エリジウム : 映画評論・批評
2013年9月17日更新
2013年9月20日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー
掃き溜めの描写が映画の芯。混沌と混沌の対決に注目したい
だれが行くか、こんな楽園。
映画を見はじめて間もなく、私は思った。「エリジウム」に出てくる天空の楽園は、なんとも薄っぺらだ。緑の芝生に人造湖に白人の赤ん坊だなんて、南カリフォルニアの郊外にごろごろ転がっている風景ではないか。
それにひきかえ、ニール・ブロムカンプはカオスや掃き溜めに鼻が利く。「第9地区」のスラムはその最たるものだったが、今回用意された「2154年のロサンゼルス」も負けていない。そこでうごめく住民の顔や、耳に飛び込んでくる言語が多様で面白いし、終日立ち込めているのではないかと思わせる煙や悪臭の気配が、街の汚れや濁りの濃度を高める。
この掃き溜めをしっかり描けたので、「エリジウム」には芯が通った。格差社会の矛盾を批判するお説教などもう聞き飽きたが、主役も脇役も悪役も、よく見ると下層階級のはぐれ者なのだ。他方、楽園に君臨する権力者や官僚は、不自然なほど存在感が乏しい。
そうか、監督のブロムカンプは、「富裕層の楽園対貧困層の地獄」というありがちな構図を借りながら、実は「混沌対混沌」の最終形態に観客を誘導しようとしていたのか。
証拠をいくつか挙げよう。本来は奸智と陰謀の象徴になるはずだった防衛長官(ジョディ・フォスター)の脆さはなにを意味するのか。地球で暗躍する闇商人の輪郭があれほど濃厚なのはなぜか。さらに、元強盗の労働者(マット・デイモン)と「地球駐在」の秘密工作員(シャルト・コプリー)の廃墟での決闘があれほど執拗に描かれたのはなぜか。
もしかすると、ブロムカンプは偽装を強いられたのかもしれない。「わかりやすいSFを」という製作側の要求は、彼の予想以上に強かったのだろうか。ならば、つぎは偽装の殻など最初から脱ぎ捨ててほしい。ガッツとユーモアのある若者の顔を、臆せず外気にさらしてほしい。ブロムカンプという貴重な才能は、まだまだ売り切れていないはずだ。
(芝山幹郎)