セッションのレビュー・感想・評価
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ただの悪役とはいえなくて
褒められてうっかり心を許すと、次の日には鬼みたいに怒ってくる。アメとムチの繰り返し。こういうパワハラ上司、就職したばかりの10年以上前にはいた。そんな上司の下で心が折れそうになりながら、どちらかというと反骨精神な自分は何とかうまくやっていたほうだった。
今の時代なら完全にアウト。表面上はうまくやってもあの恨みは忘れない。
そんな過去を思い出した。
主人公はポワンとした顔つきなのに、意外に反骨精神溢れるがんばり屋だ。
主人公はこのバンドで成長するのか?まさか裁判の展開になるのか?と先が読めない展開で最後は舞台での仕返し。最高にスカッとする。面白かった。
フレッチャー先生が100%恨んでもいい悪キャラだったら楽なのに、たまの笑顔や励ましがあり、主人公と同様に恨みきれない複雑な思いがする。最後の最後までそうだった。
指導者ガチャ
勘違い野郎によるパワハラ映画。
聞くに耐えない暴言、暴力、セクハラもあり。
フレッチャーは、チャーリー・パーカーが成功したのはジョー・ジョーンズにシンバルを投げられたからという伝説に心酔していて、そのやり方が正義だと思い込んでいるヤバイ奴。若い才能を暴力で潰しておきながら、それを本人の挫折で片付けてしまう究極の他責主義者。
最後はニーマンがバードになったんだろうけど、そうするとフレッチャーの暴力が正当化されるので、あまり良い話ではない。
この方法でうまく行ったのが、たまたまニーマンだったというだけの話。それを愛だ何だと感じた人は気をつけた方が良いし、またはよっぽどのマゾ。
ホラー映画だと思って割り切ったほうが良さげ。
狂気には狂気で返す
こういう、この人に認められたいと思わせるというか、依存させるのが上手い指導者、いるよね〜と思いながらみてました。終盤、超高圧的な鬼教官の弱った姿、教える側の苦悩を見せてやや同情させたところで、「私を舐めるなよ」とひどい仕打ち。そして今度は、屈辱を味わい、親に迎えられるニーマンに感情移入させてからの、まさかの仕返し。この2つのどんでん返しが非常に面白かったですし、特にニーマンから教官への仕打ち、指揮者などいらないと言うかのような舞台の掌握ぶりは痛快でした。常人ならあのまま退席し、親と故郷へ帰りますね。狂人と通じ合えるのは狂人のみ。頭のおかしい人とまともに向き合おうとしてはいけない。。。
ヒリヒリ感は伝わるけどね
鬼教師フレッチャーのイジメにも近い指導、それに耐える主人公ニーマンはじめ他のドラマー。そのヒリヒリした空気は伝わる。凄い伝わる。演技凄い。
が、元居たクラス?でもパッとしなかったニーマンに何故、フレッチャーが目を付けたのか分からんし、ニーマンが凄い練習してるのは分かるんだけど、その上達がどんな速度とレベルなのかがイマイチ伝わらない。これがスポーツ物だと分かりやすいんだけど、音楽とかだと、80レベルが85レベル、90が95に上昇しても素人には分からんw
何だかんだがあり、フレッチャーが大学をクビになるのは分かるけど、ニーマンも退学処分なんだって言うのが「え~」。
でっ、しばらくして再会したらフレッチャーにバンドに誘われてフェスに出るんだが、その舞台上、演奏直前に「俺を告発したのはお前だろ」と言い、ニーマンに言ってない曲の演奏(譜面無し)を始める。いや、復讐したいのは分かるとしても(逆恨みだけど)、他のバンドメンバーも巻き添えやん。それを狂気と捉えるか否か。
ニーマンも大学辞めてから、ドラムを収納に押し込んでいた様子からして練習して無かっただろうに、そんなにすぐにフェスで演奏出来るレベル、というか元以上のレベルになるんか?ピアノとかは一日弾かない分を取り戻すのに何倍も掛かるって言うけど。
最期のドラムソロは凄いけど・・・・・フレッチャーもニーマンも自分の事しか考えてないなぁ。フレッチャーの嫌な面が目立つけど、ニーマンの普段の言動も結構クソ野郎。
熱量は感じるけど、もう一回観たい?と聞かれたら否と答える。
例えシンバルを何度投げつけられても、何度でも立ち上がれ! それが天才だ!
