ライク・サムワン・イン・ラブ

劇場公開日:

ライク・サムワン・イン・ラブ

解説

イランの巨匠アッバス・キアロスタミが日本を舞台に描いたドラマで、デートクラブでアルバイトをする女子大生・明子と、そこで出会った老教授タカシ、明子の恋人ノリアキの3人をめぐる物語。80歳を超え現役を退いた元大学教授のタカシは、亡き妻に似た若い女性・明子をデートクラブを通して家に招く。しかし明子は、自分に会うために田舎から出てきた祖母を駅に置き去りにしてきてしまったことが気にかかり、タカシが用意した食事にも手がつけられない。翌朝、明子が通う大学まで車で送ったタカシの前に、明子の婚約者ノリアキが現れる。ノリアキがタカシを明子の祖父だと勘違いしたことから、次第に運命の歯車が狂い始めて……。タカシ役に84歳にして映画初主演となる奥野匡、明子役に「侍戦隊シンケンジャー」の若手・高梨臨。ノリアキ役を加瀬亮が演じる。

2012年製作/109分/日本・フランス合作
原題または英題:Like Someone in Love
配給:ユーロスペース
劇場公開日:2012年9月15日

スタッフ・キャスト

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受賞歴

第65回 カンヌ国際映画祭(2012年)

出品

コンペティション部門
出品作品 アッバス・キアロスタミ
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映画レビュー

4.0時空を越える老若男女の恋模様

2012年12月2日
フィーチャーフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

興奮

知的

いきなりのラストに、しばし茫然。「シャンドライの恋」の幕切れをふと思い出した。しかし、エンドロールにかぶってきたのは甘い音楽。思わず顔がほころんだ。これはやはり、犬や蓼が顔を出しそうなたぐいの物語なのだろう。そしてもしかすると、まどろむ若い女と、夢見がちな老人が垣間見た幻が重なり呼応した、一瞬の夢かもしれない。リアルに見える渇いた映像、淡々とした語り口に、観る者も惑わされ、不可思議な世界に迷い込む。
メインの三人はもちろん、この作品に登場する人々は揃いも揃って不穏さをまとっている。大学生アキコに訳知り顔に説教する男(でんでん)はデートクラブの元締めだし、元大学教授タカシの隣人女性のねばっこさは、声だけでも鳥肌もの。アキコを乗せるタクシー運転手やたまたま出会うタカシの教え子さえ、「何かある」気配を漂わせ、観る者の心をざわめかせる。(…そもそも、「何もない」人などおらず、それぞれに事情を抱えていて当然なのだが、私たちは時に自分だけが特別に思え、周りが見えなくなる。)そして、それぞれに後ろめたさを抱えるメインの三人。言葉や行動で相手を威圧し、自衛するノリアキ、自分からは決して動かず、のらりくらりと浮遊するアキコ、そんな二人にかかわり小さな嘘をついたことで、抜き差しならない状況に陥っていくタカシ。もつれた糸は、絡まっていくばかりだ。
いいトシした大人の男女が妄想・暴走する前作「トスカーナの贋作」には少々引いてしまったが、今回は、「若さ(老い)ゆえ」と多少の逸脱が許容されそうな若者と老人が主人公、という点がいい。身勝手なはみだしっぷりも、かつての記憶をくすぐられ、ある意味壮快。呆れつつもいつしか引き込まれ、彼らの行く末をあれこれと夢想してしまった。彼らのうち、誰に嫌悪し、いらつき、はらはらし、(多少なりとも)共感するか。そんなところから、観る者の本性さえ暴かれそうだ。
冒頭の繰り返しになるが、アキコやタカシのまどろみは、物語を夢と現実の世界へ融通無碍に行き来させる。さらにこの物語は、時間や場所さえも軽々と越える。はじめのうちこそ、深夜まで街頭で孫娘を待とうとする祖母の時間感覚に驚いたが(私の周りの年長者は、日暮れを合図に帰宅し、9時10時には就寝している。)、「待ち合わせの駅の銅像」として渋谷のハチ公ならぬ家康公(静岡駅?)が現れるという肩透かしに絶句。時間や場所にこだわらず、映画の世界に浸り愉しめばよいと悟った。看板や標識など細かな文字情報からロケ地の見当がついてしまう日本人ゆえかもしれないが、渋谷、静岡、横浜、青山…と瞬間移動を繰り返しつつ物語がなだらかに進む点が、地に足のついていない彼らを象徴するようで面白い。
観たあと、あれこれ考え、はっとし、ニヤリとさせられる。久しぶりに、映画らしい映画を観た。

