華麗なるギャツビーのレビュー・感想・評価
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好きです。
予告や上映時間からあまり気が進まないで鑑賞しました。
が、良い意味で期待を裏切られましたね。笑
確かに上映時間は長いですが、ムダなシーンはありません。
ギャツビーの性格、内に秘めているもの、周囲の人間、愛する人。
この映画ではギャツビーの生涯が描かれていて、全てのシーンでその生涯を知ることになります。
果たしてギャツビーの人生は良いものなのか…
ラストは本当に切ないです。
というか、全体を通してギャツビーはとても切なく悲しい人間ですね。
そんなギャツビーを完璧に演じたレオナルド,ディカプリオに改めて感心しました。
原作や、リメイク前の作品は観ていないのですが、観てみようと思います。
原作を損なわずにバズ・ラーマンらしさを演出
フィッツジェラルドの原作を数回読み返して気に入っていただけに、これがまた映画化されると聞いたときは正直なところ、不安になりました。特にバズ・ラーマン監督は以前に、「ロミオ+ジュリエット」という映画でシェークスピアの原作を現代の南米に舞台をすり替えて、独特な世界を世に送り出したことのある人だけに(映画の賛否は二極化したようです)、今回の作品では原作をどの程度書き換えてくるのか予想ができなかったからです。しかし、蓋を開けてみると原作の骨格はしっかり残して、その上で彼独自の音楽感を散りばめていたので最後まで見入ることができました。
原作を読まれた方ならお気づきの方が多くいらっしゃるとは思いますが、フィッツジェラルドは意識的に色彩を使い分けています。例えば、デイジーに関する描写では「白」が多く使われていて、この「白」はデイジーの無垢さを表しているとされます。また、ギャツビーがデイジー邸の方をぼんやりと眺める際に登場する「緑」の灯はギャツビーの果てしない夢を表現しているとされ、作品上欠かせぬ重要な要素となっているようです(「緑」が何を具体的に意味するのかは諸説あって私にもよく分かりません。一説には合衆国紙幣の「緑」であるとか)。私の場合、このように下手に予備知識があったものでしたから、「もしあの場面であの色が出てこなかったら・・・」という余計な不安に陥ったのもご想像していただけるかと思います。
つまり、ギャツビーとデイジーの最初の登場シーンが最も気になるところだったのです。しかし、監督は私のような観客の期待を裏切りませんでした。ニックがギャツビーに初めて会う桟橋では、ギャツビーは対岸に霞む「緑」の灯を恋い焦がれるように見つめていますし、デイジーの登場シーンでは監督の凝った演出と同時に「白」のシーツに身を絡めて強烈な登場を果たします。その後の大まかな脚本は概ね原作に忠実で、私としては不満はほとんどありません。もし、言わせていただくなら、ニックがニューヨークに来るときの心情(原作では従軍経験によるトラウマでホームタウンの西部にいられなくなったという設定)と、同じく西部出身のギャツビーが東部に憧れるが、結局西部出身という軛から逃れられなかったという2点が映画では言及されていないことです。しかし、時間の制約がありますし、この2点を抜き去っても原作の良さは損なわれていないと思います。
バズ・ラーマン監督の独自色はギャツビー邸の豪快なパーティーの場面に凝縮されています。舞台は1920年代のアメリカですが、あのシーンは様々な時代の音楽が派手に組み合わされて観客の脳裏に焼き付かせ、映画を観終えた後にやりがたい虚しさを良い意味で助長しています。現代風のアレンジが違和感を覚えさせないところでふんだんに使われ、作品の古臭さを感じさせない作用が働いているように思います。
最後になりましたが、俳優陣の素晴らしさも作品に貢献しています。悲劇の主人公、ギャツビーを演じるディカプリオの良さは期待以上でしたし、ニック役のトビー・マグワイアもディカプリオに負けない役者っぷりでした。レンタルが開始されたら是非借りてきてまた観たいですね。
なぜいまこれなのか?作品を包むゴージャスな雰囲気は、今や過去の話となってしまったキライがあります。
