なんだか耽美の国の物語のよう。
フランソワ・オゾンと言えば、女の醜悪さを見出してはそれを愛でるような(いい意味で)悪趣味な映画が多かった印象だが、この映画に関しては非常に素直に、女として生きることを謳歌する楽しさと美しさを称えているように見える。女として生き、女として着飾り、女として女と友情を持ち、女として女を愛する、そんな悦びが、生まれたときから女であるクレールと、妻の死後女装に再び目覚めたダヴィッドの双方から感じられる。ヒロインの夫ジルからしたら、たまったもんじゃないだろうけど。
大好き
友達として好き、異性として好き、理解者として好き、秘密を話せるから好き。
人に対しての好きな感情、好きな理由はもっともっとあっていい。
大好きだった親友が死に、大好きだった妻が死んで、その想いを共有できて、自分のアイデンティティーを共有できて。そして、大好きだった親友に妻を見て、大好きだった親友の夫に親友を重ねる。
色々な人が色々な理由で、血が繋がらなくても、どんな格好をしたとしても、誰を好きになっても、自分を偽らずに生きていける。それは、沢山ある大好きな感情と同じで、沢山ある私達の生き方。
ラストでそんな楽園を観ることができて、私も幸せです。
終盤で飽きる
子供と夫を残して死んだ親友との約束は、
その二人の面倒をみるということ。
しかし、その親友の旦那は女装癖があった…。
女なのか男なのかわからない彼と、不思議な関係に落ちていく…という話なのですが。
途中までは、女装したい彼に付き合って買い物に行ったり、目的がはっきりしている。
でも、側から見たら親友の旦那と買い物に行くのであって、そこを自分の旦那に言えないってことは、そういうこと…なんだろうなと。
暴走する二人は亡くなった親友の別荘に泊りがけでデート。
ここまできたら浮気です。
主人公は親友の旦那とセックスしかける夢まで見る。
完全に心も彼の虜です。
本人は認めないけど。
そして燃え上がった二人はホテルでことに及ぼうとするんですが、彼のモノに気づいた主人公は「あなたは男よ…!」といって飛び出て行ってしまいます。
そしてそれを追いかける彼が事故にあって意識不明の重体。
このあたりの陳腐な設定でがっくし。
そして、病院のベッドに眠る彼を女装させてメイクさせて、彼女がつけた女装の時の名前を呼ぶと目をさます、という。
主人公の中で、彼が男と女どっちに落ち着いたのかがわからないまま、エンディングへ。
終盤の流れに飽きてしまいました。
夫の立場は?
正直、最後は釈然としなかった。
性については、ボーダーレスになってきているものの、これは、また違った形なのかも知れない。
どうするんだろう…と心配しながら観ましたが、最後は、きちんと説明(描写)してはいなかったけど、主人公の旦那にはハッピーエンドではなかったと思う。
それって、どうなの?ちと考えさせられました。
愛とワインだけあればいい
ロマンデュリスが大分痩せてて、最初にクラブでローラと出会うシーンで吹きそうになりました。
減量の甲斐あって、脚線美が見事でした。
クレール役の彼女は、「普通の人」である自分から未知の欲望が滲み出てくる感じと、それに怖れて暴走気味になる感じが良かったです。でもすこーしイラッとします。
濡れ場も見応えがありました。ヨーロッパ映画での濡れ場や女性の裸体の使い方は、前後と馴染むのでびっくりしなくて好きです。日本映画で言う所の「体当たりの演技」感がなく、自然に披露している感じがします。
ヴィルジニアになる為のお道具に興味津々しでした。女性らしいヒップの為のパット付きパンティなんてあるのねぇ…
乳首付きヌーブラみたいのも、あるのねぇ。腰の毛の脱毛にwax!痛そう…
クレールは右目は右手で、左目は左手でってゆってましたけど、マスカラは利き手で両目塗るのがやりやすいとおもいます!
帰ってきて左手で左目にマスカラ塗ろうとしましたけど、ブラシが目に刺さるかとおもいましたよ?
でもそれはわたしが平たい顔族だからなのか?