最終的に描かれるのは、有名指揮者と若きドラム奏者の魂のぶつかり合い!!
シモンズのスキンヘッドのパワハラオヤジ役が、まさにぴったり。
序盤、認められたと思った若者は罵声を浴びせられ、超しごきの毎日。
徐々に徐々に追い詰められていく彼!
観ているこっちも悔しくて感情移入!
コンクール会場へ向かう途中は興奮する!
そして、会場での演奏でついに爆発!!
そこから先の展開が、ステレオタイプでないのが面白い。
再会から和解か思いきや、フレッチャーの底意地の悪さも爆発!
いや、フレッチャーの意地悪なのか?
もしかして、それすらも、「投げられたシンバル」なのか?!
親の優しさと、そこからの自立を経て、ニーマンの反撃開始!
ここが気持ちいい!
何といっても、クライマックスの演奏が素晴らしい!!
二人の戦いがニーマンの攻勢から、フレッチャーとの「セッション」になっていく。
スパッと終わるのもイイ!!
例えシンバルを何度投げつけられても、何度でも立ち上がれ!
それが天才だ!
狂気の果てのセッション
承認欲求に囚われた若者と完璧を求める指導者それぞれの狂気の果てを描いた作品だと思います。
若者は、指導者が求める理想に追いつくために懸命に努力を続ける過程で人間性を失っていきます。そして、自分が代替可能な使い捨ての駒に過ぎないことを知って精神が壊れますが、それでもなお、手にしたポジションに固執することをやめられません。
指導者は、理想を追い求める過程で多くの若者を使い捨てにし、壊しながら、一時的に栄誉を勝ち取ります。しかし、最後は使い捨てにしてきた駒からの密告により地位を追われ、築き上げてきたものの多くを失ってしまいます。
若者、指導者のあり方は、それぞれの理想を実現するためのものでしたが、いずれも多くの代償を伴う狂気によるもので、それが故に最後は築き上げてきたものを失ってしまいます。ラストシーンの捉え方は様々あるようですが、私は、そんな2人による狂気の果てのセッションだと思いました。
若者をマイルズ・テラー、指導者をJ・K・シモンズが迫真の演技をみせているため、物語に没頭することができます。
ここからは推測ですが、伝統的な音楽であるクラシックやジャズは目に見えず、数値で表すことができないためか、指導者の立場が圧倒的に強く、それが故にこういったことが起きてしまうんだろうな、と思いながら観ていました。このあたりは、TARと共通する部分があるので、音楽業界の構造的な問題が、背景としてあるんでしょう。
原題の『Whiplash』は鞭打ち、衝撃、苦痛という意味。 楽...
原題の『Whiplash』は鞭打ち、衝撃、苦痛という意味。
楽譜に従ったガチガチの演奏を強要されるのだが、果たしてこれはジャズと言えるのであろうか。ブラスバンドのカテゴリーに分類されるのではと思うのだが。
感想を一言で表現すると『見ていて気分が悪くなる程のパワハラ映画』。
最後に生徒が鬼教官に見事に返り討ちを果たすが、爽快感を感じることはできなかった。せめてテロップでもよいので、「その生徒はプロドラマーとして成功を収めた」とか入れるだけでも印象が変わるだろうにと残念に思う。
主人公は彼女に捨てられてしまうが(捨てて大正解です)、彼女役の女優(メリッサ・ブノワ)を発見できたことが唯一の収穫であった。
フレッチャーは来ていたか ネタバレ(妄想込み)
2015年1月6日のラジオ『たまむすび』にて、映画評論家町山智浩さんはこの映画「セッション」を熱を込めて紹介している。
「…で、『あしたの朝6時に練習始まるから来いよ』って言われるわけですね。で、朝6時に学校に行くと誰もいないんですよ、その部屋には。で、9時になってやっとみんな来るんですね」「もう、最初っから“いじめ”なんですよ!」「ウソの時間を教えたんですよ、3時間早く」「そこからもう延々と、フレッチャー先生のいじめが始まるんですよ」
この部分が私にはどうしても納得できなくて、何度も映画を見返した。そして、見返す程に確信に変わった。
フレッチャーは、朝6時に教室に来ている。
以下にその根拠を書いていく。
① カギとほこり
主人公アンドリュー・ニーマンが1年生の授業に出席する。教室のドアを開けて、中に入り、ドアを閉める。0:06:49。ドアノブのカギ穴が大きく映る。
シェイファー音楽学院のドアノブがアップになるのはこの1回きりだが、しかし、ちゃんと映っている。