第1次大戦後“ロスト・ジェネレーション”と呼ばれ、虚脱感の中に生きる戦後世代の代弁者とされた米国の作家、F・スコット・フィッツジェラルドの同名小説が原作。この原作はアメリカ文学の代表的な名作として読み継がれてきた本作の魅力は、主人公の破天荒でゴージャスな暮らしぶりなのだろうと思います。
しかし、作品を包むゴージャスな雰囲気は、今や過去の話となってしまったキライがあります。バブルとデフレを経験した現代の日本人にとって、。超リッチの華麗なる生活と恋愛模様。これが描かれても、それがどうしたとなりかねないし、現に予告編の段階から疑問に感じてきました。
絢爛豪華な乱痴気騒ぎを除けば、ストーリーの核となっているのは、至ってシンプルな三角関係を描いたメロドラマ大作なんですね。元恋人と現在の夫との間で揺らぐ女心が描かれる点で、『冬ソナ』とたいして変わりありません。むしろ『冬ソナ』のほうが、ハラハラさせる悲恋の行方に感情移入することでしょう。ヒロインのデイジーの心情というのがイマイチよく伝わってきませんでした。
けれども、ギャツビーを演じるディカプリオは、凄くいいキャラクターを作り出していて、演技力の巧みさに、さすがだなぁと舌を巻きました。派手な外見の内側を孤独感が吹き抜けるようなギャツビーの佇まい。まことに悲劇の主人公にふさわしいキャラでした。そのディカプリオとデイジー役のキャリー・マリガンが桟橋の突端に体を寄り添いながら絡むシーンは、何と絵になること。ディカプリオファンの方なら、必見のうっとりさせられる場面です。役者がいいとどんな本でも存在感とフェロモンだけで、観客を魅了させてしまうものなんですね。
本作は、スターを擁した本格的な米製恋愛映画と、3D映画の新局面が試される意味合いが強い企画だったと思います。しかし、最終の興行収入で、10億円突破が難しいようです。肝心の20、30代の女性が動いていないようなのです。それは、繰り返すけれどメロドラマとしては欠かせない愛情の葛藤やゆらぎといった女性目線が弱いからでしょう。本作の筋を、後日小説にしていくニックの回想にしてしまったため、ラストの衝撃的事件すら淡々と語られているような印象となってしまうところが損をしていると思います。 ドラマ重視の作品で、3D映像の魅力を打ち出す。これが、3D映画としては初めてと言えるほどの売りにしたかったようですが、実際に3D版を上映した劇場はかなり限定的でした。やはり観客側がドラマ重視の作品で3D映画にどれくらいニーズがあるのか配給側は再検討すべきでしょう。
独特の映像と音楽センスを持つラーマン監督の描写は凄くロマンチーテックで、海を隔てたふたりの豪邸を印象的に描きだしていました。
とにかく切ない!!
大学で専攻していたF・スコット・フィッツジェラルドの代表作だったので、ドキドキしながら観に行きました。
感想は、とにかく切ない・・・
煌びやかさと空虚感、富と愛、過去と現在
過去の愛に執着しすぎてしまったがゆえの悲劇。
でもその執着こそが、何にも穢されることのないまっすぐな想いであり、ギャツビーの華麗さであるような気がします。
原作にかなり忠実に作られていたし、パーティーシーンはちょっとやりすぎ!?と思いましたが、それ以外は、原作を読んだときに頭の中で描いたシーンとぴったりくるものが多くて個人的には満足しました。
特に、ギャツビーが初めてデイジーを自宅に招いた際、美しい色のシャツを次々に投げるシーンがとても好き。
素敵なシーンでした。
目にも鮮やかな1920年代を象徴するファッションや、ダンス、ちょっとやりすぎかもと思うパーティーシーンもこれぞエンターテイメント!!という思いで楽しみました。
しかし音楽がちょっと違和感、、もっとジャズっぽくてもよかった気がします。音楽自体はかっこいいし、敢えてのはずし?かもしれませんけど。
デイジー役のキャリー・マリガンも原作のイメージ通りのビジュアルだったし、ニックを演じたトビー・マグワイアいい仕事してました~!!
レオ様は・・・もうとにかく見てください!凄まじくはまっておりました。かなり素敵です。
できれば原作を読んでから、見てください!
