六本木シネマートで、昨秋の東京国際映画祭で上映された作品を再映。28日土曜日に上映の3本のうちこれが一番好きだ。
まず前半の物語で出てくる女の子の可愛いこと。この女の子メイ・アンに思いを寄せる高校生のミンとの儚い恋物語から映画は始まる。
二人が海辺で会っている場面で、あどけない美少女のメイ・アンがおう吐する。そして海の水で口を漱ごうとするのだが、波が大きくて彼女は上半身も濡れてしまう。おかげで身体の線がはっきりと表に出て、観客はその予想外に女らしい体の線に驚かされる。そしてまた、彼女のおう吐の原因が病気ではなく妊娠によるものではないかと無理なく連想をしていくのだ。しかもミンの知る由もない妊娠を。
メイ・アン一家は、彼女の妊娠が周囲に知れ渡ると、どこかへいなくなってしまう。ミンにとっては、自分の知らないところで物語は始まり、そして終わってしまったことになる。
映画の後半は、マレーシアの海辺の町の高校生たちと歴史の教師が環境問題に関わって行く中でそれぞれに変わっていく様子を描く。
この歴史の教師がやんちゃな人で、校長が受験対策の授業を要請しても無視。彼女は近隣国の反政府運動の歴史について生徒たちに調べさせる。その内容を寸劇を交えて発表するという授業を繰り返す。
なぜこのようなことをするのか。自国の反政府運動について学校で教えることなど出来ないから、フィリピンやタイといった、割と身近な国の出来事を扱う。彼女の目的は、権力に抵抗する者の視点やその歴史を生徒たちに知ってもらうのが目的だ。
そして、彼女は歴史と映画の共通性や記憶というものとの関連を授業で語るのである。歴史とは人々の記憶の物語。人々が歴史と映画に興味を抱くのはそこに物語があるから。実にストレートにこの大きなテーマに言及している。この大胆さが気持ちいい。
この歴史教師は運動にのめり込むあまり、大きな間違いを犯してしまう。しかし、そこで映画は止まることがない。
この映画は誰か特定の人物に感情移入しようとすると、これを見事に覆される。純情そのものに見えたメイ・アンですら誰も知らないところで妊娠するようなことをしているのだし、真剣に向き合う相手の行動に傷ついたミンも、結局は当人が暴力の持つ魔力に囚われるのだ。
この映画は簡単には答えを出してはくれない。