ソロモンの偽証 後篇・裁判のレビュー・感想・評価
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不完全な自分を知って愛して生きるということ
裁判が始まってしばらくして真相がよめた。でも、
「だからなに?」というか、作品から、なにが言いたいのか分かりませんでした。
それでも飽きずにぐいぐいのめり込んで視聴しました。
神原くんの「僕を殺人罪で裁いてください」という言葉と真っ直ぐな強い眼差しを観て、ようやく腑に落ちて鳥肌がたちました。
テーマも、最後まで引っ張る脚本や構成も、役者さんの演技も、すごい。
柏木くんは相当面倒くさいキャラクターだけど(ごめんなさい)、間違ったことは言っていないと思いました。
なんのために生きるのか…という悩み疑問は、あらゆる悩みが生まれてくる根元の悩みであり、誰でも一度はぶち当たる壁。
そして柏木くんが神原くんを頼ったように、なにかを悩んだ時に助けを求めるのはごく自然なことだと思う。
人は、事柄はそれぞれ違うけど、なにかに悩み苦しむ時があって、その時なにかに誰かに助けを求めたり、甘え、頼り、寄りかかって、、、私たちはそれから逃げたりそれを捨てることもあるでしょう。否定や拒絶をしなかったり、認めたり赦したり、支え合い助け合うときもある。そうして生きている。
藤野さんと神原くんは「それでも生きていく」と、今もこれからも、悩みながら助け合いながら生きる覚悟をし、そして自分に対して人に対して真摯であろう、と真実を求めた。
裁いてくれ、と言った神原くんの姿は、
「生きていく中で、自分がなにか間違いをしてしまったとしても、間違いから目を背けないで"生きていくこと"の大切さ」を、視聴する者に訴えているように感じました。
それを中学生が、っていうのがずしんときます。子供が言ってるんだから、大人は出来なくてはいけない。
真相がよめても、作品を通してなにが言いたいのか終盤まで分からなかった、というのは、自分はゆるく生きてる証拠だなと思いました。身につまされたような安心したような(笑)
見応えあります、飽きませんね。
でも重い…!体力いります。笑(そりゃあ本人たちは倒れるよね、と後から納得)
自分の中の“偽善者”とのケジメ
誰しも「勇気を持って助けることができなかった」「周りに流された」「綺麗ごとだけで行動しなかった」「真実を求めず大人の対応でよしとした」など、「そういうのを口先だけの偽善者って言うんだよ」と柏木に糾弾されるようなことがあると思う。
この映画の、弁護士役・検事役の二人はその悔恨に各々のやり方でケジメをつけようとした。突飛な発想としか思えなかった「学校内裁判」にも大きな意味があったのだ。
いつでもどんなときでも恐れず勇気をもって行動したい。それは柏木の言うとおりだろう。ただ、それがいつでもできるか?躊躇せずできるか?恐れずにできるか?
涼子の法廷での最後のセリフに救われる。神原と同じく涙が頬を伝った。
「時には後悔することもある。それでも諦めずに。」この映画はこう言いたかったのではないか。
大人は純真な中学生のときの自分を少し思い出して、鈍感になっていないか自省を。
しかし、検事役(藤野さん)と弁護士役(板垣さん)の二人の演技は凄かった!特に目力!弁護士役は鬼気迫るものがあった。
二人に拍手!
内容はともかく、裁判ってこういうことか、と理解深まる
なぜここまでりょうこちゃんが深入りするのか、
なぜ大人になってからの回想なのか、
神原くんは何者なのか、柏木くんは何をしたかったのか。
全部わかるの?
15.11.11
なんというか…
いじめの当事者じゃなくても、見て見ぬ振りはもちろん良くない。
けど多かれ少なかれ、悪気があるにしろ無いにしろ、
いろんな登場人物の内1人でも共感できるような感情を抱いたことがある人が多いのではないでしょうか?
多少すっきり感はあるけど、胸糞要素多め。
学校裁判という発送はすごいと思う。
忘れた頃にまた見たい。
24.6.11
多くの方は前編観て謎解きミステリーだと“まんまと思い込まされた”
そのモードで後編を期待したなら、自ずと低評価になるだろうと。
確かに、原作小説は長尺なミステリー(法廷もの)作品ではあるものの、映像作品とする場合に於いて、通常作品よりも伏線とするには、あまりにも多い登場人物とその個々の背景にかなり時間を割いていることで、上映時間も長尺になっている事、それが意味(意図)する事は?
