家族の肖像(1974)

劇場公開日:

家族の肖像(1974)

解説

イタリアが誇る巨匠ルキノ・ビスコンティが1974年に発表した作品で、ビスコンティ後期の傑作ともうたわれる一作。全編が室内で撮影され、主要な登場人物は5人という限られた空間で繰り広げられるドラマを描いた意欲作。ローマの豪邸にひとり静かに暮らす老教授。その邸宅には、18世紀イギリスで流行した「家族の肖像」という家族の団らんを描いた絵画が飾られている。そこへブルモンティ夫人とその愛人、夫人の娘らが転がり込んでくる。当初は平穏な生活を阻害されたと感じた老教授だったが、次第に彼らに興味を抱き始める。「山猫」のバート・ランカスターが老教授を演じ、ヘルムート・バーガー、シルバーナ・マンガーノら、ビスコンティ作品おなじみの俳優たちが出演。脚本にも「山猫」「ルートヴィヒ」のスーゾ・チェッキ・ダミーコが名を連ねる。日本では78年に初公開され、日本アカデミー賞最優秀外国作品賞やキネマ旬報外国語映画ベスト・テン1位など多数の映画賞を受賞。2017年2月、デジタル修復版で39年ぶりに公開される。

1974年製作/121分/PG12/イタリア・フランス合作
原題または英題:Gruppo di famiglia in un interno
配給:ザジフィルムズ
劇場公開日:2017年2月11日

その他の公開日:1978年11月25日(日本初公開)

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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(C)Minerva Pictures

映画レビュー

4.5教授のメランコリー

2024年10月30日
PCから投稿

若さを失うほど、若者との隔意とともに「おれはもう若くないんだな」という実感がやってくる。おおむね30代以降にそれがきて年をとるほどゆるやかに静まっていく。ゆるやかに静まっていかない奴もいて、そんな奴が若い女に執着して事件化することが定期的にある。 たとえば職場で若いアルバイトたちが休暇の旅行計画をねっしんに話し合っているのを小耳にはさむ。そこに仲間入りしようとは思わないが、もし誘われたらほいほいとついていくかもしれない。 じっさいには面倒だから仲間になりたくはない、だとしても、もし頼りにされたなら、たとえば運転手を頼まれたなら「しょうがねえな」と嫌がりつつ、内心喜んで足になるかもしれない。 じぶんがすでに若くはなく、もう若いひとたちの仲間に入れないことに、悔いのような気持ちをおぼえることがある。若い頃に戻りたくないし、仲間になりたいとも思わない。しかしわたしは若さを謳歌することなく、若さを発揮したこともなかった。青春がなかった自分への憐憫とともに、寂しさに似た気持ちが湧いてくることがある。 役名のない引退した教授(ランカスター)はローマの豪奢な楼閣に名画と蔵書に囲まれて暮らしている。孤独だが、孤独を愛していることを自得している。そこへブルモンティ伯爵夫人(シルヴァーナマンガーノ)が上階を間借りしたいと言ってくる。貸すつもりはなかったが夫人の強引さに圧されて貸すと、娘のリエッタ(クラウディアマルサーニ)や同居人のステファノ(Stefano Patrizi)や夫人の愛人であるコンラッド(ヘルムートバーガー)がやってきて、教授の静かだった日常が、ことごとく破壊される。 しかし、コンラッドは挑発的な左翼活動家だが芸術への造詣があり、放っておけない危うさがある。かれは上流階級と資本家を憎みながら、その実自身は伯爵夫人のジゴロとなって、その財貨に寄生している。その労働階級のジレンマ・自己嫌悪が、かれを激しやすくさせている。教授はそんな刺々しいコンラッドに不図、親心のようなものをおぼえる。 リエッタは現代的な不謹慎さ、今で言うならZ世代の不可解さがあるが、天衣無縫な若さと美しさを併せ持っている。コンラッドと教授がプロレタリアートとブルジョアの対比であるなら、リエッタと教授は生と死の対比である。死の匂いがする教授にたいして、リエッタは迸る(ほとばしる)ような生として顕現し、出てくるたびにパッと画が華やぐ。マルサーニは撮影時15歳だったそうだ。 教授はかれらに気分を害されながらも、手の焼ける家族ができたような父性(父代わりの気分)もおぼえるのだ。 伯爵夫人、コンラッド、リエッタ、ステファノの介入によって教授は平安をうしなう一方、かれらの喧騒に触発され、自身の家族(母や妻)の甘美な記憶がよみがえる。 しかしブルモンティの4人は結局思想的決裂をきたして離散し、コンラッドは非業の死を遂げる。教授は心身ともに打ちのめされ病褥で目を瞑る。 家族の肖像は新古や老若の断絶と、そこからくるメランコリー(憂愁)を描いている。と同時に、老齢の教授が、ブルモンティの4人に対してなしえることの限界が、そのままヴィスコンティ監督の限界につながっている。 『撮影は全て教授のアパルトマンのセットの中で行われ、これは教授の閉ざされた内的世界の表現であると共に、血栓症で倒れたヴィスコンティの移動能力の限界でもある。』 (ウィキペディア、家族の肖像(映画)より) 教授が画廊の売人から絵を売りつけられようとしているシーンで映画ははじまる。教授はかつてブランシャール画廊の常得意だったが、もう絵画を買う経済的余裕はなく、教授は売り口上に抵抗している。 ヴィスコンティを貫くテーマはヴィスコンティ自身がもつ境遇「没落する貴族」であり、享楽や文芸を捨てざるを得なくなった知識階級が、かといって労働階級になることもできず、凋落する様子が切り取られる。 教授もいわば絶滅危惧種として描かれる。かれは学識が深く、名画のコレクションも蔵書もすばらしい。しかし、間借り代金目当てにブルモンティの4人の介入をゆるしたかれは、結果さんざん翻弄されて心身をそこねる。そのとき教授の学識はなんの役に立ったであろう。アーサー・ボーウェン・デービスの家族画は、なんの慰めになったであろう。 けたたましく容喙してくるかれらに対して「家族ができたと思えばよかった」と教授は後悔するが、そんなことを思ったとしても、根本的な断絶は避けられなかった。年齢から価値観から思想から感受性から何もかもが違う人種なのだ。 そのように内実がいくら壊乱していようとも家族は「家族の肖像」画のごとく見えるものだと映画家族の肖像は言っているのである。 イタリア語の原題の訳はだいたい家族の肖像でいいと思う。英語タイトルのConversation piece(会話の断片)とは人々が交流する様子が描かれた定型の群像画のことだそうだ。 Imdb7.4、RT82%と83%。 海外ではヴィスコンティのなかではさほど評価されていない。が、日本では家族の肖像がヴィスコンティ映画のなかで認知、人気ともに高く、ウィキに『日本ではヴィスコンティの死後、1978年に公開され大ヒットを記録、ヴィスコンティ・ブームが起こった。』とあった。個人的にも絢爛と退廃のヴィスコンティよりも、これが気に入っている。黒澤明の100選にも入っているそうだ。 前述した通り映画は新古、老若の断絶を描いているが、教授が人生をかけて築き上げたものがなんだったのか疑問を呈している気配が大きい。教授は孤独を愛しているようだが、ほんとうに孤独を愛しているのか試されているようでもある。教授のメランコリーの核には若さへの憧れもあったであろう。そして、それらはすべてカメラのこちら側にいるヴィスコンティ自身の気持ちの投影だったにちがいない。

