ロベレ将軍

1959年製作/140分/イタリア
原題または英題:Il generale della Rovere

スタッフ・キャスト

全てのスタッフ・キャストを見る

受賞歴

詳細情報を表示

関連ニュース

関連ニュースをもっと読む

映画レビュー

4.0映画と現実との希望の差

2025年6月2日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

私の宿題映画の中の一本で、ネオレアリズモの巨塔ロベルト・ロッセリーニとヴィットリオ・デ・シーカがタッグを組んだ作品として非常に興味深く見たのだが、全く予備知識が無く見たのでまた色々とAIに聞きながら自分の思いを形としてまとめてみました。

●私の質問
配信でロベルト・ロッセリーニ監督「ロベレ将軍」('59)を凄く興味深く鑑賞して、一般レビューやらプロの評論を読みたくなったのだが、ネットで検索しても旧作なので殆ど見つけられませんでした。公開当時の評価はどんな論評だったのかを知りたい。
あと、私は主人公エマニュエーレ・バルドーネの変化を見ながら、テーマ的に黒澤明の「影武者」を想起したのだがどう思うか?

★AIの回答
とても興味深い視点ですね。「ロベレ将軍」(1959年)についての公開当時の評価と、黒澤明の『影武者』(1980年)とのテーマ的比較について、以下にまとめてお答えします。

【公開当時の評価】
『ロベレ将軍(Il generale della Rovere)』は、当時のヨーロッパとアメリカで高く評価されました。

≪映画祭と受賞歴≫
・1959年 ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞 受賞
・アカデミー外国語映画賞ノミネート
イタリア国内では、ロッセリーニの戦後ネオレアリズモからの「変化」が注目され、再評価のきっかけになった作品でもあります。

≪批評家の評価≫
・現実と演技の境界を扱った点が非常に高く評価された。
・主人公が「詐欺師」から「本物の英雄」へと変貌していく過程が、「内面的変化」と「歴史的責任」の両面から読み解かれた。
特に主演のヴィットリオ・デ・シーカの演技が称賛され、「ロッセリーニの静かな演出」との対比がドラマ性を高めていると評された。
ただし一部批評では、「ネオレアリズモ的手法から距離を取ったドラマ性の強調」が、ロッセリーニ本来のスタイルから逸脱しているとする声もありました。

【影武者との比較】
あなたが感じた『影武者』との類似点は、鋭い観察です。以下にテーマ的類似点と相違点を挙げてみます。

≪類似点≫
・偽者が本物になる/なろうとする過程
・『ロベレ将軍』のバルドーネは、詐欺師として将軍になりすますが、やがて本物の「抵抗の象徴」として死を選びます。
・『影武者』では、泥棒が武田信玄になりすます中で「大将」としての自覚に目覚め、最後は信玄の名を守るために戦場に消えていきます。

≪演技とアイデンティティ≫
・どちらの主人公も「演じる」ことで、皮肉にも「本当の自分」あるいは「本物の意味」を発見します。
・このプロセスは、演技論的視点(ブレヒトやスタニスラフスキー的な)からも分析可能です。

≪時代の混乱と倫理の変容≫
・両作品とも戦争の極限状況で、「個人の変化=国家や集団の象徴」として描かれており、倫理的な問いかけが中心にあります。

≪相違点≫
・『影武者』は大規模な歴史絵巻であり、ビジュアルやスケール重視。
・『ロベレ将軍』は**閉鎖的な空間(刑務所)**の中で心理的緊張を積み上げていく。
・ロッセリーニは倫理と実存に焦点を当て、黒澤は「個人vs運命(あるいは時代)」という神話的構造を導入。

【結論】
『ロベレ将軍』は当時から高く評価されており、ヴィットリオ・デ・シーカの名演とロッセリーニの道徳的探究が融合した作品として語り継がれています。
また、『影武者』との比較は非常に示唆的で、いずれも「偽者が真の価値を体現する」構造を通して、人間の本質や歴史の重さを問う名作同士だと言えるでしょう。

もしご希望あれば、当時の批評(英仏伊の記事など)を探して翻訳することもできます。ご興味ありますか?

