華麗なるギャツビーのレビュー・感想・評価
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ディカプリオの表情でなきゃダメかも
やっぱり映像を楽しむ映画でした。ストーリーは、様々な方が訳している超有名小説で、今回が4度目の映画化です。
しかも、このジャンルで3Dです! でもバス・ラーマン監督作品という事で納得。
超豪華な背景の中、繰り広げられる飛び出すラブストーリーになってます。
Tiffanyが〝公式ジュエリー〟となっていたり、Pradaからはドレス、Brooks Brothersからはメンズものアイテム(2,291点!)を提供してもらっているそうです。パーティーシーンは圧巻です。
そして、原作を読んだり、過去の映画化作品を観ている人が気になるシーンについては、ディカプリオは見事に劇場を静まりかえらせる名演をしています。このシーンを演じる事ができるのは、彼とジャック・ニコルソンぐらいではないでしょうか?
とにかくこれは映像を体感する映画です。(うーん、男子は退屈かもね)
バズ・ラーマンの意図は
バズ・ラーマンという監督。
「ムーラン・ルージュ」では、ニコール・キッドマンのコミカルな面と、
歌のうまさと作り物の中にある悲しさをうまく、演出していた。
「オーストラリア」では、同じくニコール・キッドマンにイギリスの貴婦人の変貌を描こうとしたが、自然や歴史の重さに押しつぶされてしまったように思う。
この「華麗なるギャツビー」は?
華美すぎる社交パーティや、でっかくて豪華すぎる自宅、
とてもエコとはいえない乗用車、虚栄に満ちたピンクスーツ
すべてが反面教師的なツールなのだ。
なんに対しての反面なのか?
それは一途に思いつめた昔の彼女への真実な愛だろう。
純粋で誠のあるLoveである。
だが、人間はひとっところにはいられない動物でもあるのだ。
クールに装っていたギャツビーが、堰を切ったように
その思いを発露する場面がある。
それを見た彼女が引いてしまう場面がある。
そう、愛は変質してしまうのだ、時間とともに。
3Dで見たのだが、その効果は雪のシーンにあるようだ。
スコセッシのヒューゴの時もそうだったが、ちらちら舞い散る雪が
前のほうに位置し、立体的な映像を作り出していた。
でも、雪にも豪華なパーティにも、さほどの感激は薄くなっていった。
映像・音響7点
俳優・演技7点
ストーリー5点
僕的にはどうも思い入れが入りにくかったです。
面白いけど…
内容は非常に面白かった。ディカプリオもマグワイアもいい演技してた!!
けど…ちょっと安易だったかな~、話が次々に予想できた。
ここまでスケールあるんだったらもうちょっとひねった結末でもよかったんじゃない??
華麗なるギャツビー
1974年に観た時は大学生でした。それから4半世紀以上経った今、あの時にはなかったfeelingで感動しました。moved so much! 20年代、あのきらびやかでゴージャスなパーティーとは裏腹に最後まで孤独だったギャツビー。虚飾の中の空虚さ。そして一途な愛。悲しすぎるほどの何かを感じました。20代の頃は単純にも、海辺のあんな素敵な家であ暮らしたい・・とか、あのギャツビーに対しても成り上がって毎日ド派手な生活して・・、とか、そんな風にも観てました。が、その後長い年月の様々な苦労も重ね、今思う事は、ギャツビーは当に「グレイト」、何がというと、良家出身でもなく、学歴もなく、ただただ身一つで築きあげて、しかし一途な物を持っている。凄く素敵です!「華麗なる」と訳してますが、私は「偉大なる」と、そんな風にとりました。
キャスティングもディカプリオがナイス。'74のローバート・レッドフォードだと華麗なイメージはありますがインテリ過ぎてなんかミスマッチ。デイジー役の女優さんはワタシ的にはもっと神秘的に美人な人がイイナ。
ジャズがさかんで、チャールストンを踊るフラッパーヘアで膝たけのスカートをはいた女性達、禁酒法とギャング、私達がまだ生まれてなかった20年代の華やかなアメリカを楽しむには、とっても良い映画です。
そしてギャツビーの死と共に、その華やかだった時代は幕を閉じて、大恐慌となり30年代に入っていきます。お楽しみに!