前編の終盤までの段階でそれに気付けば、これがミステリー〜法廷劇を背景にして、思春期の不安定な子供達ゆえに織りなされるアンバランスで不条理な世界と、それに翻弄される大人たちの世界(社会)、或いはその逆に大人たちによってもたらされる子供達の逃げ場のない現実、それによって引き起こされる悲劇と子供社会の混乱。
そうした「行き場の無い内なる叫び」をさらけ出す舞台設定として、謎解きミステリー+法廷劇+学園ドラマの形をとっていたという事だったのではという事など、元々このドラマが目指していたものが何であったのか思い込みで固執すると、オチの部分を主眼にして期待値高めたりはガッカリに繋がる事でしょう。
映像作品として成立させる場合、原作をベースにしつつも原作とはまた違った監督の意図するところや、そうしたバランスの匙加減が問われるところかと。
別に自慢で言うわけじゃありませんが、私自身は後編の開始間もなくで「犯人(引き金となった人物)」が誰なのかは理解できました。
あとは、その確認的に観ていくだけみたいになるのなら、特別に面白くは無いでしょうが、逆に「意図するところはそこだけでは無い」(犯人探し)映画では無いと理解して、最後まで興味深く鑑賞しました。
まあ、前編よりも人物描写がややくどい感も無きにしもあらずも、全体を通して相当良い出来の作品だったと思いましたけどね。
尚、映画と違い原作版では弁護助手を務めた野田健一が教師となって城東第三中学校に帰り、学校内裁判は伝説・歴史となっていた。
メインの主人公二人の関係性、距離感やミステリアスさはちょっと『時をかける少女』(1983年映画版)も彷彿させたかなと。
映画の中ではあからさまに描かれることは無いものの、そうしたイメージは20年後を描く原作の続編の方では藤野涼子は弁護士になっており、弁護士担当であった神原和彦と結婚したこという後日談として明らかにされているようです。
堪能した。そしてあらためて原作の凄さ!!
そう言えば俺は、映画は一気観したけれど、原作読んでなかったな。
そこで俺は原作を読んだ。文庫本6冊。10日間かかったが、全編堪能した。
すごい原作だ。中学生が、真実を知るために、学校内で裁判を開くという設定。
「事件」「決意」「法廷」の三部、各2冊。
クリスマスイブの自殺に始まり、さまざまなことが起きる事件。これだけで2冊。
「事件」と「法廷」はわかるけど真ん中の「決意」って何? と最初は思った。
が、読めばわかる必然の章。
「決意」があるからこそ、中学生たちが自分たちで裁判をしようという荒唐無稽な話が、確かな現実になっていく過程。
さすがに「法廷」の前半は読書スピードが少し落ちるが、後半はまた加速していき、見事なエンディングへ。
この内容は、とても2時間の映画には入りきらない。
という訳で映画は前後編なわけだが、それでも入りきる訳がない。
となると最初の関心事は、どこにフォーカスして、何を大胆に省略すらか、だ。
原作で作者が伝えたかったことも非常に多い。
関係した全員のそれぞれの成長は、原作のメインだが、映画で全員は描けない。
いったい誰と誰に絞っているのか。
作者が設定した最大のテーマは、「大出、樹里ふたりの声を、誰かがちゃんと聞いたのか?」 だが、そこは表現されるだろうか?
さらに、さまざまな形で置かれている 「大人による、子供の破壊。親による、我が子の破壊」 というしばしば起こりうる悲劇的環境は描くのか。
自殺、告発状は必須だろうから、森内先生も組み込むとしたら、エンディングへのキーとなる野田健一の事件は、この限られた時間の中で描けるのか。
大出たちと柏木のいざこざはどんな位置に置くのか。
大出家の大事件とそこに関わる者たちは描写されるのか。
原作を読んだ今は、どれを削っても物語が構成されない気すらしてしまうが、一体どんな風に料理されているのか。興味は津々。
さらに原作のエンディング近くでの最終抗弁。野田健一のあの過酷な事件の、あの瞬間の描写は、この尋問のためにあったのか。恐ろしいまでの、原作者の緻密な構成力。これをはたして映画で描けるのか。
神原和彦。彼は、触媒。彼が何かをするわけではなく、彼に触れた相手が、自分で考え始める。そんな役割。
各自の「成長」をこんな風に描けるのは、原作者の底を流れる "愛" なんだろうな。「誰もが、成長する」 という信念と言うか、成長そのものへの愛。
(原作から)「オレは、身の潔白を証明する。そう、決めた。だから、た、た、たのむ」
(原作から)「樹里が発した悲鳴を受け止めるのは、誰だ。今まで誰もやろうとしなかったことをやるのは、誰だ。このあたし、藤野涼子が、やるんだ」(独白)
これが原作の第二部のエンディング。をを、なんと凛々しいことか。第二部の表題が「決意」である理由が、ここでわかり、心に沁み入る。
学校という体制は社会の必要悪なのに、城東三中の先生方にはそれがわからない。
