かぐや姫の物語のレビュー・感想・評価
全302件中、201~220件目を表示
傑作だ
かぐや姫の物語
そう、まったくその通り、かぐや姫の物語であった。
一番の見どころはやはり「牛」だろう。
(牛かよ!)
CG好きの俺にとっては絵的に期待はしていなかった。
しかしこれは、傑作だ。
プレスコ&あの作画…あれは手間かかりそうですね。
新しいんだか、古いんだか、
温故知新というか、
知ってるはずの、かぐや姫の物語がこんなに面白かったのかと思い知らされた。
(日本最古の物語なのに、ぶっとんだストーリーだな)
登場するキャラクターの性格がそれぞれよかった。
平安時代というのも感じられた。
かぐや姫の体の成長と知識の成長
世の中の非常識な常識
罪と罰…
それが罪というのであれば、
それが罰というのであれば、
優しすぎるじゃねーか
もう僕達は昔のようには生きられない。
そう、もう手遅れ
引き返せない
映画にした価値があった
なぜいままで映画 ドラマ化されなかったのか?
あまりにも有名な作品だがアニメ 実写化はほとんどのされなかった。ジプリらしく男女関係や女性の本音など大人向けにつくられていた。天から迎えに来るシーンはオリジナルでさんぴが分かれるとこだがぜひ美しい日本の風景を現代の技術で1度実写化してほしい。
87年沢口靖子のUFO が迎えに来た作品もぜひご覧になって欲しい!!
うん、竹取物語。
竹取物語でした。
評価が高いのがちょっと意外です。
まぁ、こんなもんじゃないのかと。
新解釈を期待して観たので、普通の竹取物語だったなぁ、ぐらいにしか感じませんでした。
作画は今までにない手法で興味深かったのですが、姫の等身が安定してないといえばいいのか、急にものすごく幼く見えたりして、成長してるのかしてないのか、なんとなく入っていけませんでした。
姫が自分の意思を強く主張して挫折、主張して挫折、を繰り返すけど、でも、結局のところ姫はなにも言わない。
そのうち、月へ帰ることになっちゃった!
好きな人じゃない人との結婚が嫌で助けてっておもわず言ったの!
そしたら、月から迎えに来るって!
本当に好きだった人は、とっくの昔にほかの人と結婚してて私のこと助けてくれないし!
(でも、夢でアバンチュールできたからよかったけど。)
でも、帰りたくない!
だって、月にいたときもこっちのがいいなって思ったもん!
そしたら、こっちに送られちゃって……
こっちは生きてるからいろいろ大変なこともあるけど、感情もない月の世界より断然こっちのがいいもん!
なんとなく、姫の感情の起伏についていけませんでした。
だったら、ほかになんかなかったのかい、姫よ…
いまいち姫に感情移入できなかったのが、達観しておとなしくなると思えば、急にハイテンションになったりして、押し付けられて嫌なのはわかるんだけど、成長してるなって感じがしなかったから。
で、結局、そのまんま月に帰ってしまったとしか思えなかった。
だけど、月からのお迎えのシーンは荘厳さの中に有無を言わせない恐怖があって、とても異質でよかったです。
そりゃ、感情爆発できる世界のほうがいいよね、生きてるってすばらしいよね!と思わせる説得力がありました。
全く感動できないわけでもないけど、ものすごく良かったとは思わなかったです。
こんなに映画で泣けるのか
最高
原作に忠実です。
人それぞれかと思いますが
心が揺さぶられました。
ジブリ作品の劇場鑑賞は、「千と千尋の神隠し」以来です。
特に理由も無いのに遠のいていたのですが、この作品には、何かを感じて衝動的に行ってしまいました。
いやはや…感嘆と溜め息しか出ません。
作品の絵からは、喜怒哀楽の想いが溢れ出し、その絵が連続することで、まるで命を紡ぎ出しているようです。
ストーリーは、最小限の脚色だけで、竹取物語そのものです。
「アナザーストーリー」や「新説」ではないのに、近代的な感性と全く違和感がない事に驚きました。
音楽も秀逸です。
クライマックスのシーンでは、恐怖を感じた程です。
私は涙もろいと自負しているのですが、この作品では、何故か最後まで涙を流す事はありませんでした。
だけれども、心が揺さぶられたのです。
他の方のレビューを見る事で、新たな発見も出来る作品だと思います。
映画を見て色々と想像する方にオススメです。
素晴らしすぎる!