華麗なる一途な愛と豪華な映像で◎です。
◇私は、タイタニックの時から…レオナルドディカプリオが好きなので観に行きました。
今回の映画は、久しぶりに素敵なレオ様を見れた感じです。
そして、ギャツビーの愛する人を想う一途な愛情に感動して涙しました。
年月を経ても、変わらず愛する人を想い続けるギャツビーは、本当に素敵でした。
時代背景の映像も綺麗で、豪華なパーティーに癒されました。
後半の物語は、切なくて悲しかったけど…華麗なる映像と音楽で、良かったと思います。***
ギャッビーの悲しいまでの純愛
最初デカプリオの顔が誰かに似ていると思ったらロバート・レッドフォードだったのですね。前回の華麗なるギャッビーはレットフォードが主役でとても物悲しいけれど流れるような奥ゆかしい映画だったような気がします。今回はトビー・マグワイヤーが語り部のような役割でギャッビーを一番理解していた人物だと思います。ムーラン・リュージュの映画を作った監督の華麗な映像や音楽はインパクトがあります。上流階級まで登りつめたギャッビーは失った愛にきずかずに純愛をひとり貫く姿は悲しい。でも彼女からの連絡を信じていたのは救いだったかもしれない。
原作は読んでおくべし!!3D
フィッツジェラルド著、華麗なるギャッツビーの本を読み終わったあとは、思わず最後の言葉に胸を打たれ、人間が抱く永遠の憧れ、過去の輝きの切なさ、力強さを語りかけられました。
ただ、偉大な名作の描写を全て映画で再現するのには限界があるようでしたね。
映画のギャッツビーは、悲しいほどの執着が強調され、普通の恋する青年で地道な努力の上にあったという人間味が少し薄れていました。少し怖い人になってしまっていた感じ。同様に、デイジーも単なる悪女のように見えましたが…原作ではそんなに薄っぺらい女ではないのです。
ギャッツビーの父親を登場させたり、生い立ちシーンをもっと丁寧にしたら良かったのかも?
映画は監督お得意の、ムーランルージュっぽく、軽快なタッチで描かれていると思いました。
その為か、映画のギャッツビーはとっても惨めであり、最後のあの有名なセリフも悲しい響きしか持ちませんでした。原作を読まない人たちには、ただの悲しい映画になってしまう可能性があるなと思いました。
しかしながら、ギャッツビーは美しい恋の希望を現実にしようとした、人間の過去に挑戦した、まさに「華麗なる」人物なのです。単なる悲しい物語ではないのです。
本を読むと映画にもっともっと厚みがでて、感動も大きくなると思うのでオススメですよ。
ちなみに、カットがいちいち短いので3Dはやや疲れます。綺麗ですが。2Dでも十分だとおもいますよ!
PS ニックとジョーダンさんのシーン、もっと欲しかった〜笑
過去は戻らない。
レッドフォード氏の旧作が懐かしい^^;
当時(それ以前から)華麗なる~っていうタイトルは多かったが、
まさにその華麗をまとった美青年をレッドフォードが体現した。
華麗なお顔立ちというのは、華麗な衣装も良く似合うのねぇ。
さて。話変わって、今回の主役は…あのディカプリオ。
最近では、某局女子アナがやらせた「大物俳優の顔マネ」が
脳裏にこびりついて離れない。だから美青年のイメージが遠い~
けれど、演技はさすがの年季モノで切なさが際立って出てくる。
主役は彼でも、牽引するのは隣人、T・マグワイア。
この人は本当に語りが巧い(爆)
日本でならNHKでナレーションを受け持ってもいいくらい巧い。
彼を語りに起用したのが大正解で、
派手派手な監督B・ラーマンが描く落ち着きのない1920年代が、
何とかそれなりに観られた感じがする。
せっかくのチャールストンにも全く時代性を感じられず、
豪華絢爛さはかなり発揮されていて良かったのだが(3D用?)
ドラマとしての雰囲気やノスタルジックな味わいがほとんどない。
ラップが流れた時にはどうしようかと思った^^;
ただ、物語は原作により近いのだそうだ。
というわけで派手派手世界の中、浮いた存在になるギャツビーが
前半の華麗さと打って変わり、後半は苦しみと孤独を深めていく…
タイトルとは裏腹にかなり切なく空虚な物語である。
原作者フィッツジェラルドの半自伝ともいわれており、当時の彼が
どれほどの贅を尽くし、その後の大恐慌と共に崩れ去っていったか、
彼の若き日の大成功とその後の悲劇が何故かギャツビーと重なる。
まぁ人生…いい時も悪い時もあるとはいえ、
あまりに高い社交界の花を愛してしまった故の悲劇に他ならない。
アメリカンドリームを体現してしまった男には、
退くどころか諦めることもできない、ただただ哀れな姿が残る。