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津次郎

4.0【孤独なる”教授”の老いたが故に求めた疑似家族の仮初なる形成と崩壊を描く。”教授”が住む大邸宅の一階の豪奢な絵画、意匠と、疑似家族が住む二階の現代アートの如き意匠の対比も見事なる作品である。】

2024年9月3日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

知的

幸せ

<Caution!内容に触れています。> ■豪邸に住む”教授”(バート・ランカスター)は、「家族の肖像」と呼ばれる絵画のコレクションに囲まれて孤独に暮らしている。  ある時、フルモンティ婦人(シルヴァーナ・マンガーノ)が現れ、自分の娘リエッタや若き情夫たちコンラッド・ヒューベル(ヘルムート・バーガー)とステファーノと豪邸の2階に住みついてしまう。  新しく現れた”家族”により、教授の生活はかき乱されていくが、彼は美術に長けたコンラッドと友情を交わして、同居を認めるのだが。 ◆感想 ・物語は全て、”教授”の豪奢な邸宅のみで展開する。教授の住む一階の多数の絵画をを含めた意匠が豪奢であり、映画美術として見応えがあるし、それがこの作品の趣を醸し出している。  特に、書棚の奥に設置された隠し部屋の存在であろう。 ・”教授”は最初は彼らが二階に住むことに嫌悪感を隠さない。音量の大きいポップスが流れて来るシーンは、静寂を好む”教授”の苛立ちを描いている。 ・だが、”教授”は眉目秀麗なコンラッドが美術に長けている事を知り、彼に親近感を覚えコンラッドも又、”教授”を父のように思って行く。 ■そんな中、”教授”は新しく現れた”家族”を、一階でのディナーに誘い疑似家族は夕餉を共にし、”教授”は穏やかな表情で新しく現れた”家族”達と卓を囲むのである。  このシーンは、孤独だった”教授”が”家族”の団欒を求めたように描かれる。  だが、その後、コンラッドは実は過激な左翼思想の活動家であり、ファシストで右翼のフルモンティ婦人の夫を殺そうと近づいていた事が明らかになる。 <そして、二階の新しく現れた”家族”は居なくなるが、逃走していたコンラッドだけは一人戻って来て、二階で爆死する。  その死体を抱いた教授は、一人一階のベッドに横たわり、医者が脈を図る中、静かに眼を閉じて動かなくなるのである。  今作は、ヴィスコンティ監督が、”家族”とは何か、”伝統と革新”とは何かという意味を問いかけた作品である。>

