オルフェ(1950)
劇場公開日:2022年12月30日
解説
フランスの芸術家ジャン・コクトーが監督・脚本を手がけ、ギリシャ神話のオルフェウス伝説をもとに、舞台を1950年代のパリに移して映画化。
詩人のオルフェが通うカフェに、王女と呼ばれる女性が現れる。王女はバイクにはねられた詩人セジェストの死体を自分の車に運ぶようオルフェに指示。そのままオルフェも車に同乗して王女の屋敷にたどり着くが、王女はセジェストを生き返らせると鏡の中へ消えてしまう。それ以来、オルフェは王女の美しさにすっかり心を奪われてしまい……。
コクトーの公私にわたるパートナーであったジャン・マレーが主演を務め、「天井棧敷の人々」のマリア・カザレスが死の王女を圧倒的な存在感で演じた。後に「ローマの休日」などを手がける映画音楽の巨匠ジョルジュ・オーリックが音楽を担当。1950年・第11回ベネチア国際映画祭で国際批評家賞を受賞した。
1950年製作/95分/G/フランス
原題:Orphee
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
日本初公開:1951年4月17日
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2023年1月8日
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鑑賞方法:映画館
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人生初コクトーである。
本業は詩人といっても、長短合わせて10本も映画を撮っているのだから、もはや立派な職業監督といっていいだろう。そのうちまとめて観ておきたいと思っていたから、今回の特集上映は願ったり叶ったりだ(コクトー3本+ブレッソンの未見作)。
ちょうど、シネマヴェーラで「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」をやっているのもありがたい。時期的にはコクトーの活躍期ときれいに被るからだ。たとえば、今日の午前中にシネマヴェーラで観た『高原の情熱』(ジャン・グレミヨン監督、1948)のプロデューサーは、コクトーが脚本を書いた『悲恋』(現代版トリスタンとイゾルデ)や、今回上映される『美女と野獣』のプロデューサーでもある。
さらに、『オルフェ』の題材が「黄泉がえり」ーー「地獄めぐり」の基本形であることも、僕の興味を強く惹きつける要素のひとつだ。
「地獄めぐり」は、僕が西洋の映画を鑑賞するうえで、常に強く意識しているある種のクリシェである。直截的にはダンテの『神曲』に由来する要素だが、この「地獄で現世の業を追体験することで浄化・再生される」という図式は、『時計じかけのオレンジ』『ジェイコブズ・ラダー』から今年観た『マッドゴッド』や『MEN』に至るまで、さまざまなジャンルの映画で援用されつづけてきた。
オルフェの冥界下りというのは、まさにこれらの本家本元といってもいい。
やはり、注目せずにはいられない。
(考えてみると、「古典」のメルクマールをポイントを抑えて映画化してゆくコクトーのやり方は、パゾリーニとも近い気がする。)
初見の印象としては、画面構成の美しさ、堅固さは、他の職業監督に決して負けていない。
なにより、思い切った特撮の使用が、メリエス的でじつに面白い。
トリック撮影への愛着と衒いのない信頼が、なんだかまぶしいくらいだ。
むしろ、特撮こそが映画の核心である、と考えている節すらある。
特撮の方法も、「先にアイディアありき」のような、「どう撮ったかを画面から推理させる」ような、稚気にあふれたものばかりで、コクトーがわくわくしながらこの「仕掛け」を楽しんでいるのが伝わってくる。
とくに、死後の世界に行ったあとの不思議空間(うまく前に進めない描写)として出てくる、「壁が床になっている」場面。あれはドリフのコントかビックリハウスみたいで、実によかった!