こういう悲しいのは好みじゃない
ディカプリオが演じるギャツビーが、デイジーともう一度巡り合うために綿密な下準備をしていたにもかかわらず、いざ会うとなると怯えたり不安になっている様が可愛くて、微笑ましかったです。
あと、パーティーのシーンは「ロミオ&ジュリエット」でもあったように、騒いでいるみんなの中をこっそり二人で消えて密事をかわすのは、やっぱりワクワクしますね。ただ、ロミジュリほどキュンとしたかは別です。
これはデイジーのキャラクターがよくなかったのかも。
とても綺麗な人なんですが、天然悪女にしか見えなかったです。
計画的な悪女ならまだ可愛げがありますが、天然ってイラっとしますよね。
まるで私は被害者みたいに怯えたり、結局旦那に助けてもらったりしているのをみるとイライライライラ・・・
破滅に向かう映画は嫌いではないですが、こういうのはちょっと後味が悪くて微妙ですね。あと、3Dで観たのですが、はっきりいって3Dの必要なかったとおもいます。
800円なら見に行けばレベル。
初日・一番いいスクリーンのど真ん中の最良の席で見たけど
びっくりするくらいつまらなかった。
さすがにいいスクリーンのおかげでパーティシーンはのりのりで見れたが
久々のレオ様が見たいだけなら行ってみたら。って感じ
鑑賞後の感想としてはその昔、仮面の男からのビーチで
がっかりしたのと同じ思い。
期待値高かっただけに内容の無さに笑えた。
この映画で心は震えないわ。
でもレオ様の次回作もきっと見に行くんだろうなー。
久しぶりの出会い
ディカプリオの映画久しぶりに観ました。
タイタニックに出た時は映画自体の素晴らしさもあり、新天地アメリカに夢を抱く画家志望の
青年ジャックを演じ若さ美しさ、ローズに恋するひたむきさに心躍るほどでした。
今回のディカプリオは何故かギャツビーとしては違和感がありましたね。
これは彼のせいだけではないのかも知れないけれど、期待を持たせた最初の登場シーンもイマイチ。
ギャツビーが過去をどのように生きてきたかと言う、ミステリアスな部分もさらりと解ってしまい、
苦悩もあまり見えてこない。
デイジーに魅かれ、その恋を再び成就させる為、あらゆる手段を使い富豪になって、
若者の様な初々しさで再会するギャツビーは一途な男だけれど、魅力的には映らなかった。
移り気な?女心がなぜ解らないのなんて、じれったくなっちゃった。
過去だけにとらわれるのではなく、時の流れを理解したうえで待つのが、大人の男ではないかしら。
あの時代だからこそのお城の様な家、絢爛豪華なパーティ、その主のギャツビー。
退廃的な雰囲気で末路は見えてくる。そのキュンとくるはずの悲しみも虚しいものに感じてしまった。
こんな話だったのか
世界文学史上に残る大傑作のような原作のイメージがあって以前から読んでみたかったのだが、かなりしょうもない安っぽい話で読まなくてよかったなと思った。
炭鉱のような地域があって、そこでは貧乏な労働者が泥にまみれて仕事している横では好景気で沸くウォール街、その反対側には富裕層のお城が立ち並ぶ居住区があるという立地が生々しかった。また、クラッシックカーでの粗暴運転は見ごたえがあった。
とにかくデイジーがしょうもない女で、そんなのに夢中なギャツビーもトムも、まるで見る目がなく、大した人物ではなかった。ギャツビーはデイジーとしかセックスしてなさそうで、それまで童貞だったようにも見えた。トムに至っては愛人を本妻にひき殺される形となっていた。
ギャツビーはワタミの社長みたいな感じだった。原作では、当時ははるか雲の上の上流階級のパーティの様子が描かれていて庶民はうっとりとその世界を思い描いていて受けたのかな。そのパーティがまるで楽しくなさそうだった。虚飾の空しさがテーマなのだろうけど、そんなに面白いテーマでもなかった。