神聖な場所だ、ぐらいに思っている。権力者である自分たちにとって都合のいい、住み心地のいい場所であるだけなのに。
丹野先生とカササギの絵のエピソードは柏木卓也の考えを象徴するもの。
叩かれた藤野涼子、示談にされた増井望。
一方的に暴力に晒された者には、自分が暴力にあったことを訴える権利がある。
母がこちらに立ってくれた涼子、両親が向こうに合意してしまった増井。
その対比で、不当に扱われた者が訴える場が必要だということが、伝わってくる。上手い。
花火師の弁護士が語る、「殺人罪における殺意の有無の話」、これがまたラスト野田健一の最終抗弁に繋がる。
(原作から) 彼がハメられたことを立証するために、彼がそんなことをされても仕方のないワルだったことを、彼自身に認めさせるという荒技をやってのけたのだ
神原くんは、あなたのために、あなたに聞かせるために、あの尋問をやったんだよ
すごい。果たして、映画では描かれるか。
決してみんなの前には出なかった樹里の最後の証言は、映画では描かれるか。
それが、神原への感謝であることが、俺たちに伝わる表現にできている映画だろうか。原作では、他の人に解説させている。
原作では非常に丁寧に描かれ、かつ重要なエピソードとの相似形をとっている、裁判員たちと廷吏。
溝口弥生と倉田まり子が、樹里と松子について語るシーン、
原作でも回収されなかった、空から赤い雪が降りますっていう天気予報みたいなもの。
蒲田教子、俺にもそれ、わかんないよ。教えて!
これらは、果たして映画では描かれたか?
小説冒頭の、情報量の少ない、電話ボックスのシーンが、ラストのキーとなるというこの構成。素晴らしい。
しかし、映画は文字だけではないので見えてしまう。どうするのだろう。原作を踏襲できない。こんなジレンマもあるんだね。
原作を読んでから、すぐに映画を観る。
なかなかないこの楽しみ方。上に書いたように、原作小説が強烈かつ緻密かつ広大なだけに、
映画では、どうデフォルメしているのかが最大の関心事だろうか。
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そして、映画を観た。かって映画館で一気観したが、今回は配信で二度めを観た。
(俺は観ても、けっこう忘れちゃうので、初めて観るような感じで二度めを観ることは多い。今回もそうだ。新鮮な気持ち)
初日
1人め・刑事 「調べなかったんですね」
2日め
ふたりめ・須崎校長 「隠したんですね」
3日め
3人め・森内先生 映画では垣内はここで現れる。
4人め・樹里 映画では傍聴人いるんだ。証言は 「見てない。松子に聞いた」 なんだ。反対尋問の前に帰っちゃうんだ。
4日め
5人め・今野弁護士
6人め・大出
7人め・ ・・・
「誰もあなたを捌けない。それじゃあこの裁判の意味がない」
「そんな事は無い。やらなかったら、未来に立ち向かう勇気も出てこない。ここにいるみんながそう。自分の罪は自分で背負っていくしかない」
閉廷。
終わった。堪能した。
原作の広がりと深さを10とすれば、映画は深さは5くらいにして、広さを10に限りなく近づけようとしている感じだった。
まず、この話が成立するかどうかの最大の関門は、「中学生が裁判をしようと思う」 という動機がすんなりこちらに入ってくるか否かだ。
だから原作には、第二部「決意」のヤマのひとつ、野田健一のエピソードがある。
映画では、これを思い切って切り落としていた。
かわって、(原作にもある) 藤野涼子のエピソードを拡大強調して、それに置き換えていた。なるほどね。
「(私に)あの時勇気があれば、マツコは死ななかったかもしれない」
線路を見つめるシーン、柏木卓也から激しく責め咎められるシーンを加えることで、それなりにつながっていたように思う。
「中学生が、真相を知るために校内で裁判をしよう」とまでに思う動機を、「私は人を見殺しにした」という、主人公の深い後悔に委ねてストーリーを成り立たせている。それは偉いと思う。
映画は主題を、この藤野涼子のセリフに象徴される、「勇気を出せ」 と言うメッセージにしたんだと思う。
個人的には、この話をそこに帰着させるのは、受け取る方にとっては重すぎるように思うが、それによって1つの映画として成り立っていることはたしかだ。その点は、見事なものだ。
さて、映画をご覧になったみなさん。
原作の映画もラストで野田健一は反対尋問をする。その背景となる野田健一の過去の壮絶なエピソードは、映画では時間的に入るわけがないので、ばっさり削られているのですが、ぜひ原作を読んでほしい。
この素晴らしい映画よりさらに2段階ほど深い原作をぜひ一度読んでください。
野田健一について、映画では登場人物のひとりに過ぎなかったと感じられていると思いますが、読めばその位置の重要さを始め、きっと映画とは別の世界を楽しめると思います!