それから、随所で用いられる「逆回し」。死体がゾンビみたいに甦るショットとか、手袋をはめるショット(繰り返しネタの「先に出てくるほう」が明らかな逆回し、というのも気が利いている)とか、鏡が割れるショットとか、死後の世界を進んでいくショットとか。
あと、鏡を通り抜けるショットも、何かの粘性の高い液体に手を突っ込むのを横倒しに撮っていて、おおお、そう撮るのか、と。
そのほか、合成ショットとか、ポジネガ反転とか、とにかく枚挙にいとまがない。
観ている客が、ちゃんとトリック撮影だと「気づく」ように(よく考えればどう撮ったかも推察できるように)撮っている点にも注目したい。ここで彼がやっているのは、良く出来たマジックか推理小説のような、映像ギミックを用いた、観客との知恵比べなのだ。
要するに、コクトーはこれだけ小難しい映画を撮りながらも、その根本の部分では「遊んでいる」。
この「よく考えられた子供の悪戯」のような稚気こそが、コクトーの本質のような気もする。
あと、月並みな印象で恐縮だが、ジャン・マレーが頗るつきに良い男だ(確かにハンサムではあるんだけど、ちょっと声がピーター・フォークみたいなキンキン声なのは予想とちがったかも)。
というか、出てくる登場人物が男女・端役も含めて、みんな美形で驚く。
主人公の言動が(鏡の要素も含めて)妙にナルシスティックで、男性キャラどうし(とくにオルフェと冥界運転手)のやりとりの距離感がやたら「近い」あたり、同性愛者ならではの感性が行き渡っているといえるのかも。
女権なんたら協会の長として出てくる女性も、明らかにオルフェの妻に同性愛的な感情を抱いているようだし。
ただ全体の流れとしては、あまり物語の見通しがよくない(わざとかもしれないが)。
唐突に話が切り替わるところや、盛り上がると思ったらさらっと流してしまうシーンが多く、序破急の組み立てやクライマックスの作り方において、あまりうまい監督とは思えなかった。
(このへん、やはり本質が「詩人」だからなのだろうか? そういえば、かつては寺山修司の映画にも似たような印象をもった記憶がある。)
内容的には、かなりぶっとんでいるといっていい。
とにかく、ころころと映画のジャンル感とリズムが切り替わっていく。
出だしの、若者たちが集うカフェでのネオ・リアリズモっぽい活気。
急転直下発生する暴動での、活劇調のアクション(ウェスタンにおける酒場での殴り合いシーンに近いノリ)と、唐突なひき逃げの発生。
搬送の付き添い強要からの、これまた唐突なお屋敷ホラーじみた展開。
先述した、「死のプリンセス」が轢死した若き詩人をベッドでぴょこたんと蘇らせる「ゾンビ」めいた逆回しショットには、思わず笑ってしまった(なにかのパロディか?)。
屋敷から戻ってくると、今度は身重の夫人との家庭劇に変ずるが、
そこに冥界運転手が絡んできて(ぱっと消えたり出たりするのが奇妙すぎる)、不思議な三角関係のドラマが展開する。このへんはちょっとメロドラマ調だ。
通例、子供ができたときいたら、善良な亭主なら大喜びするところだが、オルフェはいかにもどうでもよさげな振る舞いで、屋敷で出逢った「自らの死」であるプリンセスのことばかり考えている。
さらには、車中に流れて来るラジオに「詩の暗号」が隠されていることに気づいた彼は、奥さんそっちのけで車にこもりはじめ、取り憑かれたように「暗号」をメモるようになる。
しかし、それが死んだ詩人の「盗作」として世間の物議を醸し、彼は怒り狂った連中から狙われるはめに……。
展開があまりに「いびつ」でひっかかるのだが、「なぜそんな変な話になっているのか」には何らかの明快な理由があることが伝わってくるような物語。
その意味では、60年代後半にベルイマンやパゾリーニややっていたことを「先取り」するような映画なのだが、肝心の「何」が作品をゆがませているのかが僕にはわからず、帰りにパンフを買っても、コクトーは「この作品は、詩人と、霊感と、不死と、鏡の四つが基本的主題」みたいな判じ物のような言葉しか与えてくれなかった。
こうやっていざ感想を書こうとして、先達のみなさんのレビューを読んで、「若いラディゲを喪ったり、盗作がらみで世間に叩かれた自らの体験が随所に反映されている」「冥界からのラジオ通信やバイクに乗った死神は戦時中のレジスタンスの暗喩で、彼らが冥界本部からの命令に背いて二人を生の世界に戻すのは、レジスタンスが共産党本部の指令に歯向かったことの現われ」という解釈にふれ、眼から鱗が落ちるような感覚を味わった次第。うーん、なるほどなあ。
たしかに、「自身の詩人としての体験をなぞって主人公に投影させている」点と、「戦争体験のトラウマが、死後の世界になぞらえて表出されている」点を考慮すると、いろいろな「観ていてわけのわからなかった」部分に、はじめてすっきり得心が行ったという感じだ。
とはいえ、一本の映画として共感度が高いかといわれると、あまりにオルフェのキャラが自己中すぎて、イマイチのめりこめなかったのもたしか。ふつうに奥さんが可哀想というのが、どうしても観ていて先に立ってしまう。
身重の奥さんを邪険に扱って浮気心募らせたりしてたら、きょうびの芸能人とかめっちゃ叩かれてるよ(笑)。詩人云々はさておき、人としてアンタどうなの?って思っちゃう。
しかも、この話は「冥界に死んだ奥さんを取り返しに行く」話なのに、常時この男は奥さんに対して気もそぞろな応対ぶりで、だいたい別のこと(死のプリンセスと冥界通信)ばかり考えているし、いざ奥さんを取り返しに行くのも、冥界運転手に強く薦められたから、というふうにしか僕には見えない。
さんざん勝手に家を抜け出して奥さんをボッチにしたあげく、そのせいで一人で出かけようとした奥さん死なせといて、最初は運転手の言葉を信じないわ、マジで死んだとわかったらすぐ泣き崩れるわ、おいおい、なんだこいつ? ずいぶんだな、というのが率直な印象である。
で、冥界に行ったら行ったで、あろうことか、奥さんのことそっちのけで、死のプリンセスと悲恋ものめいたやりとりを展開している!! えええ? あんた奥さん迎えにいったんじゃないんだ???