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cma

4.5まどろみと夢うつつ

2024年8月30日
Androidアプリから投稿

夢と現実の区別がつかないような演出で、窓の内側と外側が映画的な表現で綴られる。

オープニングのバーの会話、タクシーの車窓から見る靖国通りのネオン、ロータリーにはなぜかふるさとの静岡駅前の銅像、その前に座る祖母。終始自分で何もしないアキコ。全て不気味。

まどろみながら着いたのは横浜の大学教授の家。奥さんの話とか絵の話を聞いて、また眠る。翌日学校まで送ってもらう。

学校の前でタカシはノリアキを車に乗せる。
ノリアキにウソがバレそうでヒヤヒヤするアキコ。知性豊かなタカシはケ・セラ・セラと言うけれど、経験の浅い若者のエネルギーを言葉でなんとかできるわけがない。

工場に入庫したタカシの昔の教え子がこれまた不気味。タカシの家を知っていると示唆。

六本木と横浜がやけに近い。夢の中ってこんな感覚かなと思っていたら、突然、運転するタカシに睡魔が襲う。信号待ちでウトウトしていると後ろの車のクラクションで目覚める。〝この夢はもうすぐ終わりますよ〟の合図だと思った。

隣の老女の小窓が内側と外側をつなぐように、内界と外界を隔てていたタカシの窓は破られ、強制的に夢が終了した。

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Raspberry

4.5巨匠が見た日本〜アッバス・キアロスタミ編〜

2022年5月22日
iPhoneアプリから投稿

祖母からの留守電を東京のギラついた夜景とオーバーラップさせるというやけに地に足のついたエモーショナル描写から始まったかと思えば、最後は夢とも現実ともつかない唐突な暴力で幕を閉じる、といういかにもアッバス・キアロスタミらしい意地の悪い映画だった。『桜桃の味』や『柳と風』を見終わったときと同様の「やられた」感。

思えば東京の繁華街を出発したタクシーが静岡の家康像前に辿り着くというのも地理的におかしい。彼自身、それをわかってやっている。こうしたフィクションのフィクション性に対する過剰なまでの自覚意識も彼らしい。

老人宅に飾られた矢崎千代二『教鵡』は、タカシの亡き妻と明子を超時代的に接続するためのハブとしての役割を果たしていた一方、キアロスタミ本人の思想というかアティテュードを表象してもいたように思う。

矢崎千代二は油絵という舶来的技法を内面化したうえで日本画を描いた。これは小津安二郎を呼吸しながらイラン映画を撮り続けたキアロスタミに通ずるところがある。『教鵡』には「私は日本で映画を撮ったけれども、それは邦画を撮ったということではない」というあまりに謙虚な彼のエクスキューズが織り込まれていたのかもしれない。

思えば本作はいつにも増して小津映画っぽい。撮影技法は言わずもがな。明子に留守電を入れまくる祖母や聞かれてもいない昔話をダラダラと語り続けるタカシの隣人なんかも小津映画に出てくるお節介なご近所さんそのものだ。しかし特にタカシの隣人がそうだったように、彼らの語りにはどこか違和感がある。より正確に言えば現代日本の空気感とミスマッチを起こしている。今時こんなベラベラ喋る奴いないだろ、という。

しかし上述の通り、小津映画にもこういう奴はいっぱい出てくる。ごまんと出てくる。にもかかわらずそちらに違和感はない。したがって両者のこの差異は、日本社会の日常を支える基盤のようなものがドラスティックに変化してしまったことを示しているといえる。小津的なコミュニケーションのあり方の消失。明子はそんなポスト小津的な人間の在り方の代弁者だ。他者を完全に拒絶するわけではないが、心のどこかに一線を引いて、その内側で身構えている感じ。