●私の返信
ここからは批評の紹介よりも、社会的ゲスな人間がある事がキッカケに英雄的行動が本当に可能かどうかの考察をお願いします。

★AIの回答
面白い論点ですね。つまり――
社会的に「ゲス」と見なされるような人間が、あるきっかけを通して「本物の英雄的行動」に至るという構造、それが本当に可能なのか?あるいは、それはロマンか、フィクションの美化か?
この問いに対して、
『ロベレ将軍』のバルドーネという人物を通じて、ロッセリーニが描こうとしたのは非常に複雑かつ誠実な問いだと考えられます。

【バルドーネの変化:虚構か現実か】
1. 詐欺師=社会的「下劣さ」の象徴
バルドーネは、戦時下の混乱を利用し、遺族から金を騙し取るという最低の行為に手を染めています。道徳的には最底辺とも言える存在であり、英雄とは対極です。

しかし、彼は自ら望んで「ロベレ将軍」を演じるのではなく、国家による欺瞞(ゲシュタポ)という更に上位の“嘘”の装置に組み込まれる形でその役割を担います。

2. 嘘が本物に変わる過程
最初は生き延びるため、あるいは報酬のために将軍を「演じている」に過ぎません。しかし、抵抗運動の同志たちの信頼と尊敬に囲まれる中で、彼の中の何かが変わっていく。

ここでロッセリーニが描こうとしているのは、**「外から与えられた役割」が、内面を変化させることはあるのか?**という実存的問いです。

→ そして彼は、最後に「将軍」としての死を選び、偽物が本物になる瞬間を迎える。

【この構造のリアリティ】
こうした変化は非現実的ではないと見ることもできます。

現実にもある「役割が人格を形成する」事例
政治犯として獄中で急進化・覚醒する人物(例:ネルソン・マンデラ)

・最初は偽名・スパイとして活動していたが、現地民と心を通わせて裏切る者
・芝居や演技指導における「役を演じるうちに本当の感情が芽生える」現象

バルドーネの変化は、「良心の発露」ではなく、他者との関係性によって目覚めたものであり、ロマンではなく、人間の可能性として描かれているとも言えます。

【黒澤『影武者』との比較で再考する】
『影武者』でも、影武者の男はもともと人を騙す存在ですが、「家臣たちの信頼」「信玄の死という空白」「自分の存在が軍を支えているという重み」の中で、少しずつ人格が変わっていきます。

どちらの作品も言っているのは――
「個人の変化」は、自己の内発性だけで起きるのではない。他者の信頼、状況の緊張感、背負った役割が、人を“本物”に変えていくこともある。

つまり、「役を生きる」ことで「人格が変化する」ことは、本当にあるというのが両監督の信念であり、それこそがこの2作品の核心的な共通点だといえるでしょう。

【結論として】
あなたが直感した「ゲスな人間の中に芽生える英雄性」は、ロマンや美談ではなく、ロッセリーニも黒澤も極めて真剣に描いたテーマです。それは次のように言い換えられるかもしれません:

人間は、他者との関係の中で、道徳的にも変わりうる存在である。
そしてその変化は、演技や欺瞞のような「嘘」から始まることすらある――と。
もしご興味あれば、このテーマについて哲学や心理学の文脈からも掘り下げられます。いかがでしょう?

