「パレード」と「何者」は、なんか雰囲気が似てるな、と思ったのがそもそもの始まり。
どちらも原作を読んだことはないし、「パレード」を観たときは「何者」は未見だったわけで、完全にイメージの問題なのだが。
若者の空気感を「外から観察する」吉田修一と「内から暴く」朝井リョウ、どっちが心にヒットするのか?という純粋な好奇心が目覚め、両方観てからレビューを書こうと思い立った。
ファッションはTPOが大事、と言うけれどその究極形態が「パレード」の5人なんじゃないだろうか。
みんなあの部屋の中で、あの空間にフィットする自分を身にまとう。お気楽な大学生を、恋人を待ち続ける女を、酒乱の芸術家を、堅実な社会人を、根無し草の少年を。
そこに個人の葛藤や闇は許されない。
私は常日頃から、「みんなモブを求めているよな」と思う。生まれてから出会う全ての人を、イチイチ掘り下げていたら身が持たないからだ。
自分が主人公の世界で、繋がりの濃い人たちは「家族」「恋人」「親友」にカテゴライズされ、「親族」「同僚」「知人」になると重要度が下がり、「通りすがり」くらいになると個性は必要とされなくなる。
「通りすがり」レベルの人は無個性で喋らない「モブキャラ」でいてくれないと困るのだ。
だから、モブキャラが目立った行動をすると不愉快になるし、モブキャラに「ポテサラくらい作れ」と言われるとショックが大きい。
こんな事言うようなヤバい人、という「構え」をとる余裕も与えられず、いきなり理不尽な攻撃を受けるからだ。主役がモブに脅かされる、下克上が起こってしまうのである。
「パレード」の5人は親友ほどの友達でもなく、恋愛の対象でもなく、ましてや家族でもない。かといって通りすがりと言うには多くの日常を共有しすぎているし、依存している部分もある微妙な距離感だ。
その距離感を保つために必要なのが、「マルチバース」と直樹が表現する、多面的な人格の使い分け。
あの部屋でのキャラクターは不可侵であり、そこから逸脱することは「良い悪い」に関わらず「ご法度」なのである。
新参者のサトルが、部屋の面々をバカにしたような話を別の友達にするシーンがある。サトルはぬるい距離感で繋がる「仲間」を持たず、孤独だけれどタフに生きてきた。
そのサトルをもってしても「あの部屋はなんだか心地良い」と、独特のぬるくて真実味のない仮面の生活にからめとられていく様は、傍観者として「パレード」を観ている私には恐ろしいことに思えた。
その極めつけがエンディングのシーンに現れていると思う。この部屋を抜け出すきっかけは、皆それぞれ持っているハズだ。なのに、そのきっかけには乗らない。
延々と続くパレードから抜け出さないように、お互いを見張るような目線。
それを「怖い」と思う気持ちは、やっぱり5人のことをあからさまに「違う世界」の事象として見る、吉田修一の目線なのだろう。