傷穴を、開けたり塞いだりする映画だった。 “ 穴 ”を塞ぎたいと思うのは 《生命の発生・誕生と継続のため》の、動物のオスが負っている極めて原始的な、そして猛烈な欲動なのだが、 逆に、 生き物としての死=《終わり》の姿はどうだろうか、 その各所の “穴” は、もう塞がれたり埋められたりする役割はすでに終了し、 内容物が流出することによって腹腔も胸郭も潰れて凹んでゆく。 肺からも空気がすべて抜け出て、その人の呼吸は終わるのである。 寝かされている故人は、お布団をかけられていても、ご存じの通りぺっちゃんこだ。 溢死を図った人の、彼を生き返らせるための口移し人工呼吸の言語を絶した激しい様相を、僕は眼前で見ていた事がある。 ヒュルヒュルと抜け出て終わる人の空気と命を、もう一度膨らませんとする緊急行為だ。 かの旧約聖書の第一巻創世記には、「人類創造の神話」が独特の信仰的寓話の形で語られている。 ・人アーダームは土くれアーダーマから作られた。 ・神はその土くれの鼻穴に息ルーアハ=息,魂,を吹き込まれた。 ・それによって人は生きるものとなった。とある。 あれは、神話記者の実感と実体験からの形容であり、人の生き死にを見てきた記者が表した「口移し人工呼吸」の始りかもしれない。 人は最初の呼吸で生きて産声を上げ、 最後の排気で終息する。 映画は、ビニール人形の破れ穴から命の息が抜け出てしまう様子と、 その破れ穴に息を充填しようと努める人間たちの姿が交互に映っていた。 ・・・・・・・・・・・・・ 古臭い映画だ。 人類は、今ではラブドールも空気人形も必要としない、特異な動物形態になってしまったから。 2次元アイドルに萌えた末には、今では スマホと同居し、 スマホを妄信し、 スマホを愛して、 スマホと性行為をなし、 スマホと共についえて生涯を終える。 是枝監督の本作への着想は、風船型の「南極1号」がまだ製造されていた時分の、最後期の一瞬のものではないか。 その人間型ダッチワイフの終焉の間隙を縫っての、その一瞬を見せた彼の人間観察であったと思う。 しかし、もはやスマホが世の中を席巻し、スマホの機種変の波サイクルだけが人間たちの関心事である。 恐るべきことにそれは生物としての 本能をも超えて僕たちを支配する。 ラブポでさえ夢中になってスマホをいじる男女の「一コマ漫画」を見て、種の終わりを僕は感じた。 もはや主客逆転ですわ。 空気人形はいなくなり、 空虚人間しか生存していない明日が僕には見える。 業田良家ワールドや、松本零士の 男おいどんは、あの特異性や例外性が目を引いていた。 僕は好きな世界だったが、あの四畳半漫画がデフォ化して世界を支配・侵食している様には、やはり残念感しかない。 日本ではナイフ殺傷事件が日を置かずに連発している。 意識感情を持ってしまったビニール人形が最初に行ったのは支配者板尾創路の唇を避ける行動だったわけで、 持ち主に反抗する=意のままにならぬ相手に対しては、支配者側に「殺意」が起こる=あのナイフ事件の様相については まさしく現代の人間関係を映し出す、これは「人」の「形」についてのレポートなのだと思った次第。 人形を演じさせられていたのは“あたまのうすい、たどたどしい日本語をつかうかんこくじん”。かんこくじんをビニール人形に仕立てて主役に立てるならば、日本人男児のお眼鏡には叶うらしい。それは男たちに従順で逆らわないからだ。 「片翼だけの天使」でも感じたちょっと嫌な光景だったが。 しかし いつしか登場人物たちの心象が、このビニール人形に投影されて、 自分が空っぽで空虚な存在だと感じているそのような都会の住民たちに向かって、そのままに優しく息を注ごうとする、是枝裕和の映画作りの視線は温かなものだった。 つまり、「みんな自分に空気入れながら頑張っていたよね」って、是枝裕和からの励ましの映画だから、ノスタルジックで、安っぽくて じんと来るのだ。 時代遅れで あざといからヒットもしなかったのだろう。 スマホがビニール人形の座を奪い、人間のその感情さえ奪い取ってしまう前の、小さなお話だけど。 いかんせん もう終わった古臭い話だけれど。