終始涙。
普通の竹取物語
ひねりもなんもなくただの竹取物語でした
教科書で見たなーって教材としてすごいいいと思います
現代版のかぐや姫とかなら面白かったんちゃうかなーって思ったり
結局罪は地球に行きたいって思ったことで、行って過ごした間の記憶をなくすことが罰なんかな?
女童はこそ神であると言いたい。
なにより単純に誰もが知っているかぐや姫の物語だ。
この映画にストーリーの意外性や新規性を求めてはいけない。
見えない人にはただの「まんが日本昔話」の長編バージョンにしか映らないだろう。
単純な水彩画や鉛筆画、描き込まれない白い空白。
良く見るとこれがすべて生きている。緻密に計算されている、描き込まれない書き込みである事に気付くと思う。
更に緻密な時代考証とロケハンを基にした作画から、あえて簡略化し消し去られていることに気付くだろう。
五人の貴公子のカーチェイス(牛車だけど)の迫力や都大路の賑わい。姫の御殿での宴の賑わいや田楽師の踊り、御殿にバリケードを気付く職人たちの所作。もののけ姫以上に史学的な研究成果をたたき込んでいる。
その躍動感は絵巻物がそのまま動き出したようだ。
キャラクターすべての表情が生きていて、田舎家の庭で初めて立った姫を顔を真っ赤にして涙を浮かべて呼ぶ翁の姿についつい涙してしまった。
そして本題。
女童こそがかぐや姫のアンチテーゼで理想ではなかろうか。
御殿に仕えながらも鉄漿もせず、月の使者の前でも彼女だけは眠らない。
カムロ頭で笹を振り童どもを従えて、童歌を歌い天上人に対抗する。
彼女は中世において社会規則の外に存在した京童や大童の象徴で彼女もまた人外の力を持った神の化身なのだろう。
女童と天上人の音楽を聴くだけでもこの映画の値打ちは十分あると思う。
宮崎監督が今を表す人なら、高畑監督は未来を作る人なのだろう。
「思いでぽろぽろ」の時にあの写真と見まがう風景描写に批判が起こったが今はどうか?写真トレースによる風景描写が定番になっている。
そして「となりの山田君」の成果が今回のかぐや姫だ。
「風立ちぬ」は良くも悪くもジブリ作品だが「かぐや姫の物語」はまるで次元の違う別作品だ。
そしてキャッチコピーについて、公の罪は地球に憧れて地上に降ろされた事。それはインターネットの前で災害画像に同情を寄せる我々と同じではないだろうか。地べたを這い、盗みに手を染めて必死で生きる捨丸に憧れる姫はやはり真実が見えていないのだろう。しかし姫のほんとの罪は逃げたいと思い連れ戻されることだ。本当の苦悩を呑み込めなかった姫は捨丸とも結ばれることは無い。(キャッチコピーは鈴木Pの失敗だと思う。)
ただあっさり妻子も捨ててしまう捨丸には共感できないし、何故ああしたのかは疑問に思う。
(下世話な話で考えると最後のあれは捨丸とやってるよね。)
こんなに時間がたってたんだ
見終わって、2時間20分も立っていたのにびっくりしまった。そのくらい集中してみてしまいました。
月の住人かぐや姫が、現代的な感性を持っていたら…、というコンセプトで『竹取物語』という誰もが知る古典文学を解釈したんですね。観客は現代人ですから、ものすごくかぐや姫に感情移入してしまうんです。
うまく整理はできていないんですが、清濁入り混じる地上の世界で、泣き笑いしながら生きていくことこそが、人に許された無二の価値なのだ、と思いました。でも、清らかな月の住人である彼女が、それにあこがれることは罪であり、その世界を経験させておいて、「自ら望んで」月の世界に帰ることを望んでしまうことが罰なのか、と解釈しました。
事前にCMにも出ていた、桜の木の下の場面ほか絵の素晴らしさは8年間の月日の重みが感じられました。「山田くん」で会社を傾けた甲斐があったのではないでしょうか。
全然関係ないですが、映画館の予告編で『武士の献立』という映画のCMで、すてまる役の高良健吾が出てきて「こうら けんごです」と名乗っているのを聞き、この人は「たから さん」じゃないんだ!と一番の衝撃を受けました。
生きるという事を真摯に描いた作品
素晴らしい作品です。
学校の教科書で読んだけどいまいちパッとしない…という印象だった竹取物語を元に、どうしたら感動を呼ぶような話になるのか不思議でしたが、観たら十分に理解できました。大胆なようですが、解釈に全く違和感がありませんでした。