おまけ
原作は、廷吏の山崎 晋吾をはじめ、登場した全員にそれぞれの感想を抱けること間違いなしの、素晴らしい群像劇です。
ほんとうに、ひとりひとり書き込んでるんだなあ、と感心しました。
話全体は、冒頭に書いたように、重く深い話なんですが、作者の、全員を描き分けるこの技術で、多少は心が安らぎます。
以上、長文にて失礼しました。
なんとも気味の悪い映画
アマプラにて。
小説は読んだことないので、話がついていけないところがたくさんあったし、伏線回収しきれていない感が否めない。
役者一人一人はいいんだけど、子供のあどけなさがあまり感じられず薄気味悪かった。
一番気になったのは大出君の腰巾着二人。彼らは何の役割だったんだろう?映画では描ききれていないように感じたけど。。
悪くないが、そもそも前後編二部作にする必要があったのだろうか?
原作未読だが、宮部みゆき初の法廷ミステリー。
いじめをテーマに、現実の裁判を中学生が学校で行うっていうだけで興味はそそられる。
ただ、色々無理もあり、そもそもの深夜事件・事故があったのなら、翌朝登校時は警察が入ってそもそも学校に入れないのでは?
それにいくら雪降ったからと言え下足棍以外にも物証色々残ってそうなもので、その上での事件・事故判断になるだろうけど、あっさりと自殺と決めつけ、ミステリー的にはツッコミどころ満載。
まあ、演じる中学生達の学生らしい演技は中々見どころあった。
前後編の二部作になってたが、そうする必要あったか疑問。全体的にテンポ悪く、要らないシーンも多かったので3時間なら充分収まったと思うとちょっと冗長な印象は拭えない。
謎はすべて解けた。だが死人に口なしの柏木くんの心の謎は? 当日の屋...
謎はすべて解けた。だが死人に口なしの柏木くんの心の謎は?
当日の屋上で明らかに異常なまでに神原を罵ってそりゃもう悪者感出まくりでもうコイツは死んでもいいと思わせる演出が視聴者から見た神原の救いのような気になるが、柏木は柏木で人間の、人間社会の清濁併せ持つ矛盾のようなものを受け入れられない潔癖症故に生きることがつらかった、というか、彼自身誰も助けてないし口だけなところしか見せてない、そういう自分の弱さ汚さを認められず死にたくてたまらなかったのだろうと思った。
藤野涼子って役名と芸名同じなんですね。初めて知りました。
松子の死に方は悲しかったしその死に直面した樹理もさぞつらかっただろう。
真実を隠し続けるのは当の本人にとってもつらいだろうと思える話だった。
中学生たちだからこそ起こりえる事件といえばそういう面もあるだろうが、大人になっても人間は人間、視野が狭くなる場合は多々あるし自分だけで解決しようとしてやらかすことは大アリだ。
ソロモンの偽証、タイトルの意味もいまいちよくわかってないが、いい作品だった。
スッキリしたな
前編のながーい前振りがあったので、最後まで興味津々で見られました。
学校違うのに参加してきた彼がなんで参加してきたのかとかを最初から考えてしまうので、彼が電話ボックスの人なのはすぐに分かってしまいましたね。そう思っていたら、ようやく彼女が彼を調べ始めてくれました(笑)
でもまあ、最後の最後は分からなかったから、ミステリーとしては合格点かなあ。
これきっと原作読んだ方が面白かったんじゃないかな。
あと、男女二人の主役がめちゃくちゃ良かったね。
生徒たちが裁判をして、情報がどんどん出てくる。 原作未読のせいか、...