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NOBU

2.0扇町キネマで 嫌いだな… とにかく侍従のようにそばに立つ娘と娘の恋...

2023年12月9日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

寝られる

扇町キネマで 嫌いだな… とにかく侍従のようにそばに立つ娘と娘の恋人が不気味 ファラオの墓の横に侍ってる二頭の犬みたい みんな性的関係をもつ兄弟だしタブーなんてなさそう薬もやってそう 貴族である監督にとって世界はこのように映っているのか… ハプスブルク家 イタリアの庶民「ニューシネマパラダイス」と貴族「家族の肖像」 ヴィスコンティのヘルムートバーガーは私より上の世代の方たちにはとても人気があるが 彼自身ファッションセンスがまるでなさそうだし…彼のどこが魅力的なのだろう? 老紳士のバートランカスターがイケメン 彼はイタリア人ではなくてアメリカン人だった驚き シルヴァーナマンガーノは貴婦人役 メイクがすごい素顔 確かに彼女はすごい イタリアの右翼と左翼 家の乗っ取りばなし 動けない人(この頃監督は病気の為)のとりとめのない妄想のような 私はこの老紳士は結局ヘルムートバーガーに恋した相思相愛 そういう話だと思った 1978年に日本で大ヒットしたらしい 日本人ってなにもわかってなかったのねと思った 澁澤龍彦は老紳士の生き方に憧れたらしい 私にはこの映画の魅力がよくわからない 途中で寝たし ビィスコンティは寝るらしい 彼ら家族のたたずまいがまるで地下芸人グループや学生運動のような連中抜けるに抜けられない好きでつるんでるわけじゃない泥のような同じ匂いになってしまった集団そういうグルーブがあるのだろうなと想像してみたり 彼ら自身は性格あうあわないもあるのにそのグループから抜けることはできない

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チャン・パー

4.0主人公の心の振り子が身につまされて…

2022年11月21日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

私の若い頃、片想いをしていた女性の 大好きな作品だったので、 今年閉館した岩波ホールで ひとり鑑賞した苦い想い出の作品。 しかし、 ヴィスコンティ作品としては初めての、 しかも若い頃の鑑賞だったこともあり、 当時は、その難解さに 全く理解が及ばなかった記憶がある。 今、何十年ぶりかでこの作品を再鑑賞する について、 内容も描写もほとんと忘れており、 ほとんどが絵画のある部屋での 話の展開だったような気がしていたので、 教授の上階が白いモダンな部屋に改装されて いたシーンなんて全く記憶の外だった。 全般的な家族テーマとは別に、 終盤の右派左派ディスカッションについても たくさんの示唆に富む台詞が出てきた中で、 「左翼の実業家がいる?」には 至極考えさせられた。でも、 富の再配分には左翼的思想が良さそうで、 ならば両者の利点をミックスしたらと 考えていたら、 斎藤幸平の「人新世の資本論」の本が 思い出された。 しかし、この作品の本筋は、 「結婚は家族のため、離婚は自由のため」等の 台詞もあった、 “孤独と家族”や “孤独への希求とそこからの解放”等に関する それぞれの交差についてなのだろう。 孤独を愛しながらも 主人公の台詞を借りると、 それが怖くなったり、 主人公の家族の喪失感は、 たくさんの「家族の肖像」画のコレクション からは元より、 ドミニク・サンダの母と クラウディア・カルディナーレの妻への 追想シーンの演出からも垣間見れそうだ。 そして、結果的には、 孤独からの解放を夢見ながらも、 主人公は激しい時代の変化にも あがらえずに亡くなってしまう。 私も年を重ねる中で、 これまでの関係した方々とのお付き合いも 徐々に面倒に感じ、一人読書や映画鑑賞が 心地良く感じてきている一方、 確かにこの作品の主人公のように 他人との関わり合いの減少に 喪失感も身につまされる今日この頃 ではある。

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