通例、こういう物語って「強い愛がないと亡き妻を蘇らせることはできない」って構造をとるのがふつうだと思うのだが、徹頭徹尾この主人公は奥さんをないがしろしているし、自らの内的な「死への傾斜」と「詩人としての使命」を優先している。しょうじき、こんなやつに奥さんを取り戻す権利なんかない、と僕の道徳観は告げている。
しかも、実際にどうなるかというと、オルフェそっちのけで「冥界側が」奥さんを取り戻させる算段を勝手につけて、おぜん立てしてくれて、手取り足取りやり方まで教えてくれるのだ。さらには、冥界から戻ってきたオルフェは、禁忌とされた「奥さんをその目で見てはいけない」というルールをいかにも無防備に、さくっと破ってしまう。で、ふたたび冥界送りになった二人を、今度はプリンセスと運転手サイドが多大なる自己犠牲を払ってまで、再びこの世に送り返してあげるのだ。「オルフェの死が、オルフェを愛してしまったから」。
ええええ、なんて虫のいい話。ただのハンサム無双じゃねーか(笑)。
結局、コクトー自身が同性愛者なので、夫婦愛というものにはそもそも無頓着というか、冷淡というか、無関心なのかもしれない。
実際、冥界運転手とオルフェのやけにインティメットな関係性は、バディもの風にじつに繊細に描かれている。
でも、それだったら、あの丸く収まったみたいな終わり方でほんとうにいいのか?という話だ。時間巻き戻しエンドで、夫婦は何事もなかったかのように仲良く過ごしました……って、なんだそのヘイズコードにひっかかって作り直したみたいなハッピーエンド?
このあたりがどうしても腑に落ちないので、星評価にもそのへんが反映されている。
まあ、それも僕の夫婦観の勝手な押し付けに過ぎないんですけどね。
逆にいうと、男性の情動に関しては生々しい「人間」としてリアルに描けても、女性に関しては「どんなロクデナシの旦那でも常に許してくれる包容力のある存在」(妻)、「世の中の理を捻じ曲げてまで愛する男を救ってくれる崇高な存在」(プリンセス)として「神聖視」しているぶん、こういう「片務的」な物語構造になってしまうのかもしれない。
こういう「女性の自己犠牲」に全幅の信頼を寄せる在り方って、ちょっとワーグナーっぽいかも。
でも、やっぱりそれって、甘えだよなあ。
最後に音楽について。ジョルジュ・オーリックはもともとフランス六人組の一人で、オネゲルやミヨー、プーランクたちと活動していただけあって、実に洒脱でモダンな楽曲を書く。今回の曲も、一聴して「なんかミヨーっぽいな」という印象が強かった。
ただ、随所にグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』の旋律が用いられていたのは見逃せない。もしかすると、他の『オルフェ』関連の劇音楽からの引用もあるのかもしれない。
そういえば、来る3月に、フランス人カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーが来日して、「オルフェーオの物語」と銘打つコンサートを開催する。オルフェウス神話を描いた17世紀のイタリア・オペラのうち、モンテヴェルディ、ロッシ、サルトーリオの三作から名場面を披露するという「天才か?」みたいなプログラムだ。あまりバロック・オペラは聴かないので行かないつもりだったが、がぜん興味がわいてきた。
そういえば、ジャルスキーもカミングアウトした同性愛者。もしかすると、今回の企画、コクトーが霊感源やもしれぬ。
2021年1月24日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD
実に70年前の映画なのだが、未だ健在?の鏡を出入り口とするあの世とこの世を出入りする物語。殺し屋は何故かオートバイでやって来るのが新鮮。そして、身重の妻がありながら、冷たい美貌の死神に抱く詩人の恋心。でも死神様は、自ら犠牲となり、詩人夫妻を元の鞘に戻す。