かぐや姫の罪は生きたいと願った事、罰は生まれてきた事です。この映画は、かぐや姫の人間としての一生を通して「生きる」という事をテーマに描いていると感じました。
山から都に下ってからのかぐや姫は、姫らしくふるまう事を強要され、自分の意志での行動が制限されます。そして、外見を品評され、宝物に例えられて取り合われるなど物として扱われ、人間としての尊厳を踏みにじられます。
最終的には、帝に求婚によっていよいよ誰かの物になる事を強制され、姫は人間の偽物として生きながらに死ぬぐらいならと月に帰る事を願います。
しかし、月が迎えにくるまでのわずかな間、姫は自分が生きるために生まれてきたのだと悟ります。ここでいう「生きる」とは、誰にも支配されず、自由に、人間として生きるという意味です。姫が愛した山の動物や植物と同じように。度々入る動植物のカットは、ただビジュアルが美しいだけのものではなく、「生きる」事の尊さを描き出しています。最後に捨丸へ自らの想いを伝え、抱き合い、喜びを感じるシーンは、人間として生きる事の象徴のようでした。「生きる」という、当たり前のようで当たり前でない事をこんなに丁寧に描き、教えてくれる作品に出会えた事にとても感謝しています。
またこの作品は、従来のアニメヒロインに対する批判であるというようにも受け取る事ができます。あまりにも超人的な母性だったり、従属的、性的な対象でしかないといった都合良く自我を持たないヒロインばかりが生み出され、それを良しとする世の中に対しヒロインも人間だ、生きているのだというメッセージを投げかけているように感じます。
“食わず嫌い”が多い映画
『竹取物語』と聞いて誰もが「知ってるよ」と答える。それぐらい浸透している最古の物語を題材にした作品だが、
大多数の人は本来の竹取物語を知らず、児童文学止まりな人もたくさんおり、人によって知っている『竹取物語』が違ったりする。
更に原文が存在していない『竹取物語』は、今日までに様々な人間によって改変されており、
誰もが知ってる『竹取物語』は本来の『竹取物語』ではない可能性もあるうえ、様々な描写不足、矛盾点、謎が未解決のまま。
それに1つの決着をつけようとしたのが、この『かぐや姫の物語』だ。
子供に読み聞かせていた物語として馴染み深く、絵本などでは物語として成立しているが、
『竹取物語』はその時代の風刺も加えられた、大人な作品でもある。
故に、私達の目に触れる媒体になった時には子供向けとして設定の一部が省かれたり、心理描写を付け足したりして、世の中に浸透した。
だから、この映画に対して「竹取物語そのまんま」という評価は相応しくない。そもそもの竹取物語に物語としての欠落部分が多過ぎるからだ。
なぜ姫は地球に来たのか、姫が犯した罪とは何か、地球に来て姫は何を思っていたのかなど、それらの疑問点を真っ正面から受け止めた映画であり、1つの解釈を作り上げた傑作と言ってもいい。
全体的に“悪”の描写が漂っており、むしろやり過ぎなくらいのものを演出している。
それは逆に言えば姫だけが“正”であるように見えるが、どちらも断言出来ない物語が繰り広げられており、人に寄っては“正”が“悪”に見えたりする。
この曖昧な状況に陥った人間は悩み、苦しむものだ。この映画のテーマはそこにある。
乱暴な言い方をすると、この映画の中では、まともな人間はほとんど存在しない。皆何かしら観ている人に不快感を与える人間ばかりだ。
その構成に疑問を抱く人がいないはずがない。けれども登場人物は皆、あの時代に沿って生きているだけだ。
1000年も前の人間に現代の価値観など通用しないと考える人もいれば、道徳論から否定する人もいるだろう。
2つの時代で抱える価値観の違いは、心の違いであり、この映画はその心の違いが大きな意味を含む。
度重なる姫の苦悩を、あなたはどう見たか。
「かわいそう」と感じる人もいれば「わがまま」と感じる人もいる。人は自分の心を抱いて生きている。
もし、その心が無い存在がいたとして、あなたはそれらを「生きている」と見るか「死んでいる」と見るか。
その不完全であるからこそ“生”を実感できることを伝えるに足る存在は、物語のあの月にいた「かぐや姫」しかいない。
そしてそこに、誰もが知ってるあの結末が加わった時、あなたはこの「かぐや姫の物語」の「かぐや姫」に何を思ったか。
避けられない結末の中で、姫は本当に地球に来て幸せだったのか。不幸だったのか。
ラストの姫がそれを教えてくれた。