女の私からすると、やはりこれは再燃できない愛だろうな…。
そもそもデイジー(C・マリガン)という女は、上流階級の娘だ。
縁あって若い頃、ギャツビーにのめり込んだが、結局は金持ちの
トムと結婚する。ギャツビーが成り上がるのを待てなかった訳だ。
価値観の違いほど夫婦間の妨げになるものはない。
生きてきた土壌が違う二人は愛に対するベクトルもかなり違う。
後半で、デイジーがとる行動のひとつひとつがギャツビーの哀れを
際立たせるのは、愛人にのめり込んで浮気放題のバカ夫トムが持つ
莫大な財産や地位、世間体、それらが愛なんてものより必要なの♪と
涙を流すデイジーの顔にしっかりと書いてあるからである。
過去は過去。もう取り戻せない。というのは私も本当にあると思う。
結婚しなかった二人には、結婚しなかったなりの理由があるのだ。
それでも一途にデイジーを求め続けるギャツビーの真摯な求愛劇に
(たいへん失礼ながら)
こうして粘着ストーカーが生成されるのかしら?と考えてしまった。
彼らを冷静に見つめるニック(マグワイア)を通して、
バカげた狂騒劇を観せられてきた観客も、後半では彼と同じように
ギャツビーの波乱人生に対する想いがジリジリと胸に迫ってくる。
派手派手から一気に奈落の底へ転落する様は、
考えてみればラーマンだからこそ描き出せた光景なのかもしれない。
決して面白い話ではないが、
ひとりの恋する青年が一途に求めた初恋の相手との結婚。っていう
時と場を変えれば、いつでも成り立ちそうなドラマティックな恋愛。
そこに世相を絡めて一気に書き上げたというフィッツジェラルドの
才能と、お祭り騒ぎのあとはどうなるか、を描き切ったラーマンとの
コラボレーションが142分を飽きさせずに魅せてくれた。華麗で空虚。
(トムもデイジーも責任放棄するとは。人間としてどうよ~と思うけど)
哀しい
なんでも求めすぎると・・・・といいますが
彼の求めていたものは
これまでのふたりの分かれていた間の時間をなかったことにしたいというものでした。
デイジーにはブキャナンとの離婚を求めます。
でも、彼女にはそれは・・・できませんでした。
デイジーの気持ちはわからないでもありません。
ブキャナンのことも決して愛していないわけではなく、
むしろギャッツビーとのことのほうが過去のことだったのでしょうね。
最後も哀しすぎる終わり方。
でも、きっとうれしいと思った瞬間に死ねたのかなとおもうと
それは幸せなことかもしれないなと思いました。
「アメリカ」を象徴する映画(゚Д゚)
アメリカ人なら誰もが知ってる有名な小説『ザ・グレート・ギャツビー』
1974年にロバート・レッドフォード、ミア・ファロー主演で映画化されたのを昔テレビで観たことあるけど、正直面白いとは思わなかった(;^ω^)
これ以外にも何回か映画化されてるけど、どれもそれほど高く評価されてない。
今回は『ムーラン・ルージュ』『ロミオ+ジュリエット』のバズ・ラーマンがメガホンを取って映画化。
1920年代の好景気に沸くアメリカ、特にニューヨークを舞台に、郊外の高級住宅街の豪邸で毎夜パーティを開くジェイ・ギャツビー。
それはギャツビーの昔の恋人のデイジー・ブキャナンの気を引くため。
大富豪の娘のデイジーは、ギャツビーが戦争から帰って来て無一文だったことから別れて、大金持ちのトム・ブキャナンと結婚。
そのトムの家がギャツビーの豪邸から海を挟んで向こう岸にあることから、連日連夜盛大なパーティを開いて、自分の現状を知ってもらおうとしていた。
デイジーのまたいとこで、小説家志望だったが証券会社に勤めているニック・キャラウェイはギャツビーの噂を聞きつけて、パーティに行ってみる。
海の岸から見える緑色のランプをずっと見てる男が。
それがギャツビーで、パーティで会ったことから仲が良くなる。
そのニックの計らいで、ギャツビーとデイジーは再会。
旦那のトムは田舎町の車整備工場の奥さんと不倫していて、さらに金に物を言わせて大勢の女と遊んでた。
もう愛情は冷め切ってたところに昔の男登場で、もうデイジーは止まらない(゚∀゚)アヒャ
ここまでがま~~~~~~~~ど派手。
ディカプリオ扮するギャツビーが"I'm Gatsby!"と自己紹介した途端にシャンパンがシュポーンシュポーンシュポーン!!!
花火がドカーンドカーンドカーン!!!
カメラが向こう岸の方まで空撮でぶんぶん振れまくり(・∀・)イイ!!
ラーマン監督、カメラを振り回し過ぎて頭に当たって大けがして映画の撮影がしばらく休止したとか
ヾ(≧∀≦ )ブハハッ!!ヾ(≧∀≦)ノブハハッ!!( ≧∀≦)ノブハハッ!!
