セッションのレビュー・感想・評価
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奏者を撮るカメラワークも素晴らしい
通常より音量の大きい特別音響上映で劇場鑑賞の機会を提供してくれた劇場に感謝したい。
そして、言わずもがな音楽を通した魂と魂のぶつかり合いを描く名作。ただジャズにおけるドラムの重要さは今更だけど、改めて観るとフレッチャー教授が何故ドラムだけをクローズアップさせていたのかよく分からないな…
個人的には意識した上で、改めてマイルズ・テラーを観れた事に意義があった。
昔あった『戸○ヨット○クール』を思い出した
言うまでもなく、この映画で奏でる音楽はJAZZではない。
JAZZっぽいたけで、JAZZではない。まぁ、それは良いのだが。まるで、この教師との葛藤で、至高のJAZZが出来た様な表現をしているが、現実的に考えても無理だし、
ひょっとしたら、この演出家はJAZZの意味を最初から分かっていないと思う。
この映画で奏でられる音楽で、一番類似しているとすれば『太鼓をたたくお猿さんのゼンマイ人形』の音。
また、クラシックに立ち帰って考えれば『ボレロ』を敲く、小太鼓のテクニックはこの映画では語れない。JAZZはアドレナリンを目一杯使って奏でられるものではない。そして、JAZZだけでなく音楽は同様な事と『ボレロ』の小太鼓の例を出すまでも無く分かるだろう。
技巧が優れているだけでは、JAZZを奏でる事は出来ない。ヴィルトゥオーゾのカデンツァとJAZZの即興とは違う。
この映画の題名がセッションであることも忘れては駄目だ。ドラムだけで、JAZZのセッションは奏でられない。
チャーリー・パーカーやコルトレーンの様なビーパップやハード・バップはこう言ったビッグバンドの合い間に数人の人間が集まってジャムセッションした所から始まる。この映画を見なくとも、黒人は知っている。
相変わらず、アメリカの中産階級出身の男性白人は、モラトリアム期間を脱せない、独りよがりな白人青年を描くのを止めないなと思った。そう言えば、ラ・ラ・ランドの主人公もそうだな。また、音楽の楽しさは、奏でる者の魂が変な方向に向くと、同時に音楽の楽しさも無くなると感じた。お猿さんのシンバルと太鼓を聞いても楽しいとは思えない。
聞く方にも問題があるのかも?至高の芸術なんて、鑑賞する側の上下で変わる。そして、鑑賞者の鑑賞力の上下を定義づけるのは難題な事だ。
ラ・ラ・ランドを含めて、この演出家のストーリーを再認識しなければならないと感じている。
クライマックスのドラムソロは圧巻!!
凄く引き込まれる映画だった!
最後迄フレッチャーという人物がよく分からなかったのと、飴と鞭の使い方が秀逸なので、途中からDVの常習犯にしか見えなかった…
天才を育てたいという願望がはたして本心なのか分からないけど、演奏直前に本性を表して楽譜用意しないのはマジで胸糞展開だったけど、アンドリューが屈せずに反撃したところはスカッとしたなー
少なくとも、フレッチャーは愛を持って厳しくしているわけではないことは分かった。。。
この作品を見るマインドとしては、アンドリューのサクセスストーリーだと思って見れば、不快感はだいぶ緩和されるだろう。
"今日のツッコミどころ''
アンドリューは何故か大事な日に限って遅刻をする癖がある!