普段、放課後の教室にはカギを掛けているのだ。1年生の教室がそうなら、上級生の選抜クラスならなおのことそうだ。
つまり、ニーマンのために、フレッチャーが教室のカギを開けていた、ということだ。そこまで準備していた、ということだ。
0:15:47で床に落ちたホコリが映る。掃除をしていないことを表している。フレッチャーが、しなくていいと言ったのだ。職員に「今日はこのまま帰っていい。明日早くから使うから、カギもかけなくていい」と。フレッチャーはニーマンを迎え入れるために、段取りを整えていたのだ。
② 8:57
選抜クラスの生徒たちは8:57に教室に入ってくる。
何故なんだろう。
授業になったら全員が人種も含めて耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言をフレッチャーから浴びるかもしれないのに、なぜもっと早く来て練習しないんだろう。楽器の調整も含めて万全の状態を作り出すために、やることはいろいろあるはずだ。実際、1年生のクラスは、先生が来る前に音を鳴らしたり、おしゃべりしたり、彼女とキスしたりする余裕があった。
答えは簡単。フレッチャーにそうしつけられているのだ。最低限の時間で準備を整える。フレッチャーが登場する10秒前にバンドマスターが「音合わせ!」の号令を掛ける。早くに行っても教室にはカギが掛かっているし、仮に入れたとしても、勝手に長々と教室を使うことを、フレッチャーは許さない。
つまり、ニーマンを6時に呼びつけたのは、特別なことだったのだ。
③ イヤホン
9;00ピッタリにフレッチャーが入ってくる。
譜面台に楽譜を置き、帽子を取ってハンガーに掛け、イヤホンを耳から外してコートの内ポケットにしまい、コートをハンガーに掛ける。
これが証拠である。
フレッチャーは朝6時に来ていた。
フレッチャーは、プレイヤーを止めていない。すなわち、彼はイヤホンをしているだけで、聴いているフリをしているのだ。本当は朝6時ピッタリに来たのだが、誰もいないので3時間、ただ待っていたのだ。そしていかにも今自宅から音楽を聴きながらやってきた、というフリをしていたのだ。
④ 控室
では3時間、フレッチャーはどこにいたのか。教室に繋がっている教員控室にいたのだ。6時にニーマンが来ていないことにこれ以上ないほどに腹を立てたが、とりあえず控室に入った。ニーマンに手ほどきするために昨日から準備してきたのだ。それを、よくも…。しばらくして走ってくるニーマンの足音が聞こえた。急ぎ過ぎて階段でコケた音も。
フレッチャーは思わずにんまりする。まあいい。仕返しはゆっくりしてやろう。
と、いうところだろうか。
⑤ whiplash
この映画は真っ暗な中、ドラムの音から始まる。
ポツン、ポツン、ポツン。
ゆっくりこぼれ落ちる音が、段々、段々速くなる。
その音を背に文字が白く浮き上がる。
Whiplash
これは、この映画のクライマックスのシーンでもある。フレッチャーの指揮も無視して名曲「Caravan」のドラムソロを続けるニーマン。ドラムは激しさを増し、フレッチャーはハッキリと理解する。
ゆっくり。ゆっくりだ。
フレッチャーの仕草にニーマンが応える。ブレーキをゆっくり踏むかのように、音はゆっくりと静まってゆく。
ポツン。ポツン。ポツン。
速く。少しずつ、速くだ。
ドラムは再びうなりをあげてゆく。そして、フレッチャーが「もう、いってしまえ」とばかりに片手を振ると、豪雨のような音の乱れ打ちになる。
出会いのシーンで、フレッチャーはすでにこの音を聴いていたのだ。だから映画のタイトルが「whiplash(むち打ち)」なのだ。フレッチャーは初めから打ちのめされていたのだ。
この映画は生徒と鬼教官の話なんかではない。
音を愛するものたちの、嫉妬と狂気の物語なのである。
狂気の二人が織り成すミュージック
原題はWhiplashで作中に出てくる有名なジャズの曲でもある。スパルタ教師のフレッチャーとジャズドラマーを目指すニーマンの話。ニーマンはジャズメンバーに選ばれるが事故でコンテストをミス退学になる。フレッチャーは行き過ぎたスパルタでニーマンに密告され辞めさせられニーマンに復讐する。
いい映画であるが、面白いとか泣ける映画ではないのである程度知識を持ってみたほうがいい。無駄なシーンがなく、ラストまでの流れとラストのセリフが無いシーンのクライマックス感が心地よい。
JAZZのゴールとは?