生徒たちが裁判をして、情報がどんどん出てくる。
原作未読のせいか、充分に楽しめた。
どうやら原作のほうが良いらしいので、いつか必ず読もうと思う。
思春期の子供達が葛藤しながらも事件に立ち向かう物語
思春期独自の弱さや歪みが生んだ悲劇。
だからこそ大人が子供達を守っていかないといけないなと感じたが、同時に自分達で立ち向かう強さも持ち合わしているので、子供扱いをするだけでなく優しく見守ることも大事なのかなと思う。
大出が過度ないじめ(普通に犯罪)をしなければ、誰も死ぬことも苦しむこともなかったので、最後に神原と握手を交わしたシーンはかなり腹が立った。
柏木も柏木で、確かにいじめやそれ以外の要因があったかもしれないが、周りを傷付けて一生トラウマになるようなことをするのはどうかと思う。
原作は読んでいないが、ミステリーとしてはそこまで面白みがあるものではなかったし、最後にすっきりするものでもないし、話題になった割にあんまりだなと感じた。
普通には面白いくらいの映画。
最後いい話的に終わるが…
最後いい話的に終わるが、実際は2人の人間が死んでおり、いい話ではない。
しかもオチは初めから裁判する必要性があったのか微塵にも感じない。
原作小説もこの映画を見る前にみましたが、この映画は全編・後編の2部作にしたわりには小説の大事な部分をばっさりカットし、しかもカットした時間を小説の無駄な部分に割り当てています。
前篇はよかったのに…
前篇がおもしろかった分、後篇何の盛り上がりもなく終わってしまったのは残念でした。
柏木についてもう少し描かれていたらなあ…なぜ自殺に至るまでになってしまったのかもよくわからなかったし。あの内容じゃあただの口が悪いメンヘラかまってちゃんだということしかわからない。偽善者って言葉もお前が言うか?って感じでした。
青く痛い
自宅で動画配信サービスを利用して視聴しました。数年前に1度動画配信サービスで見ましたが、今回が2度目の視聴です。原作は未読です。
前篇で決まった裁判が行われ、様々な人間が裁判の場で本音を話していたり、事実が判明していきます。
津崎校長や森内先生の言葉は少なくとも本音であったと思います。年を取れば取るほど本音を言うことが難しくなりますが、生徒が行う裁判だったからこそ話せたのかもしれません。
そんな中で告発状を送った三宅の法廷での態度には、少なからず不快感はありました。ですが、このように生きてきた彼女に事実を話しさせることは無理だろうな、とも思いました。正直この映画の中で、話をしなかった三宅に対して法廷で藤野が涙を流したシーンが最も心揺さぶられました。あの瞬間の梯子を外されたような感情はとても痛々しく伝わってきました。
神原がわざわざ裁判を開催させた理由も、大人からしてみれば独善的にも見えます。また、柏木の他者に対しての言動も、どう考えてもわがままでしかないのですが、思春期にはそのような思考になるやつもいるよな、とは思いました。柏木の神原に対する態度もそうですが、あれだけ完全にかまってちゃんな行動すりゃ、そりゃ友達いなくなるぜ、というのが自分自身の本音です笑。聞いていた柏木の両親はどんな気持ちになったのでしょうか。
冷静に考えればわかることを見失ったり、完全に自分の中の理論で武装してしまう奴っているんだよな、と妙に共感してしまいました。そのような人と対峙したときの不全感やイライラを、見ている側に感じさせるこの映画は良くできているな、と感じました。
中学生らしい青い感情を発信させ、痛さを感じさせるこの映画がかなり好きです。
後編は予想ができたがいい作品
予想ができないものではなく
予定調和な安定の結末だった。
最近のドラマもそうだがこの手のものは
この結末ばかりな気がするが
この年にできたのを考えるとこれが模範作となったに違いない。
ややこしくなりそうなものを綺麗にまとめていて分かりやすい映画なので、
子供に見させると学校での人としての在り方を考えてくれそう。
自分の記憶が正しければ
原作を読んだのは随分前なので記憶違いだったらごめんなさい。原作ではラストでもう一度三宅さんの証言があったと思う。なぜ映画にはそれがないのか。実はその部分こそが本作の重要なオチだったのでは?
自分の記憶が正しければ、三宅さんは最終日に2回目の証言台に立つ。証言自体は1回目と全く同じ。しかし同じ内容でも、1回目は誰かへの復讐という悪意に満ちたものだったのに対し、2回目は誰かを救済したい善意のものへと変化していた。
このラストがなければ三宅さんがかわいそうである。
ネガティブシンキングは現代の呪怨
学校裁判は事件にかかわった関係者たちへの誤解を解くと同時に、それぞれが反省を告白する場となり、すべてすっきり丸く収まったような感じがしました。が、そういえば、結果として多くの人を巻きぞえにした彼の厭世感の理由はなんだったのでしょうか? 見逃したか? あと、火事保険詐欺の祖母の死は故意、それとも間違い? 正答を求め、他の方のレビュー巡礼に参ります。あと、ところどころ暗くてわかりづらいのは自分の目が悪くなったせい?
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