鼻高族は左右持ち替えた方が塗り良いのかなぁ。
クレールが一般的な倫理感になかなかに縛られているので、なんどもヴィルジニアを傷つけるのがちょっとイラッとしました。
で、そこを突破するための装置が、交通事故からの昏睡ってのはちと安易というか、ありきたりに思えて、そこは冷めました。
ポールダンサーが使った歌を、目を覚まさないヴィルジニアにクレールが歌うのはちょっと胸熱でした。くさいですけどね。
クレールのダンナのジルが、ちょっとかわいそうではありますが、どうか許してやってください。
いきなり7年後でしたが、女の姿が板についたヴィルジニアと、多分デイビッドの子を宿してるクレールと、ママ譲りのブロンドがかわいいリュシーのファミリーにほっこりしました。
彼女らがあたりまえに周囲に受け入れられあたりまえに幸せであってほしいです。
正直に言いますと、見ていて何度か違和感がありました。
それは「げっ」という類の否定の感情でした。
多分わたしのセクシュアリティと、映画で描かれるそれの乖離への拒否反応だと思います。
ヒゲの色が残る口元にルージュが引かれているのを見ると、初見はどうしても、うっと身構えるものがあるのです。認めざるを得ません。
でも、女装したいなら、それが自分が一番したい格好ならばしたらいいと思います。女装はするけど、欲望は女性に向いて、というのも本人が望むならそれでいい筈だと思います。友情と性愛との境が曖昧なのも何にも問題ないと思います。
それはこの映画を見ても見なくても、前からそう思っていたことです。
でもちょっと「げっ」と思ったのも事実です。理屈でわかっていても、咄嗟には受け入れられないのだな、まだまだ視野が狭いな、という自分のキャパシティを改めて知りました。
クレールはレズビアンなのか?あれ?旦那とすげー楽しそうにセックスしてたで?あ、ヴィルジニアが恋しいって言ってる。女性の格好ならばできそうなん?でも男性器は違うの?と、混乱し、ハッキリしろよと思いました。どっちやねん、と。
でも、ハッキリする必要ないんですよね。種類に当てはまらなくて、いいんです。ある2人が好きあった、それだけでいいはずです。
ゲイ、レズビアン、トランスセクシャル、トランスベスタイトなどなど、いろいろ「種類」はありますが、それに全員はまらないんです。多分。
人間は、言葉には分類しきれないのだと思います。言葉ではすくい取れないところがまだまだある。
役に立つかはわかりませんが、そうゆうことをわかっておきたいです。
ラスト軽く戦慄
クレールとローラは子供の頃からの親友。ローラが亡くなって「私がローラの子どもと旦那を見守る!」とクレールが決意するところから始まんの。
そんでローラの家に様子を見に行ったら旦那のダヴィッドが女装しててびっくり!ってなんのよ。
「ダヴィッドは女装することで自分を癒やしてるんだなあ」という感じで、それをクレールは始め拒絶するんだけど、徐々に受け容れてくんだあと思って観てたのね。クレールが受け容れるのに合わせて、観客も性的マイノリティーを受け容れてく感じで。
でも途中で気が付くんだけど、ダヴィッドの女装によってクレールも癒やされてんの。クレールは女装したダヴィッドにローラを見てんだよ。
どうもクレールは気付かないうちにローラに恋心を抱いてた感じなんだね。それで女装するダヴィッドを受け容れるのに合わせて、自分のその気持ちも受け容れたんじゃないかな。
でもダヴィッドとベッドを共にしそうになるところで、いいところまでいくんだけど「あなたは男だもの!」と一線を越えられない。(それが契機でダヴィッドが交通事故にあったりですったもんだ。)
「7年後」のテロップのあとにラストシーンがくるんだけど、ダヴィッドとクレールが仲良さそうに手をつないで、学校に娘を迎えにくんの。ダヴィッドは普通に女装してて、クレールは妊娠してて。「これは、どういうこと?」ってちょっと固まったな。
1) クレールは自分の気持ちに気付き、もとの旦那と別れてダヴィッドと再婚した。そして一線を越えられるようになり、ダヴィッドの子供を妊娠した
2) クレールは自分の気持ちに気付いたけど、もとの旦那のもとに留まった。ダヴィッドとは良い関係を保つものの、もとの旦那の子供を妊娠した
ってどっちとも取れるんだよね。
作品通じてクレール可愛かったなあ。自分に正直なときは良い表情で可愛いの。正直じゃないときは、冴えない表情になってて、可愛さ今一つ。この辺を台詞に頼らず演技でやれるって、やっぱりフランスの女優さんはうまいと思ったなあ。
ラストシーンはメイクもビシッと決まって、すごい可愛いのね。だから多分ダヴィッドの妻になったんだと思うよ。しかしそうだとすると、クレールの旦那いい迷惑だよね。いい人だったのに。
あとローラとクレールの子供の頃からこれまでを紹介するくだりがあるんだけど、これがセリフ一切なしで、それでも関係性がちゃんと解るっていう、すごい作りだった。
それとクレールが突然脱ぐのね。「え、ここで?」って感じでヌードやベッドシーンが入るんだけど、心と身体の話だから、あそこであのシーンは必要なんだな。
クレールを演じたアナイス・ドゥムースティエは可愛かったなあ。演技もうまいし、肢体も可愛い。
感じがちょっとミア・ワシコウスカに似てると思った。僕はこれ系の顔が好きなんだな。
フランソワ・オゾンやっぱり好きだ
ダイバーシティ、偏見、差別、といった問題をこんな風に描くのはフランソワ・オゾン、そう来るか、とおもしろく観ました。
一見仲良しにみえた夫婦に秘密が入り込み、夫の醜悪な偏見が露わになり、どうなるんだろうとちょっと暗澹たる気持ちで観ていたのだけど、ラストでスカッとした。
やっぱそうなるよね。フランスっていいな。
7年という歳月は少しずつ色んなことを変化させるのに十分な時間。
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