僕も遅刻はしないけど、大事な日は寝不足なことが多かったので、アンドリューの気持ち分かる。
息くるしさを感じる
謎が多い映画
狂気は凡人を置き去りに
『ラ・ラ・ランド』のディミアン・チャゼルの長編デビュー作。「第二のチャーリー・パーカーを輩出したい」という鬼教官フレッチャー(造形と口調のモデルは完全にスタンリー・キューブリック『フルメタル・ジャケット』に出てくるハートマン軍曹)と、「より強大な権威によって自己存在を承認されたい」という大学生ニーマン。二人の際限なき欲望と欲望が交差した果てに待ち受けるのは天国か地獄か。
チャゼルは徹底的に俯瞰した位置から彼らの辿る運命を見下ろし続ける。そこには一切の温情も連帯もない。あたかも受け手が二人に感情移入することを禁じるかのように、映像はひたすらフラットに二人の動向を見つめる。そして見立て通り、物語が進むごとに両者の異常性は徐々に際立っていき、最後には観衆置いてけぼりのあのジャズコンサートに行き着く。そこにはフレッチャーとニーマンだけが感じることのできる音楽的エクスタシーが漲っていたのだと思う。しかし我々がそれを感覚する術はない。それどころか「映画の不意の幕切れ」というコンサートの観客同様の唖然を味わわされ、作品世界そのものから強制的に放逐されてしまう。
芸術の狂気に取り憑かれた人々~みたいな映画は往々にしてよくあるが、本作が偉いのはそこに我々が介入する余地を一切用意しなかったことだ。「狂気」の正体がただの「狂気にも見えるほどの奮闘努力」だったときほど肩透かしを味わう瞬間はない。「狂気」の二文字に興味本位で近寄ってきた愚昧な観客どものご機嫌を伺うようではいけない。
本作の場合はちょうどその逆で、奮闘努力だと思っていたものが実は狂気だったことが少しずつ発覚していく。自分が精神的に追い込んで殺した生徒の死を涙を浮かべながら懐かしむフレッチャー、車に轢かれ半生半死の状態でステージに現れるニーマン、コンサートの演目を教えずニーマンに晴れ舞台で恥をかかせるフレッチャー、勝手に演目を変更してフレッチャーに指揮を強要するニーマン。空前絶後のキ○ガイバトルでしょこんなの。とてもじゃないが寄り付けないし寄り付きたくもない。
陳腐なメロドラマの裏でハリウッド批判を展開する『ラ・ラ・ランド』同様に、ハイコンテクストで意地の悪い映画だった。安易な気持ちで「狂気」に触れると痛い目を見るぞ、という良い教訓になった。
パワハラコーチ?
Amazonプライムでの視聴が終わってしまうので慌てて視ました。
事前に思っていたのは、コーチが一見苛めに近いようなしごきをするが、実際は主人公の才能を見抜いており、愛情故のしごきというスポ根的な話でした。
ところが、実際視たら完全な苛めで、鬼コーチは自己満足だけで動いているサイコ親父でした。
見所としては、徐々にコーチの狂気を主人公の狂気が上回って行ってしまうというところでしょうか。
ただ、ラストでコーチが、ステージで主人公に恥をかかせることで復讐しようとするわけですが、このやり方では自分の方が恥をかくのでは?と疑問を持ちました。
とは言え、ラスト10分くらいの鬼気迫る演奏シーンは、それなりにカタルシスを覚えました。
よくある
マイルズ・テラーの表情が
とても良かった。周りとの関係性に応じて容易に変化する自我の危うさ。庇護すべき無力な息子と、セクシャルな意味合いも含めて人を食う危険な存在を行き来する。JKシモンズの教師役は狂気が感じられず、陰険・凡庸な印象。ドラマーが候補が全員白人なこと、初日のレッスンに遅れたことの伏線回収がやや引っかかり。
獅子は子を谷底に
明日川荘之の率いるジャズバンド、
このバンドのライブ盤CD「シチリアーノ」が面白い。
ジャズ・セッションは、互いに目配せしながら、そして息遣いを読み合いながらの一夜限りのナマ物なんだが、
このライブステージで、あろうことかメンバー同士が マジで殴り合いの喧嘩をおっぱじめる。
火花の散るような演奏が“目からも火が出る!”、“拳も出る!”という惨憺さ(笑)
そんな珍しい音源⇒特に3曲目。
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本作は
追い付いてこようとする若造をば毛嫌いして、谷底に突き落とそうとする困ったオヤジの物語だ。
見込みのある光る原石は、大人たちにとっては脅威。
徹底的にいじめ抜くJ.K.シモンズのあのパワハラは、今どきならもう許されないことなんだろうが、世代交代を予感させるミュージシャンたちの戦いぶりには痺れる。
鬱屈したフレッチャー(シモンズ)と、
卑屈さをバネに闘うアンドリュー。
そして息子を受け止めきれない弱い父親。
アフリカから連れてこられた奴隷たちの、怒りと悲しみの中から生まれたジャズだから、穏やかならざるこのような黒いストーリーも、そのDNAゆえに引き起こされるのだろうか。
血で血を洗うセッションは、(ありがちな)感動のステージで幕というハッピーエンドではなく、個々人のみの達成感と自己満足だけで終わっている。
後味の悪さを残してのエンディング。
美談ではない。友情もない。
子獅子は親獅子の喉笛に噛み付いて、いつかその息を止めるのだと思った。
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監督は次に「ラ・ラ・ランド」を撮るのだが、そこでも夢やぶれて壊れていくミュージシャンを描く。
彼も、どこか普通ではないのかもしれない。
スカッと
良い意味で思ったのと違った。
フレッチャーが鬼すぎて怖い。
昔はこういうのよくあったのかな、、
主人公とフレッチャーがどのようにして立ち直ったか
2人が再び師弟関係になりショーも大成功して丸く収まるのかと思ったが全然違った。
フレッチャーは自分を摘発した主人公を恨んでおり、主人公が練習していない曲を本番で披露するという鬼畜さ。
それに負けずフレッチャーに教えてもらったことを完璧に身につけびっくりされるほど上達した主人公。
2人が音楽を通して意思疎通した、、。
あらすじとしては↑だが、個人的にはそれでいいの!?って感じだった。
お互い復讐してスカッとしたからいいのか、、
最後演奏して終わるのかなと思ったら、そこからまた見所(フレッチャーの復讐)があったのはとても良かった。
最高
心臓に悪かった
ざっくり言うと、若いドラマーが野心バリバリで成長しようと頑張るが、パワハラによって挫折するという話なんですが、自分も学生時代に打楽器をやっていたので、まるで自分が怒られてるようで怖かったです。
なかなか楽譜通りに叩けないもどかしさなども思い出して、三人で次々に試されるシーンなどは本当にいたたまれない。
パワハラする側は、一見教育熱心が高じて厳しくやってしまった、風に語られますが、実は執念深いキチ◯イ親父だったというオチはなかなかでした。
自己表現は、羞恥心との闘いなのだ!