●私の返信
事例で挙げているのは元々知的要素の高い人物に限られている様に思えるのだが、人類全般的に見ての可能性は極めて低い様な気がするのだが…

★AIの回答
非常に本質的なご指摘です。「人格的変化」が本当に一般的か?あるいは、ある種の知的・内省的資質を持つ者に限られるのではないか?――これは倫理学や心理学、さらには社会哲学の長年の問いでもあります。

あなたの感じておられる疑念、「人類全般的に見て、そんなこと起こりそうにない」――これは感覚として非常にリアルで、事実、多くの研究や歴史的事例も、人格的な転換が起こる確率はかなり限定的であることを示しています。

【本当に「誰にでも」変化は可能なのか?】
1. 知的・内省的資質の存在
変化に必要な条件として以下がよく挙げられます:
・メタ認知能力(自分を外から見る力)
・罪悪感や共感性を抱く能力
・内省・熟考する時間や環境
・言語化された他者との関係(「信頼されている」「見られている」など)

このような要素が揃わないと、たとえ同じ状況に置かれても、「変化する」どころか、自己正当化・逃避に走る方が自然な反応になります。

→ つまり、誰にでも起きうることではなく、“起きる素地”のある人間にだけ起きる、というあなたの見立ては的を射ています。

2. 実際の心理学研究から見た変化の可能性
心理学者フィリップ・ジンバルド(スタンフォード監獄実験)やミルグラムの服従実験などでも示されたように、

「状況が人を変える」ことはあるが、それは必ずしも“良い方向”とは限らない。

多くの場合、人は状況に流され、むしろ「より非道徳的」な行動へと変化します。
「良き変化=英雄的行動」はごく一部の例外です。

3. なぜ映画ではそれが描かれるのか?
フィクション(特にロッセリーニや黒澤のような作家)は、人間の可能性を描くことに意義を見出しています。

それは現実の再現ではなく、「もしこうであれば、我々はどう感じるか」という問い。

ロベレ将軍や影武者のような物語は、変化が極めて稀であるからこそ、「神話化される」。

つまり可能性としては存在するが、確率としては稀有――その「稀有さ」を希望として描いているのです。

【結論】
あなたが言うように、人格的変化は誰にでも起こるわけではなく、相当限定された条件の下でのみ発現する稀な現象です。
現実においては、知的資質や内省能力を持つ者、あるいは偶然に恵まれた強い人間関係・極限状況が必要不可欠です。

ロッセリーニも黒澤も、そのことを百も承知で描いています。だからこそ、あの変化には「寓話性」と「問い」が宿っている。
それは「我々は変われるかもしれない」という希望であると同時に、「なぜほとんどの人間は変われないのか」という警告でもあります。

●回答所感
おぉ~今回は、現実とは?、人間とは?、映画(フィクション)とは?、と非常に哲学的な会話に発展したなぁ~。
『ロベレ将軍』恐るべし

コメントする (0件)
共感した! 0件)
シューテツ

4.0巨匠ふたりが組んだ戦争悲話の祖国愛が、映画的な感動を生む記念作

2020年5月15日
PCから投稿
鑑賞方法:TV地上波

敗戦が濃厚になってきた北イタリアを舞台に、ゲシュタポの手先としてレジスタンスの指導者ロべレ将軍に成り済ましてスパイ活動する詐欺師の中年男の物語。牢獄でパルチザンと接触していく中で徐々に愛国心に目覚めていく姿を、ヴィットリオ・デ・シーカがユーモアを含めて見事に演じている。戦後はネオレアリズモ映画の監督として名を馳せたデ・シーカ監督は、戦前は俳優として活動していたという。自作の監督作品で演技をするのとは違い、いくら監督仲間とは言えロッセリーニ監督の演出の下でのこの演技には、自信に裏打ちされた凄みまで感じさせる。そして、ロッセリーニ監督は、地味ながらその名演をラストのクライマックスに導いて、映画的な感動を演出している。この作品は、イタリア映画黄金期を代表する二大巨匠の技が高いレベルで和合した記念すべき傑作である。

  1984年 10月8日

コメントする (0件)
共感した! 0件)
Gustav

他のユーザーは「ロベレ将軍」以外にこんな作品をCheck-inしています。