ギャツビーはその後生きていてもきっとどんどん悲惨な事になりそうなので殺されてむしろよかったのではないだろうか。葬式に誰も来ないというのはいくらなんでも可哀想だった。元サッカー選手の武田と石田純一はきっと来てくれるはずだ。
3Dは苦手なので2Dで見たのだが、特に不満は感じなかった。
華麗なるディカプー
監督バズ・ラーマン!と聞くと何故か身構えてしまうのは一体何なんでしょうか。あ、自分的にですけども。
地雷監督って訳ではないのだけども、ローランド・エメリッヒとかマイケル・ベイとかの、あの監督近辺に通ずる、何と言うかかんと言うか。
多分ね、大掛かりでド派手な演出というパブリックイメージだけで以ってそう思ってしまってるんですね、自分。
前作『オーストラリア』も嫌いじゃないし『ムーラン・ルージュ』も悪くなかったのだけども。
一言で言うと「少しばかり鬱陶しい作風」とでもいうか。めっちゃ失礼ですけどw
ま、でもあれですよ。凄い良かったです。『華麗なるギャツビー』。
全く内容を知らずに鑑賞したんですけども、どうもフィッツジェラルドの原作にほぼ忠実ということらしく、ああ、通りで何となく昔の人が書いたお話っぽいなあという。
どっか人間性ねじ曲がってるキャラクターが出てきて豪華絢爛!となると昔っぽいという勝手なイメージを持っておりますw(酷いイメージだけど)
で、今回もバズ・ラーマン節全開に豪華絢爛なんですけども、実はそこは物語の本懐というか、真ん中には位置していなくて、「結構なストーカー気質をお持ちの主人公ギャツビーが経歴詐称しまくって裏稼業に手を染め、大金手にしてかつて恋に落ちた恋人デイジーの自宅の対岸に城を購入して毎週セレブを呼んで飲めや歌えやのバカ騒ぎをやらかし、で、このバカ騒ぎは実はデイジーの気を惹く為であって、そして再びの邂逅から結婚しちゃってたデイジーをその旦那から略奪せしめるまでの壮大な一大プラン」という、何だか成功しがたい計画立てて一人暴走しちゃってる男の半生を彼の唯一の友人ニックのモノローグで語られていくという、まあそういうお話です。
最近のディカプーさんはこういうイタめの役やらせると最高ですな。『ジャンゴ』然り『シャッターアイランド』然り。トビー・マグワイアと二人で芸達者なベビーフェイス俳優、夢の競演ですよ。
女性陣も男性に負けず劣らず。キャリー・マリガンもエリザベス・デビッキも溜息が出るほど綺麗だったし。
グレートであり華麗なるディカプーさん劇場でした。
こんな話だったんだ…
レッドフォードがかっこ良くて昔観た記憶があるんだけど…こんな話だったんだ…。
けど、なぜ、今、リメイク?
上流階級の恋愛メロドラマとしか感じられませんでした。
豪華絢爛なキラキラ映像は素晴らしい!のですが、オープニングは少し眠気に襲われました。
結局のところ、上流階級の人間は上っ面だけで中身はクズ人間だらけ、ってのを当時は言いたかったのかな〜?
デカプリオはタイタニックみたいなシーンもあったけど、まあ、よかったかな。
衣装とかの映像は3Dの価値もあり、と言う感じでした。
グレート!
ゴージャスなパーティーに目をうばわれた。
最高のドレス、スーツをまとい、最高のミュージックにのせてのダンス最高!
ギャッツビーとデイジーの恋が美しい。
ニックの優しい姿や、思考は素晴らしいものでした。
好景気にわく1920年代のアメリカが好印象で魅力的。そんなアメリカを生で見て体験してみたかったなあと思いました。
爆音で走る車のシーンが、映画館の高音質なサラウンドが体に響き渡り、この作品のいいスパイスに
なっていました。
大画面の3Dで見ることをオススメします。
バズ・ラーマン版華麗なるギャッツビー最高でした。
ゴージャス!ゴージャス!ゴージャス!