『ロミオ+ジュリエット』でもど派手でロックやらヒップホップやらのBGMを使ってたわけだけど、こういうカメラワークに慣れてるはずなのに(;^ω^)
まあそれはいいとして(つ´∀`)つ
とにかくきらびやかでど派手なパーティ
デイジーが家でくつろいでるところで白いカーテンが何枚も風に揺られててなかなかデイジーの姿が出てこない辺りの外連味とわざとらしい幻想的なシーン
ニックが自分の家でギャツビーとデイジーをこっそり会わせるシーンで、これでもかと言わんばかりの花の量
そしてギャツビーが「この成り上がりもんが!!」と言われて怒るシーンで、SEが蒸気機関車の汽笛
キャハハハハッ!!(≧▽≦)彡☆バンバン
劇団☆新感線が大好きな俺としては、こういう演出大好き(・∀・)ウン!!
ところが、これは原作でもそうだけど、後半は前半の勢いや馬鹿さ加減が急に失速。
ギャツビーはデイジーとの逢瀬を満喫してたけど、旦那のトムだってそれに当然気づくわけだし、そんなの長続きするはずもない。
ギャツビーは旦那を捨てて俺と一緒にどこかに行こうと持ちかけるも、最初はデイジーも勢いでイエスと言うが・・・
ギャツビー調子こき過ぎ(ノ∀`)アチャー
いくら愛情は覚めてるとは言え子供もいるわけだし、そんなの無理に決まってる(*´・д・)*´。_。)ゥミュ
そしてトムに会って、デイジーの口から「もう愛情はない」とはっきり言わせた上で、ちゃんとけじめをつけさせようとするけど・・・
絶対無理だそんなの(;・∀・)
心ではそう思ってても、面と向かってはなかなか言えないのが人情。
つうかデイジーはギャツビーが無一文だから別れて大金持ちのトムに惹かれて行ったんだろ?
そんな女のどこに未練が??
・・・とも思わなくもないけど、中々忘れられないこともあるでしょうよ。
だとしてもだ・・・
このデイジーって女は優柔不断と言うか、結局金に流されると言うか・・・
ギャツビーとトムが大喧嘩して、それを見たデイジーはギャツビーと車に乗って帰る。
その途中産廃処理場みたいな場所を通った時に、そこで女を轢き殺してしまう∑(゚ω゚ノ)ノ
それがトムの愛人で、良く行く車修理工場の奥さん。
あとから来たトムはそれを見るが、当然自分の不倫相手だなんてことは言えない。
苦し紛れに「その車の持ち主はジェイ・ギャツビーという男だ」と言ってしまう。
実は運転してたのはデイジーで、轢き殺したのもデイジーだったことが判明。
トムは仕方なくギャツビーが運転してたことにして、デイジーには何も言わないよう釘を差す。
心配したニックがギャツビーの所に行くも、ギャツビーはもう全て悟ったような穏やかな表情。
最後に一目だけデイジーに会いたいと思いつつも、ニックが家に帰す。
そしてニックは一緒にいてあげたいが仕事があると去る。
そんな中、ギャツビーは1人でプールに入ってるところ、交通事故で死んだ奥さんの敵を取ろうとする旦那がギャツビーの家に来てギャツビーを射殺。
そして自分も拳銃自殺。
悲しいのがこの後。
ギャツビーが死んで、葬式を上げようとしても弔問客はニック以外誰も来ない。
トムとデイジーにも手紙を書くが、2人ともすでに逃亡。
電報を打っても梨のつぶて。
原作ではその後ニックがトムと再会して、この野郎をぶん殴ってやりたいという衝動に駆られるも、我慢して挨拶の握手をするというエピソードがあるけど、映画ではそれはない。
結局ギャツビーは1人の女のために悪に手を染めて大金持ちになりあがって、1度はまた手に入れたかに思えたけど、最終的にはその女のせいで、つまり2回裏切られた結果命まで落とした。
何て悲惨なんだ。・゚・(ノД`)・゚・。
大金持ちの時にはあれだけ色んな人がパーティに来てたにも関わらず、葬式には誰1人来ないというのも、人間の残酷さ、冷淡さを感じる。
ギャツビーもどうしてこんな女のために命を懸けたのか・・・
『市民ケーン』然り、『ソーシャル・ネットワーク』然り、女が元で大金持ちになるっていう話を繰り返すのがアメリカっていう国なのか?