確かに現代、誰かに叱責されたり、罵倒されたりすることは少なくなったのだろう。一人一人の個性や人権が尊重される。上手くいかなったら、すぐに諦め向いていないといって別なことに逃げることも多い。新たなJAZZの天才も生まれづらくなっているのだろう。(詳しくは知らないが)過去の黒人の天才たちは、ひどい貧乏や差別という境遇下にあっただろうし。それを大学という場で、作り上げるためには、フレッチャーのような指導が必要になるのか?彼が、どこまで意図的にやっているかは判断が難しい。生徒の状況を最大限に利用して、追い込んでいるようにも見える。生い立ちやら確執やらを利用して、ご無体なというような叱責を容赦なく浴びせる。
映画を通して、ニーマンがひたすら追い込んで練習する様、ドラム中心に流れる時間は、その情熱に触れているかのようで、惹きこまれた。家族にたてついたり、彼女との別れを決意したりする部分も、若い頃には徹底的にやり抜く時間も必要だと思った。ただ、この音楽映画が、フレッチャーとニーマンの対立に終始してしまうことが本当に良いのか?には疑問が残る。
「生きるか死ぬか」まで追い込まれて、初めて、彼らの信奉するJAZZが生まれると言っているかのようだった。承認欲求を満たすためにという解釈もわかるが、ゴールがそれでいいのかということ。それを突き抜けないと本物ではない。音楽する動機が、純粋に音楽を極めたい、楽しみたいとなった時に、本物になるっていうことだろうと思うのだが。フレッチャーの指導では、承認欲求を満たすことがゴールになってしまう。最後、ニーマンのドラムは、そこにまで到達したような描き方だっただけに、中途半端な達成感を感じた。
指導者と演奏者の火花散る対立という構図を主題にしたのだろうが、もう少し人間的、音楽的な深みが欲しかった。あまり聴かないほうだが、JAZZって、もっと即興性、瞬発力、情熱やロマンが必要なものだと思う。このストーリーだと、激しい感情をただぶつけているだけになっていた。そこが惜しい。
しごき。
原題は"Whiplash"です。
むちうち/むちひもの事を指していますので、音楽教師にしてコンダクターであるフレッチャーの「シゴキ」のことをダイレクトに指しているだけです。ですが。それが、この映画の主題にしてオチな訳で。セッション、って言う邦題、なんなんですか?
JVCジャズフェスティバルの、なんとオープニングステージの本番での、彼のショック療法に挫折せずに立ち上がって闘ったアンドリューは「Bird」になります。フレッチャーは人生を賭けた悲願であった、「天才を育てる」と言う大業を成し遂げる。
と言うラスト。
つい、この前の映画だったようにも思え。すごく昔に見た映画の様にも思え。2014公開なので、今年が10年目なんですね。個人的には、音楽映画の史上最高傑作です。で。史上最低の「邦題」を付けられた映画w
いずれにしても。
良かった。
とっても。
八丁座ではアカデミー受賞作もリバイバル上映週間です。開幕2作を見損ねたのが悔やまれます。当時は「なんでこれが作品賞やねん?」なんてのもありましたが、いずれにせよ、見る価値がある映画、であるには変わりなく。セッションは、もう一回上映があるので、見ときたいと思います。セリフが分かりやすいんで、字幕注視しなくても良い、っての好き。
あ。でも。ミナリは見ないです。全然、見る気が起きんもんw
エブエブは仕事の関係で見れないんですよね。これは悔しいです!
