長屋平屋の並び立つ下町を逃れて戦後の中流階級が一挙に流れ込んだモダンな生活空間、それが公団住宅もとい団地だ。しかしそれがどこか決定的な歪みを抱えていることを、川島雄三は高度経済成長期の時点で既に看破していた。
彼の代表作『しとやかな獣』では、豪勢な団地の一室に暮らす一家の、実のところ狡猾で図太く意地汚い生き様がありありと語られる。その外面と内面の落差が手厳しくも滑稽なブラックコメディを醸出する。無論そこには小津安二郎や木下惠介のような、いわゆる「松竹調ヒューマニズム」のようなものは微塵も感じられない。団地において人々は部屋番号ごとに明確に区切られ、生活はブラックボックスと化している。ゆえに本作のような奇形的家族が形作られる。
時は下って80年代。森田芳光『家族ゲーム』もまた団地を舞台にしたシニカル家族劇であり、『しとやかな獣』同様、本作に登場する家族も大きな歪みを抱えている。しかし『しとやかな獣』の一家が外界と内界を隔ててはいるものの内界(つまり家族)との関わりにおいては概して円満で協働的であった一方、『家族ゲーム』の一家はもはや外界とも内界ともコミュニケーション不全を起こしてしまっている。彼らが横一列に並んで黙々と食事を摂るラストシーンを記憶している方は多いだろう。
そして最後は中田秀夫『仄暗い水の底から』。ここではもはや団地は恐怖と怨念の磁場でしかない。貯水タンクに落下し、誰にも気づかれず腐って溶けて死んでいった子供の霊が薄暗く冷たい団地の廊下を恨めしげに這い回る。かつてあれだけ高度経済成長の象徴として大衆の憧憬を集めた団地は、今や老朽化の一途を辿り、近所の子供や暇な大学生が格好の「心霊スポット」として消費する以外にはほとんど誰も関心を寄せない。私事だが配達のバイトで板橋の高島平団地に行ったときはすべての階に自殺防止用の柵が張り巡らされていて本当に怖かったな…
さて、団地の凋落と先に挙げた作品の推移から浮かび上がるのは団地というトポスの根本的な孤独性だ。そもそも団地とは、以前の文脈をブルドーザーとコンクリートで無理やり地ならししたところへ津々浦々から集まった互いに無関係な人々が暮らしている場所だ。そこには「土地の縁」もなければ「ご近所付き合い」もない。そうした不干渉性がクールな西洋モダン文化として称揚されていた節もおそらくあったように思う。
しかしこの不干渉性の力学は、家族とそうでない人々を区別するに飽き足らず、やがて個々人の内部へと浸食を深めていく。家族でありながらも互いにほとんど関わりを持とうとしない『家族ゲーム』の一家がその好例だ。
自由と富を勝ち取ろうと団地に移住したはいいものの、人々は少しずつ人間関係の希薄さに悩まされるようになる。それでも団地が絶対的な富の象徴として機能していた頃はまだよかった。しかしバブル崩壊以降、団地は富の象徴どころか日本経済の停滞を証立てる負の遺産と化しつつある。かつての威光も今や絢爛豪華なタワーマンションに完全に取って代わられてしまった。
こうして団地は内外ともに孤立を深めてゆき、恐怖や怨念と密接に結びつくようになった。思えば『仄暗い水の底から』の時点で、中田秀夫は団地が根本的に孤独な場所であることに気がついていたのかもしれない。
さて本作『クロユリ団地』は、中田秀夫が『仄暗い水の底から』からちょうど10年の節目に制作したホラー映画だが、タイトルの通り、本作の舞台は郊外の寂れた団地だ。ロケ地は調布の仙川団地だそう。
本作のテーマは孤独だ。親と弟を失った少女、孤独死を遂げた独居老人、かくれんぼで誰にも見つけられず焼却炉で燃やされてしまった子供。それぞれの理由で独りぼっちになってしまった人々は、引き寄せられるように寂れた団地に集う。しかし寂しさは互いを慰撫するどころかより激しい憎悪となって炸裂する。ちなみに黒百合の花言葉は「呪い」「復讐」そして「愛」だという。
相変わらず前田敦子の演技には素晴らしいものがあると思った。感情が爆発する寸前の、乱高下するような声音を維持するのが本当にうまい。長回しに耐えられる演者だ。黒沢清や山下敦弘が魅入ってしまうのも宜なるかなと思った。
閑話休題。
結局何一つ解決しない投げやりなオチは、あたかも高度経済成長期の日本が描き出した未来地図の終着地点であるかのようだ。もはや出口はどこにもないのだ。我々は陰気で不気味で物悲しげな団地の廊下を、これこそが栄華の象徴なのだと思い込みながら亡霊のようにいつまでも寂しく彷徨うほかない。