町山智浩さん曰く、このデイジーの行動がアメリカ人の心性を象徴しているとか。
確かにアメリカ人は金のある所に行っては失敗して、さらにまた別の金のある所に行っては・・・を繰り返してるかも知れない。
ギャツビーが死んで間もなく、アメリカでは世界大恐慌が起こって、それまでの華やかな生活やら浮かれた雰囲気は一気にどん底に叩きつけられることになる。
そしてルーズベルト大統領のニューディール政策が始まって、さらに第二次世界大戦に突入していく。
この映画はニックが精神科医の診察を受けているところで、そのギャツビーのエピソードを書いていく形で進むけど、ラストでエピソードが書きあがった所で、タイプした"Gatsby"の上に"The Great"と手書きで書き足す。
ニックのギャツビーに対する粋な手向け(・∀・)ウン!!
1人の女が原因で、人生の天国と地獄を一気に味わいながら痛ましい最後を迎えた哀れな男に「偉大なギャツビー」「華麗なるギャツビー」と付けた。
アメリカ近現代史を学ぶ一級資料と言われる原作小説を、ど派手できらびやかなエンターテインメント映画に仕上げた名作(゚д゚)イーヨイイヨー
いい映画です(・∀・)イイ!!
長年の純愛の行く末
豪奢なドレス、紙ふぶきやシャンパンが舞う華やかなパーティー、1920年当時のセレブたちが乱痴気騒ぎを起こす様子はそれだけでクラクラする。
独特の映像演出で一世を風靡した『ムーラン・ルージュ』の監督、ということだけあって、非常に特徴的です。まあ、いい意味か悪い意味かは好みによるでしょう。
純愛も純愛のストーリー。ギャツビーにはある目的があります。長年想ってきた人、デイジーと幸せになること。その為にギャツビーはデイジーに相応しい自分であるよう、すべてを整え人生をも成功させてきました。
しかし、実際にデイジーの前に登場して、一緒にいられたのはたった一夏。
世は無常。
ギャツビーは彼女が、最後まで自分を選び取ってくれる、と信じていた。
自分の姿を自分で選び取った、という自負があって、彼女も期待に応えてくれるという自信があった。
『自分がした努力の分だけ相手も返してくれる』というのは、恋愛に関しては思い込み。ギャツビーとデイジーの間の温度差にも彼は気が付かないし……恋は盲目というか……
デイジーにとっては、昔燃えた恋の思い出で、うだるような暑さを紛らわせたかっただけ。ただの面白い遊びだったのかもしれません。
建物の遠景からぐっと寄り、人物のアップに移るシーンが多用されています。
空の色、建物のライトアップは色とりどりで、雰囲気はファンタジー。
超遠景から人物像にぐいいっと寄る手法は、CGっぽく映るし、違和感も与える。リスクのある演出だと思います。しかし、それを『現実から遊離させるための演出』と受け取れば、そのファンタジーぷんぷんの香りを肯定できて、物語に一歩近づける。
だってありえないようなストーリーですもんね。
ありえない話は、ありえないなりの演出が必要。
パーティーでの騒ぎは、まるでヨーロッパの中世貴族たちの振る舞いのよう。笑い声をあげて駆け回る。既視感に襲われました。何時の時代も贅沢の仕方って変わらないんですねー。
幻想的なパーティーのシーンから一変した現実的なホテルでの口論の落差は見物です。汗が滴り、パーティーではただ華美なだけだった人物たちに生気が宿ります。
この時、舞台は春から夏へ。うだるような暑さの中でのウンザリする会話が繰り広げられます。「もう我慢できない!!」と何度も口に出されます。暑さのためでもあって、絡まった人間関係のためでもあります。暑さが登場人物たちの頭の働きを鈍らせているのか、堂々巡りの口論にはこっちまでウンザリ。
しかし、この時、暑くなければ、ギャツビーも激昂せず、デイジーもわめかなかった、そして劇的な悲劇にもつながらなかったのではないでしょうか?少なくとももう少しましな討論ができたでしょう。
この口論のシーンは非常に現実的、人生のままならさも、感情の割り切れなさも、現実のもののように描いています。物語調ではありません。もしこのシーンもパーティーのように幻想的では映画のバランスがぐちゃぐちゃだったでしょう。
現実的であるからこそ、映画が引き締まった。
幻想⇔現実の描き分けのおかげで、観客を置いてけぼりな極端なファンタジーにならない。1920年代ってやっぱり隔世の感がありますし、そこ難しいと思うんです。