贅沢の見本。金をかけて遊ぶなら、こういうことをしたらいいんじゃないかというショーケース。
NY郊外の大邸宅で毎夜繰り広げられる豪勢なパーティ。華麗に着飾った人々が歌い踊り、見ず知らずの人同士がバカ騒ぎを楽しむ。大なり小なりこういうことをしたいと思っているお金持ちは古今東西少なくないはずだ。
ただ、その目的が一人の女性に成り上がった自分を見せつけるだけのものだったとしたらどうだろう。無一文からの「成功」を賞賛することも、あるいはしょせんは虚飾にすぎないと割り切ることもできるかもしれない。身の程を過ぎた贅沢は、最初から破滅が約束されていたのだと見ることもできるかもしれない。
それでも、ギャツビーをGREATといえるか。
本を読んで、もう一度考えてみよう。
原作の虚栄と虚無を再現するのに3Dが効果をあげている
原作を読んだのが10数年前で、かなりストーリーも忘れつつあ
り、ラストの哀しみだけが印象に残っていた。
本作はあのムーラン・ルージュを撮った監督が手掛けると聞き、
20年代の浮かれたアメリカの豪華絢爛さが画面にこれでもかと
再現されるのかと、期待と不安の相交じった気持ちで鑑賞した。
あの演出は斬新だったが、あまりに多用されると、狂乱の20年
代がひたすらに強調される、古き良きアメリカ礼賛の映像を見せ
られるだけではないかと。
結論としては杞憂であったばかりか、その演出が3D技術と相まっ
て、実に見事な効果をあげていた。
パーティーの乱痴気騒ぎが、様々な角度と遠近感で表現され、観
客がその場にいるように錯覚させるような効果。ギャツビーが対
岸のデイジー宅を眺める、デイジー宅の霧に浮かぶ緑の灯台を映
し出すシーンの、自分を見失った、20年代のロスト・ゼネレ-
ションを体現したともいえる効果。
是非本作は3D版で観て頂きたいと思う。
映像効果だけでなく、衣装も20年代の今思えば奥床しくも、当
時としては大胆極まりないモード再現しているし、一聴して、ジ
ャズ・エイジの先鋭ぶりを表すには、当世のHipHopに偏りすぎと
思える作中音楽も、現代のわれわれから聞くと、レトロ風情に聞
こえてしまいがちな、当時の音楽を再現するのではなく、当世の
Jay-Zを起用することで、当時のジャズ・エイジのとがった感じ
が耳に流れ込んでくる。
俳優陣も見事である。
とくに、本作の肝である、ギャツビーの激昂場面は必見である。
謎の富豪振り余裕の笑みで演じるディカプリオも素晴らしいのだ
が、激昂場面では、ナレーションでも殺人犯のようと述べられる
ほどの豹変した顔が見られる。面目躍如であり、ギャツビーとし
てこれ以上望めないほどの配役である。
無論、脇を固める俳優陣も素晴らしい。ニック役のトビー・マグ
ワイヤの抑えた演技は、一見、浮かれっぱなしに見える、この時
代の背後に潜む虚しさや、ギャツビーの内面の空虚さを映し出し
ているし、デイジー役のキャリー・ミリガンも、体面を尊ぶ、か
弱くもしたたかな当時の女性像にぴったりの演技である。
2013/6/15 ワーナー・マイカルシネマ新百合ヶ丘
テーマが深くて、絶妙なストーリーだけど、映像化は難しいところがある。
映像も音楽も派手で華麗でよかった。
前半でギャツビーがデイジー(キャリー・マリガン)と再会するところが最高。
ディカプリオがうまくて感動した。
後半は、派手さも面白さも控えめになるけど、ここからがこの映画の本番だと思う。
前半の派手で華麗な映像がきいてきて、見ているとすべてが錯覚のような気がしてしょうがなかった。
夢が覚めていく感じです。
華麗な生活も、金も、愛も、夫婦も、友情も結局は錯覚かもしれない。
もしかしたら、裏切りや怒りも、単なる誤解や勘違いで、錯覚かもしれない。
そんな深いテーマを内包しながら進んでいく後半は、当然だけどストーリーが絶妙。
でも映像化はなかなか難しいところがある。
この映画でもいろいろ工夫していたけれど、表現しきれていない感じでした。
もっと諸行無常な感じを、はっきり出した方がよかったかもしれない。
結局人生が錯覚なら、ない物を欲しがる必要はない、現状で満足という錯覚をすべきかも?