巨匠ヴィム・ヴェンダースが『東京画』で自分が探し求めていた「日本」が80年代の日本のどこにも存在していないことに気がついたように、キアロスタミ監督も実際の日本に触れることで彼と同様の感を得たのではないか。その気づきが明子という登場人物の人物像に流し込まれているのだ。小津的なものと非・小津的なものの奇妙な邂逅、そしてすれ違い。そういったものが異邦人という外部的視点からニュートラルに記述されている。これはもう「批評」と呼んで差し支えない。それでいて物語的な面白さはきちんと内蔵しているのだからすごい。

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因果

4.0独居老人の社会への関与の仕方

2021年5月9日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

出だしの意味がわからにのは、キアロスタミ監督のよく使う技法なので、黙って観察していたと言ったほうがいい。そのご、一人の女が男の曇った眼鏡をとって拭き出した。ええ? これなんだと思って見ていたが、期待している方向に話が進んでいってないなあとも思っていた。それに明子の優柔不断な態度に疲れてたとおもっていたら、ええ?タクシーに?タクシーに乗っておばあさんの電話を聞き始めたから、なぜ、会ってあげないのだろう?理解ができないうちに、あれ!お婆さんは孫、あきこが男を相手の仕事をしているのを心配しているのかなあとも思えた。高齢の男の部屋にあきこが入ったが、明らかにあきこは高齢の男を全くしらないという様子だった。会話は『読んだ本を捨てないの』とか『自分が奥さんに似ているとか』黒田清輝風の油絵の女性の前に立ち髪をあげ、女性の真似を初めてあった高齢の男の前ですることに不思議に思っていたが、徐々に何かが進行すると思って出番を待っている状態だった。それから、あきこが服を脱ぎ始めてそれを投げ出した。。あれ!!これはデリヘル? これが里のおばあさんにも会えない理由?全くわからなくなったけど、ここで視点をこの老人に変えようと思った。そうしたら他のものが見えてくると思って。高齢者に目を移すことでちょっと見えてきたものがある。

この高齢者は、若い女性の身体に興味があり、セックスの相手をさせたいのではなく、妻を失い余生があまりにもつまらなく人間的な交流ができなくなり、妻に似た彼女を招待したと言う形だが。いやいや、この彼女とフィアンセ、のりあき、である自動車修理人の人間たちの生活におじいさんとして入ったことにより、『頼りにされ』と言おうか、振り回されてと言おうか、生きがいを見つけ出したと言うことになる。

フィアンセ、のりあきはよく、キアロスタミが使うタイプの男で、良さをすぐに発揮するかと??? 二面性があり、アンガーマネージメントがいる人に!

困ったことに、DVDが傷ついていて、20分ぐらいスキップしなければならなく、残念。最後、のりあきが怒鳴り込むシーンから観られたが、よく分からずじまい。

多分、この高齢の男は、この件に関与していくだろう。だから、暇つぶしの独居老人ではなくなるね。これは、この老人にとってもいい刺激になり、あきこにとっても、もっと教養を深め、人間的にも成長していけるだろうと思った。日本政府が声を大にして叫んでいる『共助?』の精神の一つで、世代を超えて、助け合うことが少子化の現在、そして、未来に必要になってくる。あきこの独居老人へのアプローチはデリヘルであったとしても、それに、過去にもデリヘル歴はあったとしても、あきこの将来は明るく、先が見られる。大学に通って、机上の学びについていけなそうだが、社会では人生の相談ができて、人間性を学べる場所を見つけたと思う。こういう人生を見直せる生き方がみんなに必要になってくる。

P.S 日本の役者を使っている映画だから、一人ぐらい顔なじみの俳優がいると思ったが、誰も知らなかった。 主役の高齢者は白土だと聞いた。
キアロスタミ監督はなぜ、日本のデリヘルの存在を知っていたのか?

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Socialjustice