金で振りまいた人気や神秘や名声は死ねばすべて終わり。死人に口なし。この世は虚飾です。生きている者の都合の良いように片付けられます。
ギャツビーにとって、様々なものが華々しく散った夏の終わり。それでも、秋になっても、友人は残った。それでよかったのでは。
勝手に脳裏に描いていた『貧乏だった自分を大昔に袖にした女へ復讐する話』ではありませんでした。
……が、楽しめました。
夏の終わり
簡単にいえば「ひと夏のアフェア」を描いた作品である。
ひと夏の喧噪と倦怠。
舞台となった1920年代のアメリカも時代的には正に「夏」。
華やかで騒がしくて、発展が続くことを誰もが疑わなかった時代。
ブラックサーズデーが起きアメリカに冬の時代が訪れるのはもう少し先。
夏の真っ直にいる人は、夏はいつか終わる事に気づかない。
夏の日差しのような栄華を、そしていつかは終わる儚さを、バズ・ラーマンの映像は上手く捉えていたと思う。
ギャツビーも「夏」の時代にいる。
無力な子ども時代とは違う。かといって老成した大人でもない。
芽生えの春でも穏やかな秋でもなく、強い光と熱気が支配する夏。
ギャツビーは自分の夏が終わる事を認めない。
この煌めきが続く事を誰よりも一途に信じている。
成熟しきれない男。愚かで切なく、どこか憎めない。
そんなギャツビーは、ディカプリオにぴったりだった。
J・エドガーのような老獪な役には早すぎる…。かといってロミオ+ジュリエットのような若さに任せてただ叫んでいる時代は過ぎた。
夏の終わりの切なさ演じるのは、今のディカプリオこそふさわしい。(74年度版のレッドフォードは本当に本当に素敵だったけれど、格好良すぎた、隙が無さすぎた。)
今回の映画で特に良かったのは、原作とは微妙に違うギャツビーの最期だ。
デイジーからの電話がきたと勘違いしたままギャツビーは死んでいく。現実を知らぬまま、幸せの絶頂で事切れる。
愚かでも必死に生きた男への、せめてもの優しさであり餞だったのかもしれない。
そしてデイジー。
ギャツビーにとっては全てを賭けた恋でも、デイジーにとってはひと夏の倦怠を紛らわすアフェアでしかない。
キャリー・マリガン演じるデイジーは、賢くもなく強くもなく、どこにでも居そうな女、普通の女に見えた。
普通の女は、ひと夏のちょっとした情事は受け入れる事ができても、常識から逸脱した狂おしいまでの愛は受け入れる事ができない。日常の安定を揺るがすものは重た過ぎてしまう。理解出来ない。だからこそ、すんなり残酷な行動もとれてしまう。
74年度版のミア・ファローのデイジーからは苦々しい印象を受けたが、キャリー・マリガンからは苦々しさすら感じない。
ギャツビーが闘うべきもの、原作者のフィッツジェラルドが告発したかったものは、まさにこの全てを飲み込んでしまう日常ではなかったのか。常識から逸脱したものははじき出してしまう世間ではなかったのか。そう考えると、キャリー・マリガンの普通の女っぷりはある意味正解のような気がする。
最後に、ギャツビーの隣人ニックに関して。
ニックは、傍観者としてアフェアの終焉をそして夏の終わりを見届ける。
ブラックサーズデー…世界大恐慌が起きアメリカの栄華も去り冬の時代が訪れる。
人は、ギャツビーのように夏の終わりと供に消えていける訳ではない。その後果てしなく長い季節を歩まなくてはならない。
冬の時代をニックはどう生きていくのか。何を拠り所にするのか。何によって再生していくのか。これは原作には書かれていない部分である。
この原作にはない部分をあえて付け加えたのは、バズ・ラーマンの優しさだろうか。
ニックのその後を描くことで、とうの昔に夏は終わってしまった多くの私たちにも、一縷の希望を与えてくれる映画になったと思う。
自伝だったんですね。
ギャッビ-は何度も映画化されていますが、レオ様が演じる今作品は、危険な香りが満杯です。作者自身の半生が描かれているから、あんなにも愛されている小説なんですね。スラムで育った青年には、お嬢様は豪華絢爛な高値の花に見えるのでしょう。でも、我儘で自分の手を汚さない傲慢な女性に振り回されて,稼いだ莫大な財産を全て失い最期を遂げる作者と重なっています。豪華絢爛なバズらしい作品ですが、やはりもっと主人公の生い立ちにスボットを当ててほしかったです。
映像の綺麗さを楽しむもの!