豪華絢爛も描きすぎると下品。
過去の理想に捕らわれすぎた男ギャツビーの哀れな運命に悲しくなった。いっそ哀れだ。
パーティーの豪華絢爛さは嫌というほど解ったが、自分にはちょっと下品にうつった。
そしてギャツビーが愛したデイジーの夫トムに嫌悪感を抱いた。自分は愛人がいるくせに妻が浮気をするのは許せないという身勝手さ。
最後、デイジーまでもが全ての罪をギャツビーになすりつけて家族でバカンスですか。有り得ない!!
余りの怒りと悲しみで自分は自分なりにギャツビーを見送った。
哀れすぎて観ていられない作品だった。
食い違った愛の果て
単に良い悪いの二択で判断するには、とても難解な映画だった。
それは映画の内容が難解であったという意味ではなく、この映画のテーマである、愛や欲、嫉妬や恨み、が個人の観点で大きく左右されると考えたからである。
ただ、そういった表現をキャストたちが上手に演技していて、まだまだ未熟な自分でも、キャラクターたちの感情を読み取ることができた。
詳細は是非劇場で!
ゴージャスでせつない、、、
たまたま時間が合った回が3Dでした。
特にこだわらなかったけど、あの狂乱的なパーティーシーンとか、羽毛だか雪だかが舞っているタイトルバックとか、3Dで見応え(お値段にリンクして)2割増しだったと思う。
レオナルドデカプリオは最近どんな役やっても「デカプリオ」的仕上がりなのは痛感しているのだけど、「強いのに弱い」自滅的役柄は本当にハマっていると思う。「エドガー」とか「ジャンゴ」とか。1920年代のNYって、この極東の2000年代に生きる50女の私には遠すぎる世界なだけに何だか憧れる。「禁酒法」、「ギャング」、「アメリカンドリーム」って、3点セットなんだなあ。虚飾とはいえ、たった一度の人生、目的を持って生きることって美しいなあ、と思わずにはいられない。
しかし、恋だの愛だのに惜しみなく命をかけられるのは30代前半がギリだね。ニックはきっと長生きして戦後のアメリカの繁栄をしっかりと味わいつくし、語り部としての人生を全うするのだろうな。私も当然そっち派の人です。
当時を描いた他の映画も見たくなりました。
小説読んでから見ました。見て良かった。
愛の為、希望を信じて疑わず、突き進みそして実現させる男、Jギャツビーの物語。
ギャツビー邸の隣人であるニックキャラウェイの語りでストーリーが進行していきます。
今回の目的の一つであったのが、現代の文明社会が産声を上げた1920年代当時のニューヨークの光と影、そして当時のファッション(古臭いイメージは完全に払拭されました)を見る事でした。そして今ほど物が便利で無い時代にあってあれだけ派手に飾り立て(バカ騒ぎで)楽しめると言うのは正直目からうろこでした。もちろん貧富にもよりますが、良い時代だったなーと。それに唸りを上げ爆走するクラシックカー、カッコいいじゃないかっ!
前半の絢爛豪華きらびやかなギャツビー邸パーティーは一見の価値ありと思います。小説読んでも流石にここまではイメージ出来ませんでした。そしてジャズの世界史で最高潮を迎え、ギャツビー登場、興奮度MAXです。(ただし、一部今風の曲と当時の曲をMIXさせた音楽があり、当時の空気感に水を差した形になり残念)
小説読んでから見ましたが、キャストは違和感なく楽しめましたし、ディカプリオの演技は文句なかったのですが、ギャツビーと言う人間の描写部分が少し足らないなーと思いました。もっと重点を置いて描写して欲しかった。
前半のミステリアスさ、後半の人間臭さ。ニックがなぜギャツビーだけを特別視したのか?小説ほどあまり伝わって無いんじゃないかって少し心配になりました。あと、ラストのカギになる上流階級特有の人間性も伝わり難いような・・・。
それにギャツビーのラストシーンは、正直安っぽくなってしまった感があり、これはとても残念だった。
監督はバズラーマンよりも、タイタニックのジェームズキャメロン監督の方が良かったかも・・・と思いました。
整髪料のギャツビーが。。
う~ん。バズ・ラーマン><
ムーラン・ルージュ以上の絢爛豪華っぷりで、