『男の争い』上映中
ラストが、マイルズ•テラーとJ•K•シモンズ扮するアンドリューとフレッチャーが、目指すものだということか。
アンドリューは初めて誰に邪魔されようと意に介せず己れの信念のまま意志の突き進む先に進みフレッチャーをも取り込んだのか。
フレッチャーを見ている者としては、また騙されないかひっくり返されないかと、セッションの熱量と気迫に気圧されながらも違う意味のヒヤヒヤドキドキを感じていた。
すると終わってしまった。
フレッチャーからすると、学生は皆甘ちゃんに見えるのだろうか。
彼自身の子供から青年時代がどうだったのか、ある意味興味が湧く。もちろんあの毒舌家になった要因を知りたいのだ。
いや、毒舌家ではなく罵詈雑言の憎まれ教師だ。
アンドリューの生活は父親やニコル、弁護士との関わりで描かれ、事故で瀕死の重傷を負い血みどろで演奏会場に駆けつけるも途中でギブアップしてしまい身を引いてしまった事も描かれている。
フレッチャーの恐ろしさはまだまだ続く。
苦情が出て勤務先が変わった事を根に持って証拠も無しに卑怯にも開始寸前の舞台でアンドリューに毒吐く。
アンドリュー、よく頑張った!
未来は明るい!
J•k•シモンズさん、上手いけど、
フレッチャーは、
何百キロも離れた所に住みたい人ですね。
結局何が言いたかったのだろう?
理不尽を押し付けて悔しさをバネにするって教育方針のクソ教師だなーと思いながら観てた。同時に、こういう先生いたなぁと思ったね。
一方、主人公の少年はというと純粋すぎてこの教師に認められようと頑張ってしまうんですねぇ。ドラムに集中したいからと付き合ったばかりの彼女に別れ話をするシーンは唖然としました。「君はきっと邪魔をするだろうから別れよう」だって。オメーもなかなか香ばしいな(笑)。
昔あった『戸○ヨット○クール』を思い出した
言うまでもなく、この映画で奏でる音楽はJAZZではない。
JAZZっぽいたけで、JAZZではない。まぁ、それは良いのだが。まるで、この教師との葛藤で、至高のJAZZが出来た様な表現をしているが、現実的に考えても無理だし、
ひょっとしたら、この演出家はJAZZの意味を最初から分かっていないと思う。
この映画で奏でられる音楽で、一番類似しているとすれば『太鼓をたたくお猿さんのゼンマイ人形』の音。
また、クラシックに立ち帰って考えれば『ボレロ』を敲く、小太鼓のテクニックはこの映画では語れない。JAZZはアドレナリンを目一杯使って奏でられるものではない。そして、JAZZだけでなく音楽は同様な事と『ボレロ』の小太鼓の例を出すまでも無く分かるだろう。
技巧が優れているだけでは、JAZZを奏でる事は出来ない。ヴィルトゥオーゾのカデンツァとJAZZの即興とは違う。
この映画の題名がセッションであることも忘れては駄目だ。ドラムだけで、JAZZのセッションは奏でられない。
チャーリー・パーカーやコルトレーンの様なビーパップやハード・バップはこう言ったビッグバンドの合い間に数人の人間が集まってジャムセッションした所から始まる。この映画を見なくとも、黒人は知っている。
相変わらず、アメリカの中産階級出身の男性白人は、モラトリアム期間を脱せない、独りよがりな白人青年を描くのを止めないなと思った。そう言えば、ラ・ラ・ランドの主人公もそうだな。また、音楽の楽しさは、奏でる者の魂が変な方向に向くと、同時に音楽の楽しさも無くなると感じた。お猿さんのシンバルと太鼓を聞いても楽しいとは思えない。
聞く方にも問題があるのかも?至高の芸術なんて、鑑賞する側の上下で変わる。そして、鑑賞者の鑑賞力の上下を定義づけるのは難題な事だ。
ラ・ラ・ランドを含めて、この演出家のストーリーを再認識しなければならないと感じている。
クライマックスのドラムソロは圧巻!!
凄く引き込まれる映画だった!
最後迄フレッチャーという人物がよく分からなかったのと、飴と鞭の使い方が秀逸なので、途中からDVの常習犯にしか見えなかった…
天才を育てたいという願望がはたして本心なのか分からないけど、演奏直前に本性を表して楽譜用意しないのはマジで胸糞展開だったけど、アンドリューが屈せずに反撃したところはスカッとしたなー
少なくとも、フレッチャーは愛を持って厳しくしているわけではないことは分かった。。。
この作品を見るマインドとしては、アンドリューのサクセスストーリーだと思って見れば、不快感はだいぶ緩和されるだろう。
"今日のツッコミどころ''
アンドリューは何故か大事な日に限って遅刻をする癖がある!
僕も遅刻はしないけど、大事な日は寝不足なことが多かったので、アンドリューの気持ち分かる。
パワハラコーチ?