宣伝に踊らされて、ディカプリオを見たくて、見に行ったけど、ストーリー自体はそこまで面白くなくて、早く終わらないかなーっていう気持ちも芽生えたり、、、(笑)でも本当に映像はすごく綺麗で最後の切なさに対比してたなーなんて思ってました。バズ・ラーマン監督のはほんとに舞台が壮大で桁外れだなって改めて思いました。
良かったです。でも、、、
個人的にはラストシーンのキャリー・マリガンの表情に納得いかず。。。前作のミア・ファローが演じたように、長きに巻かれギャツビーの事など流し去ってしまう お嬢様・デイジーであった方が、そんな女に憧れたギャツビーの悲しみが際立つように思うんだけどなぁ。。。
華麗なる哀しき愛
ロバート・レッドフォード版は昔見た事あるが、正直あまり覚えていない。
なので、何の先入観もナシに一本の作品として見た。
まず、豪華絢爛な映像世界はバズ・ラーマンならでは。
前作「オーストラリア」は映像・音楽センスやユーモアに欠けたが、今回の作風は「ロミオ&ジュリエット」「ムーラン・ルージュ」に近い。前半は華やか、後半は悲劇的なのも似ている。
ラーマン節の復活は嬉しい。
昔のファンにはギャツビーはレッドフォードかもしれないが、ディカプリオもなかなかハマってた。
最近男臭い役が続き、いい面構えになったディカプリオにとって久々の本格的なラブロマンス。その昔船の鼻先で世界の王子様やってた時とは違う、大人のいい男の色気が出ていた。
失われた愛を取り戻そうとする男の狂気と哀しみも体現。
僕は昔のレオより、今のレオの方がずっと好きだ。
トビー・マグワイアは物語の語り部としての役回りをきちんとこなして好感。(レオとトビーの親友共演も何だか微笑ましい)
キャリー・マリガンは可憐だし、キャリー演じるデイジーの夫ジョエル・エドガードンの傲慢と憎悪の演技は出色。
ジョーダン役エリザベス・デビッキのクールビューティーな魅力にキャリー以上に見とれた。
毎夜毎夜、盛大なパーティーを開くギャツビー。
その動機は、たった一人の女性を振り向かせる為。
愛を上手く伝えられず、質素なお茶会も派手に飾り付ける始末。
ようやく愛が再燃したと思いきや、求め過ぎる余り、愛は遠退く…。
一見華やかに見えても、その実は背徳の極み。
地位や名誉や金を手にしても、失われた愛にもがくだけ。
当時の華と陰を、一人の男の華麗ながらも哀しき愛として描く。
その何と空虚な事。
だからなのか、映画は見映えは良くても、何か胸に迫るモノに欠けた。
フィッツジェラルドの名作文学の精神を、映画がそのまま表しているとしたら、皮肉というか…。
甘美で切ないおとぎ話のよう
前半はゴージャスな映像、中盤以降はストーリーにすっかり引き込まれ、エンドロールで思わず深いため息…。
3Dで鑑賞、冒頭から楽しませる気満々でした。豪華絢爛なパーティーに幻想的なシーン、美しく見応えがありました。劇場で観れて良かったです。
語り部であるニックの現在の姿から、その結末を予感させつつ物語は始まります。
1920年代、好景気に沸くニューヨークに現れた大富豪・ギャツビーとは何者なのか。
昔の恋人デイジーに少年のような一途な愛を捧げるギャツビー、変わらない愛を信じて。レオナルド・ディカプリオがエキセントリックにゴージャスに演じて良かったです。
彼は城を離れられない。それは、そこが彼の心の中だけにいる完璧なデイジーをしまいこんでおくドールハウス、最後の砦だからなのでしょうか。伸ばした手は何処にも届かなくて…痛ましいです。
それでもこの物語、誰に対しても公平に誠実に関わろうとするニックを通して語られることで、甘美で切ないおとぎ話のよう。ニックを演じたトビー・マグワイアが、温かく絶妙な名演でした。
ギャツビーの前に大人の男として立ちはだかるトムを演じたジョエル・エドガートンの、しっかりした存在感も印象的でした。はかなげな少女っぽさの中に大人の女の顔を滲ませるキャリー・マリガンも、二人の男の間で揺れるデイジーを上手く演じていたと思いました。
華麗なるギャツビー
レオナルド・ディカプリオ演じる主人公がとても可哀想に感じたラブストーリー。切なくて、主人公の一途な思いがひしひしと伝わってきて、最後は泣いてしまった。でも、隣人役のトビーマグワイアが唯一、彼の気持ちを察し、親身になる役どころだったのが救われた。彼だけでも、主人公の理解者がいてくれた事は嬉しかった。悲しいながらも楽しめた作品でした。
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