確かに ギャツビー の世界感 には 合ってるのかな、、
と、思いつつ。
ちょっと派手すぎて、時代を超えた名作文学に、
時代の ギャップが 生まれてしまった ような気がしました。
俳優さんは上手 だし、映画としてはいうことはないのだけれど、
もともとギャツビー があまり好きではないので、
4点かなあ、、という感想 でした☆
これを 見て、、整髪料のギャツビーの売れ行きはどうなるのだろう、、
体調が良い時なら 楽しめるかと思います! m--mvv
華やかなミュージカルを見ているよう
原題:「THE GREAT GATSBY]
原作は、F スコット フィツジェラルドによる1925年作品。ベストセラーになったロマンチックドラマ。アメリカ映画、ワーナーブラザーズ社による3Dフイルムで制作され、第66回カンヌ国際映画祭のオープニング作品として上映された。
ストーリーは
1922年。ニック キャラウェイは、第一次世界大戦に従軍した後、エール大学を卒業しウォールストリートの証券会社に就職した。ニューヨークのロングアイランドに家を借りて過ごすうち、となりの瀟洒な屋敷に住む住人に、興味をもつようになる。そのギャツビーという主人は、夜な夜な派手なパーテイーを開き、有名人や政財界の要人を招待して羽振りが良いが、深夜、桟橋で対岸の蒼い灯りを見つめる男の後ろ姿は、孤独そのものだった。
やがてニックのところにも、ギャツビーからパーテイーの招待状が届く。行ってみると贅を凝らした屋敷のパーテイーに、ニューヨーク中の人々が集まって遊び頬けているが、ギャツビーはまだ若い、物静かな青年だった。ニックとギャツビー、二人はすぐに打ち解けて親しくなる。
やがてギャツビーは ニックに、対岸に住むニックの従妹、デイジーをお茶に誘ってほしいと、頼みこむ。ギャツビーの思いつめたような表情に不審に思いながらも、ニックは自分の家に従妹のデイジーを招待する。溢れるほどの花束をもってギャツビーはデイジーを待つ。それは、デイジーとギャツビーの5年ぶりの再会だったのだ。デイジーとギャツビーは、かつて愛し合っていたが、戦争が二人の間を引き裂き、戦争が終わっても、無一文だったギャツビーは、デイジーのもとに帰って来なかった。デイジーは請われるまま大富豪と結婚して、贅沢な暮らしをしてきた。しかし、今、ギャツビーは、億万長者になってデイジーに前に現れたのだった。5年余りの時の流れなど無かったかのように、デイジーとギャツビーとは 再び愛し合う。それを知った夫のトムは、激しく怒る。
ある午後、ニューヨークのトムの別荘で、午後のお茶の時間を過ごしていて、ギャツビーはデイジーに、愛しているのはギャツビーだけだと 夫にに言うように迫る。遂にトムとギャツビーは、激しく争い合い、その場に耐えられなくなったデイジーは、ギャツビーの車で、逃げ出すようにロングアイランドに向かって運転して帰る途中、車に向かって走ってきた女を撥ね殺してしまう。女はトムの愛人、マートルだった。マートルはガソリンスタンドの主人との貧しい生活が嫌いで、そこから抜け出してくれるトムに、救いを求めていた。それでデイジーの運転する車を、トムが運転しているものと思って、車に走り寄ったのだった。デイジーは女をはねた後、車を止めずに家に帰宅する。
デイジーの後を追ったトムは 自分の愛人が、ギャツビーの車に跳ね殺されたことを知る。最愛の妻を失って嘆き悲しむ夫に、妻マートルを殺したのはギャツビーの車であることを言う。
ギャツビーはデイジーが家を出て、これからは二人で生きていけることを信じて疑わない。自分には、デイジーのいない人生などないからだ。ギャツビーはデイジーからの電話を待っている。電話が鳴った時、プールにいたギャツビーは、受話器を取ろうとしたときに、背後からマートルの夫に銃で撃たれる。
毎晩、ギャツビーの主催する贅沢なパーテイーに集まってきていた何百人もの「友達」は、ギャツビーの葬列に一人として参加しなかった。ギャツビーが自分の短い生涯で一人だけ愛した女、デイジーも、夫のトムも、ギャツビーの葬儀に来なかった。何事もなかったかのようにデイジーは旅行に出かけてしまった。
