おそらく…ですけれども。
本作の「平和なムーア国」は女性の、「愚かで貪欲な人間の国」は男性の、それぞれの「恋愛観」を典型化・抽象化して象徴しているのでしょうか。
評論子は、そう受け止めました。
(「世上として…」あるいは「多くの場合は…」ということですけれども。おそらくは、女性にとっての「恋愛」「愛情」は、自分の気持ちの中で育むものということでは「自分の内側にあるもの」なのに対して、男性にとっての「恋愛」「愛情」はライバルと争って?―あるいは当該の女性を口説き落として?、いずれにしても外から勝ち取るものということでは「自分の外側にあるもの」というイメージが、一般には受け止められていると、評論子は考えます)
未婚で、まだ子を持たなかったマレフィセント―。
しかし、一見すると身の毛が弥立(よだ)つような不気味なその容姿とは裏腹に、彼女の内側に胚胎していた「愛情(=母性?)」は、決して泡沫(うたかた)のようなものではなく、「母性あふれる女性としてのマレフィセントの人ととなりそのもの」なのだろうとも、評論子は思いました。
心が打ち砕かれてしまうような、不誠実で残酷な「裏切り」に、たとえ直面してしまっていたとしても―。
(実際、マレフィセントを演じ、また製作総指揮にも名を連ねて本作の企画にも関与しているという女優:アンジェリーナ・ジョリーその人も、6人のお子さんをもつ「実際の母親」と、評論子は承知しています)
そのことを見事に活写してみせたという点では、本作も、佳作からは漏れない一本だったとも、評論子は思います。
<映画のことば>
私を見守る気配をいつも感じていたの。
幼いときから「影」が付き添ってくれた。
どこへ行こうと、一緒だったもの。
覚えているわ、鳥さんも。
オーロラ姫にかけられた呪いを解くために必要なのは「真実の愛のキス」―。
この点、すでに前記したとおりマレフィセントにとってのオーロラ姫は、かつては心の底から愛した人の血を半分は引く、言ってみれば彼女にとっての「半分の愛児」。
おそらくは、本作に描かれていたような蝶を追って崖から落ちそうになったオーロラ姫に救いの手を差し伸べたことは、実はほんの一例で、彼女が16歳になるまでには、そういうマレフィセントの思い遣りの例については、おそらくは、枚挙に暇(いとま)がなかったことでしょう。逐一は場面としては描かれていなかったとしても。
そう受け止めると、結果として彼女のキスがオーロラ姫を「永遠の眠り」から目覚めさせたのは、理由のないことではなかったと、評論子は受け止めます。
(即席に調達した「イケメン王子・フィリップ」は、実は役立たずだったということにも、素直に納得)
(追記)
<映画のことば>
許しは乞わないわ。
許されることじゃないの。
私は憎しみと復讐で心が曇っていたのよ。
やっと愛に目覚めたのに、あなたを失うなんて。
再言になりますが、オーロラ姫は、マレフィセントにとっては、いわば「半分の愛児」―。
一時(いっとき)は心の迷いから、憎しみと復讐で心を曇らせて、その「半分の愛児」には呪いをかけてはしまったものの、彼女がオーロラ姫に与えたキスは、紛(まご)うかたなく、うそ偽りのない、赤心からの「真実の愛のキス」だったことに、一点の疑いようもなかったこととも、評論子は思います。
(その時のマレフィセントが流した涙を、評論子は忘れません。本作では、彼女の初めての―そして、唯一の涙)
(追記)
オーロラ姫にとって運命の転機となるべき「16歳」は、マレフィセントとステファンとがお互いの気持ちを確かめ合った年頃であり、「真実の愛のキスだけがその眠りを覚ますことができる」という、いわば解除条件を付したことの背景には、その時は王になっていたステファンから懇願されたこともあったにしても、やはり、マレフィセントにしても、心の底のどこかでは、徹底しては非情になれてはいなかったことの、何よりの「証(あかし)」だったのではないでしょうか。
この点、妄想と復讐心とで「人が変わってしまった」ともされたステファン王とは好一対だったとも、評論子は思います。
(追記)
それにしても、まだ幼かったオーロラ姫を、彼女に乞われて抱いたときのマレフィセントは、どんな気持ちだったことでしょうか。
かつては、心の底から愛したステファンの血を半分は引いている、そのオーロラ姫を。
平生と変わらない能面のようなマレフィセントのその無表情から、その内心を推し量ることは甚(はなは)だ困難ではありますけれども。
しかし、その時の彼女はよく胸が潰れてしまわなかったものだと、評論子は感心にすら思います。
(追記)
おとぎ話としての「眠れる森の美女」では、誕生祝いに招かれなかったことを単に根に持って王女に呪いをかけたというマレフィセント―。
彼女のその「立ち位置」を大胆に翻案して、まったく新たな地平の物語として仕上げた本作は、まさに「知的生産物としての映画」「思索の具としての映画」というものの醍醐味の体現ーそれ以外の何ものでもなかったかとも、評論子は、改めて思いました。
(追記)
本作も、コミュニティFM局の「映画紹介のコーナー」で取り上げられたことから、鑑賞することとした一本でした。
上記の拙レビューは、担当ラジオ・パーソナリティ氏のその解説とは少しく違った「切り口」からのものとなりましたけれども。
それでも、放送での解説は、充分に参考とさせてもいただきました。
今作のご紹介にも、厚くお礼申し上げます。
※メッセージでは、ブラックアウトの時の「牛乳」を話題にしましたけれども。
その実、人生での本当の「悔い」は、やっぱり「妻とちゃんと向き合ってあげられなかった」ことですね。
実際のところ、間違ってウソを答えて事業担当課に怒鳴り込まれても、法務官は「アタマは下げても、パンツは下げない」と腹をくくる度胸がついたのは、実際はそんなに前のことでもなく、当時は、夜中でも書類の誤りが気になると寝付けなくなったり、そのまま始発の地下鉄で職場に出たりとか…。
「駆け出し」法務官に過ぎなかった私には、気持ちにも余裕がなかったということでしょう。
(妻として夫に甘えたいこともあったと思うけど、上記のような心境の私の機嫌も、概して良くはなかったのだろうとも思う)
思い起こせば、その法律を学んだ学校(法学部)だって「おしりが壊れる」まで机に向かって、ようやく人並みに入学できていた。
本当は牛乳なんかどうでもよくて、その実は、当時の妻には申し訳がないことを、今では悔いてもいます。
以上のとおり、謹んで訂正いたします。