フランス文学の様に、単純でない複雑な男と女の感情が織りなす模様に、言わばSF的に死後の世界をも描いていて妖しい魅力を放っていた。鏡の中に、水に浸かる様に入り込む描写は出色。最後に、カミュの愛人だったというマリアカザレスの静かな情熱的な美貌が余韻として残った。
2020年1月20日
Androidアプリから投稿
コクトーは ドイツ占領下のパリと 自分の身に起きたことを、オルフェウス伝説に絡め 映画にしたようだ
死神、黒い高級車、冥界での査問委員会はナチスを連想させ (でも 車はロールスロイスなのだ! )
使い魔の様なバイク乗りは 暗殺者、親衛隊のイメージだろうか
冒頭で死んでしまう新進気鋭の詩人セジェストは
夭折の天才レイモン・ラディゲに、
死神に誘惑されてしまう詩人オルフェは
ラディゲ亡き後、衝撃のあまり阿片中毒になってしまった コクトーに重なる
詩人カフェでの疎外感、つけ狙う新聞記者、彼を告発する知人、押し寄せるファン、オルフェを殺してしまう文学青年達に コクトーの苦悩が見られる
そんな中、映像表現では 様々な工夫がされている
鏡が大きな役割を果たすが〈 鏡 × ジャン・マレー 〉の取り合わせに うっとり…
また それはマレーの美貌への自己陶酔に見えるが、詩人コクトーのおのれの才能への陶酔ではないだろうか
最後のオルフェと妻の抱擁は
死の誘惑から逃れたコクトーとマレーの喜びだろうし〈パリ開放の歓喜〉にも重なる
死神(カザレス)の涙は オルフェだけでなく、パリを手放す(ドイツの)悲しみも意味するのだろうか
色々なことが重なり マレーを手放さざるおえなくなっていったコクトーの悲しみでもあるのか
いずれにせよ、コクトーとマレーの運命的な結びつきを感じさせる作品だった
2018年10月11日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
死神の王女役のマリア・カザレス!
彼女の美しさだけで観る値打ちがある
小柄であり得ない程に細く華奢、知的な面立ち
白い肌に黒い長い髪、切れ長の大きな瞳
正にこの世のものではない美しさを体現している
彼女はフランス共産党の理想を象徴している存在だ
だから限りなく美しく描かれている
物語りはギリシャ神話をそのまま現代に翻案したもの
鏡を通り抜けて向こう側の死の世界に行き来するシーンは単純な特撮ながら効果的なイメージを提供して、戦後まもなくとは思えない
地獄の査問委員会、王女、ラジオから流れる詩文による暗号文、乱数、モールス信号
これらはおそらく戦時中の地下抵抗組織の記憶によるものだろう
正確にいうならば、フランス共産党の地下組織だ
ソ連からの指令に基づき表の世界の抑圧者を排除せよだ
詩人などのフランス知識階級は派閥争いをしながらも、そこに参画しようとする
しかしその実態は、結局のところソ連の思惑で動く存在なのだと知る
フランス人とフランス国家の為ではない
共産党に従うのなら、その現実を決して見てはならないのだ
見たら愛国心は死んでしまうのだ
ソ連からの指令に依らない行動は査問委員会に掛けられてしまうのだ
戦後、フランス共産党は公然化して一大勢力を誇ることになったが、その実態は鏡の向こう側の指令で動いていたのだ
だから、王女は査問委員会に歯向かい主人公たるフランス知識人の味方たろうとする
しかしそれは露見し逮捕されていくのだ
そして主人公は王女を忘れ、彼の妻すなわちフランス国家への愛国心を取り戻して終わるのだ
つまり本作はフランス共産党の実態を示し、批判する映画なのだ
ソ連もとうに崩壊し、共産主義への理想も幻想ももはや超絶的な美貌の王女なのではなく、ボロクズを纏ったミイラになり果てている
そんな21世紀に本作を観る我々には、そんな寓意はもはや読み取る事は難しい
ただのファンタジー映画としかもはや見えないのかも知れない
当時のヨーロッパの知識人はこの寓意をキチンと読み取り、栄誉あるヴェニス映画祭監督賞与えたのだが、果たして日本ではどうなのか?
本作のテーマは今日もなお日本のメディアの人々こそ観るべきテーマなのだが、果たしてこれを読み取れ、そのメッセージを正しく受け取れるのだろうか?
暗澹たる気持ちが広がるのみだ