「風立ちぬ」と同様のテーマを醸し出し、そしてどちらの主人公も、この世のありとあらゆる矛盾を抱き、理解した上で生きようとする。
どちらも伝わりづらい側面を持っているため理解されないのは仕方ないことなのかもしれないが、既知の物語だからとこの映画は観る気がないと思っているならば、むしろそれはチャンスと捉えるべき。
あなたが抱いていた「かぐや姫」とこの映画の「かぐや姫」。
見比べ、考えることで、より一層この映画の登場人物に共感又は反感を抱き、そしてラストであなたの答えが出るはずだ。
最古にして最新、そして最後の……
「はっきり言って間違いだと思ってる」
高畑勲は『もののけ姫』に対してこう言い放った。そして作り上げられたのが『ホーホケキョとなりの山田くん』であり、テーマは『もののけ姫』の「生きろ」に対して「慰め」であった(その当時の「癒し」ブームへの反発もあったのだろう)。そしてそれから14年、『かぐや姫の物語』は我々の眼前に現れた。夏に公開された『風立ちぬ』のテーマが「生きねば」に対して、この物語にはテーマがなかった。ただ地にあるものを体全体で受け止めれば、自ずと生きる理由になるということを伝えるため、高畑監督はただひたすらに美しい地上と、それを真正面から享受するかぐや姫と子供たちを描いたのである。これは作品の根底に流れる思想の違いとも言える。宮崎監督が自分の内面へ意識を集中させ(恐らく)最後の作品を手がけた一方で、彼は外部に意識を開放し(多分)最後の作品を作り上げたのだ。なんというか、いい加減還暦などとうに過ぎているというのに、心枯れずにここまで激しいライバル関係を続けていること自体に恐れ入る。しかし、この二つの作品に優劣を付けることは簡単にできることではないだろう。両作品には「生きる」美意識における方向性の違いがあるのであって、これはあくまで観客の好みの問題にもなってくるからだ(興行収入に関してはゴニョゴニョ)。だがただ一点、声優起用に関しては断然にこちらに軍配があったのではと思う。この作品で用いられたのは、あらかじめ俳優に演技をしてもらいその後に絵をつける「プレスコ」という、海外では割と多用されているものらしいのだが、この手法で作られた本作はとにかく絵に生命力が溢れていた。聞き覚えのある声のはずの地井武男の声はちい散歩してるそれではなく、間違いなくスクリーンの翁の五臓六腑から発せられた声であり、そして気持ちの悪かった帝(顎)はパンフレットの中村七之助の写真を見るなり二重に説得力を帯びた。もし『風立ちぬ』がこの手法で製作されたならば声優に対する批判の一切はなかったのではないだろうか(あの声の堀越二郎なら、容姿は猫背で動きももっさりしてて若干目が鯖みたくなってるはず)。
また高畑監督の本作へのこだわりとして、声優と同時に音楽の存在も見逃してはならない。本作の音楽は挿入歌や主題歌というくくりには収まりきれない、まさに作品の必須要素として歌が存在し、高畑監督が作詞作曲した劇中歌の「わらべ唄」はこの歌なくしては作品が成立しない、というよりも、見ようによっては映画自体が歌の壮大なPVですらあるのではないかという趣すらあるのである。かぐや姫は歌によって四季を愛で歌によって成長していくのだが、その時々の風景によってそれが懐かしい童心をくすぐるものであったり、過去の悲しい思い出を喚起するものであったりと、同じものでありながらその歌は常に表情を変え続けるのだ。その歌の存在価値が最高潮に達するのが物語の最後、月の民がかぐや姫を連れ去ろうとするシーン、月の民が奏でる機械の打ち込みのような胡散臭い音楽を、女童(めのわらわ)が声だけで奏でるわらべ唄で迎え撃たんとする時だ。女童が歌うのはわずかたった数秒の唄だが、地上の美しさと穢に苦しむかぐや姫をそばで見続けた彼女がその唄を歌うその瞬間に、二時間の物語が圧縮されて観る者にフラッシュバックされるのである。具体的な風景は何も出てこない、ただかぐや姫が地上の世界で何を感じ続けていたか、それが荒波として押し寄せてくる、静かだが激しいクライマックスは是非とも劇場で観覧してほしい。
日本最古の物語をもののあわれの美徳を失わず現代の鑑賞に耐えうる作品として完成させた高畑勲、宮崎駿とは違う形で(きっと)最後の花道を飾るに相応しい作品を残したのではないだろうか。
1人で大泣き…
全302件中、201~220件目を表示