ニックは、たった一人きりで、ギャツビーを見送ったのだった。
というストーリー。
このラブロマンス物語は、1925年のフイッツジェラルドの代表作。現代アメリカ文学の代表作でもある。村上春樹の「アメリカン」な文体は、彼の影響をもろに受けてる。短くて明確な語り方。古典英国文学のように、風景描写や人物の背景など、グダグダ説明しない。にも関わらず、簡潔で的確な描写で、読み手はより具体的に情景を思い描くことができる。フィッツジェラルドとヘミングウェイとの交流も見逃せない。文体は歯切れが良く、描写が写実的で、カメラの目線で、焦点を絞ったり、緩めたりする。オーストラリアの高校では この「ザ グレイト ギャツビー」をアメリカ文学代表作として授業で読むから、オージーはみんなこの本を読んでいる。この作品は、イギリス文学でいうと、エミリー ブロンテの「嵐が丘」のアメリカ版と言えるだろうか。貧しかった青年が 生涯一人の女を愛し、女が死んだ後になっても、幽霊になっても、愛して求め合うラブロマンスだ。ヒースクリッフのキャシーへ激しい愛を アメリカ版で現代風にしたのが、このギャッビーだ。
アメリカ禁酒法下で、財力にものをいわせて自由奔放に飲み、買い、享楽に身を落とす人々に欲望の空しさを訴えて居る。金持ちのエゴイズムと、人を殺しても良心のひとかけらも見せることのない人としての堕落、あまりにもアメリカ的な文化を描いている。そのなかで、一生にたった一人の女を愛して死んでいった孤独な青年の姿が浮き彫りにされる。
バズ ラーマン監督は、「ロメオとジュリエット」、「ムーラン ルージュ」を監督した人だが、どうして3Dのフイルムで撮ったのか、という質問に答えて、絢爛豪華なパーテイーの様子を奥行きのある立体で表したかった、と言っている。確かに2Dでも3Dでもパーテイーの派手な演出はムーラン ルージュを上回る。着飾った人々が飲んだくれて馬鹿騒ぎする様子と、夜一人岬で対岸を見つめている男の孤絶感が、みごとな対比をみせている。
この映画を観ると どうしても1974年の「華麗なるギャツビー」を思い出す。これは、ロバート レッドフォードとミア ファーロウが主演した。デイジー役では、両者を比較すると、ミア ファーロウのほうが役に合っている。ミア ファーロウの、手足の長い、中性的で永遠の少女のようなたたずまいや、堅い笑顔は、演じて得られるものではない。彼女が本来持って生まれてきた不思議な魅力だ。それがとてもデイジーにマッチしていた。
ギャツビーは、今回のレオナルド デカプリオのほうが演技は巧みだ。デ カプリオは、本当に良い役者になってきた。でも、レッドフォードのほうが、原作のキャラクターに近い。孤独で物思いにふける男の雰囲気が良い。若い時はとてもハンサムだった。彼が真っ白の3つ揃いのスーツで現れるシーンなど、ストーリーもセリフも何も要らない。ただ立っていてくれるだけで絵になって、深い深いため息が出たものだ。
そんなレッドフォードも年を取り、若い映画人を育成する機関を作り、サンダース映画賞を設け、活躍している。そこで止まっていれば立派だ。が、、最新作「THE COMPANY YOU KEEP」をレッドフォードが しわくちゃな顔で主演している。1970年代に学生だった爆弾犯が、40年たって、FBIに逮捕されるストーリーで、スーザン サランドンも レッドフォードも ジュデイー クリステイーも逮捕される。レッドフォードが林を走るシーンがある。本人は走っているつもりだろうが、全然足が上がっていない。年をとったジュデイー クリステイーと、レッドフォードが、ベッドインするシーンまである。やめてくれ。76歳と72歳ですよ。君たち、いまさら何をやっているんですか。人は年をとれば醜くなる。老醜をさらすのは、公害よりも悪質だ。
ともかく、この3D、デ カプリオのギャツビー主演作は、ミュージカルを見ているように画面の移動がスムーズで、豪華でゴージャスだ。アメリカ文学の代表作に触れてみる価値はある
全200件中、181~200件目を表示