最高の音を求め、めくるめく陶酔の境地へ上り詰めていこうとする教師と生徒。
芝居なのか本性なのか区別がつかないJ・K・シモンズの演技も相まって、最後は少々変態チックな余韻さえ残して幕を閉じる本作。 しかし、作品としてはなかなかに見事な芸術性を魅せてくれる快作となっている。
鬼教師の指導は常軌を逸しており、誰が観ても理不尽にしか映らないレベル。 最初のうちは、この生徒がどういう形で潰されていくのかを固唾をのんで見守ることになるのだが、どっこい生徒の野心と負けん気も相当なもの。 なんと、教師の狂気に共鳴し、さらにそれ以上の狂気で応えるのだ。
ここから、二人の奏でる魂のぶつかり合い、つまり「セッション」が盛り上がりを見せ始める。 狂気な二人だけに色々とすったもんだがあるのだが、そこがこのドラマの面白いところ。 最後の最後、二人の間に驚くべき調和が生まれ、一瞬だけ生徒の演奏が眩しい輝きを放つのである。
ラストシーンで繰り広げられるその 「魂のセッション」 は、衆目の中で大々的に演じられる。 しかしそこには、観客と感動を共有し合って盛り上がるコンサートの一体感はない。 指揮者(教師)とドラマー(生徒)がぶつかり合う激しいセッションの内実は、偶然にも激しく響き合った二人の間だけで繰り広げられる、ステージという閉ざされた空間での出来事に過ぎない。
ラストを少しだけ変態チックに感じたのも、二人の攻撃的な対峙の仕方の裏に潜む、自己表現の衝動に駆られる人間だけが抱える、抑圧に歪んだ心の有り様までもが透けて見えるからだろう。
鬼教師の変質狂的なまでの音に対する拘り、そして、それに食い下がる生徒の異常なまでの野心。 双方とも、魂を抑圧する何かに喘いでいるに違いない。それ故に、本来なら強い羞恥を伴う自己表現が、彼らの中で、なおさらその反動を伴って激しい表現衝動に転換されるのだ。
とにかく、狂気を孕んだ心理描写も含め、見事な「セッション」だった。 ラストシーンでは、「おぉぉ」と驚くと同時に、「うむむ―」と唸ってしまった。 私も自己表現は恥ずかしいので立ち上がりはしないのだが、心の中ではスタンディングオベーションだった。 (立てよ!)
本来なら決して表には出ない、「舞台裏で起きている真実」に強烈なスポットライトを当てた点で本作を高く評価したい。 人間の激しい自己表現欲求が芸術を生み出すプロセスとその瞬間を、ドラマの中で見事にクローズアップして魅せたのは、脚本も手掛けているデイミアン・チャゼル監督。
1985年生まれということだが、いや若い! その後、「ラ・ラ・ランド」で評価を固めた通り、 「だろうな」の才能だ。 これからも本作のような小ぶりでも強烈な説得力を持つ次作品を待ちたい。
ちなみに、このハゲ教師のような自分の土俵内で暴君と化すクソサド親父は、結構どこにでもいる。 親父じゃなくてもいる。 私は、そういう輩の自慰行為に付き合うようなことは、たとえ最高な結末が期待できるとしてもやらない。
やっぱムカつくよ。
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