Amazonプライムでの視聴が終わってしまうので慌てて視ました。
事前に思っていたのは、コーチが一見苛めに近いようなしごきをするが、実際は主人公の才能を見抜いており、愛情故のしごきというスポ根的な話でした。
ところが、実際視たら完全な苛めで、鬼コーチは自己満足だけで動いているサイコ親父でした。
見所としては、徐々にコーチの狂気を主人公の狂気が上回って行ってしまうというところでしょうか。
ただ、ラストでコーチが、ステージで主人公に恥をかかせることで復讐しようとするわけですが、このやり方では自分の方が恥をかくのでは?と疑問を持ちました。
とは言え、ラスト10分くらいの鬼気迫る演奏シーンは、それなりにカタルシスを覚えました。
スカッと
良い意味で思ったのと違った。
フレッチャーが鬼すぎて怖い。
昔はこういうのよくあったのかな、、
主人公とフレッチャーがどのようにして立ち直ったか
2人が再び師弟関係になりショーも大成功して丸く収まるのかと思ったが全然違った。
フレッチャーは自分を摘発した主人公を恨んでおり、主人公が練習していない曲を本番で披露するという鬼畜さ。
それに負けずフレッチャーに教えてもらったことを完璧に身につけびっくりされるほど上達した主人公。
2人が音楽を通して意思疎通した、、。
あらすじとしては↑だが、個人的にはそれでいいの!?って感じだった。
お互い復讐してスカッとしたからいいのか、、
最後演奏して終わるのかなと思ったら、そこからまた見所(フレッチャーの復讐)があったのはとても良かった。
心臓に悪かった
ざっくり言うと、若いドラマーが野心バリバリで成長しようと頑張るが、パワハラによって挫折するという話なんですが、自分も学生時代に打楽器をやっていたので、まるで自分が怒られてるようで怖かったです。
なかなか楽譜通りに叩けないもどかしさなども思い出して、三人で次々に試されるシーンなどは本当にいたたまれない。
パワハラする側は、一見教育熱心が高じて厳しくやってしまった、風に語られますが、実は執念深いキチ◯イ親父だったというオチはなかなかでした。
良くも悪くも、井上道義(嘘
どこからどう見ても、狂気に走った井上道義にしか見えません(嘘
とにかく絵がシャープですね。
演出も映像もスタイリッシュです。
最後のシーンの「セッション」は特に見事で(果たしてこれがセッションと呼べるのかどうかも含め)
色々と問題作たる切り口を見せつけてくれます。
小説としての面白さと、映像的なセンスには満ち溢れている その一方で、
物語自体は(登場人物と共に)破綻しており、特に、
音楽を扱った映画なのに、音楽面で残念に感じてしまったのが、なんとも残念で
どうも、作品のテーマが活きてこないのですね。
主人公である若きドラマーである彼も、師(であり、対等なミュージシャン)である彼も、
とにかく、見果てぬ技術とクオリティの先にある音楽を、それぞれ、狂人のように目指すのですが、
その手段に囚われたまま、結局、彼らの目指している音楽の姿が見えないのですね。
楽譜も、テクニックも、リズムも、ジャズも、グルーヴも、手段でしかなく、
観客と共有した先にある現象こそが音楽で、すべての音楽家の到達すべき目的地のはずなのです。
ところが、この映画はそうではない。
観客も、場合によっては音楽そのものすら、必要でなく、置いてきぼりにしてしまいます。
ですので、いわゆる従来の価値観に照らし合した形での、
音楽を、セッションをテーマと捉えてしまうと、まったくの見当違いで、非常に面白くないのですね。
ですので、どちらかというと、手段こそが目的というか、
セッションや音楽という概念に一石を投じるの映画なのだと思います。
その割に、スポコンめいたパワハラに近いレッスンや、狂気めいた行動など、
切り口の時代性としては古いものを感じてしまい、果たして、これが新しいものを表現できているのかというと
映画らしい、あり得ない展開を納得させるだけの迫力に乏しく、映画力としても、そう高いとは思いません。
ただ、芸術というのは、トータルの完成度だけでは語れないのですね。
映画としては実は破綻しており、しかし、
その尖った、言語では表現し得ぬ、収まりきらぬ魅力が、詰まった問題作であると思います。
「良くも悪くも」、が、この映画にはピッタリの表現だと思います。
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