美智代が信一を連れて福岡の炭坑町に帰ってきたのは、都会での結婚生活に見切りをつけて…ということだったのでしょうか。
彼女は、その間の事情をどこまで守に話をして聞かせていたのか。
また、守は、美智代のそういう事情をどこまで察していたのか。
いずれにしても、福岡のこの炭坑町は、守にとっては決して望んだ新天地というわけではなく、新しい生活環境には、さぞかし不安の大きい移住であったことでしょう。
そして、その不安を打ち消したのは、信一という、新たな友達のキャラクターだったことは、間違いがなさそうです。
明治・大正期にその多くが開発されたわが国の炭坑(石炭)は、いわゆるエネルギー革命(石炭から石油へ)の進展に伴い、昭和40年代後半から同60年頃にかけて全国的に閉
山を迎えることになることを併せ考えれば、守と信一が知り合った昭和30年代の後半には、炭坑会社が生き残りをかけて推し進めようとする合理化政策に対して激しい労働争議が起こるなど、もうすでに、斜陽産業化の兆しが、ほの見えてきていたのだろうとも、評論子は思います。
そんな「炭坑の盛衰」を時代背景として、育(はぐく)んだ守と信一との友情は、とてもとても、とても貴重で、美しいものに思われました。
わが国の産業革命をエネルギーの面で支えた炭坑町の原風景というものを背景として。
本作は、当時に住んでいた札幌のミニシアターで公開になった作品でしたけれども。
バタバタしているうちに、見損なっていた一本でした。
それから幾星霜を経て、やっとこさ鑑賞することができました。(感無量)
その期待に少しも違(たが)わない佳作であったとも思います。
(追記)
かつては「黒いダイヤ」ともてはやされ、海外の政治情勢・経済情勢に左右されない純粋な国産エネルギー(いわゆる「日の丸エネルギー」)としてもてはやされた石炭でしたけれども。
(子供時代の守や信一が、よく三角ベースをやって遊んでいた炭坑会社の(?)グラウンドのバックネットには「出炭目標達成」のスローガンが掲げられていました。)
それゆえに、炭鉱労働者(採炭員)の労働条件は破格で、賃金ベースが極端に高かっただけでなく、住宅をはじめ、冬季の燃料(もちろん石炭)も、すべて無料だったと聞き及びます。(すべて炭坑会社持ち)
長屋形式の炭坑住宅には、間取りの都合からかお風呂はなかったようですけれども。
その代わり、炭坑会社経営の共同大浴場は、料金は無料だったようです。
ただ、もちろんそういう福利厚生の行き届いた住宅も、炭坑会社の「社宅」なわけですから、住み続けるためには、少なくとも家族の一人は炭坑労働者であることが絶対条件・必須条件でなのであって。
そのため、男の子は、父親と同じく、採炭員となることが珍しくない…否、むしろ、それが普通だったとも聞き及びます。
そして、炭坑での労働(採炭作業)は、地底の奥深くでの作業ということで、ガス突出や炭じん爆発などの危険が常に常に、常に伴う仕事だけに事故も少なくない。
そもそも、石炭は、地底深くに埋もれた木材が地熱や地殻変動の圧力で炭化したものに他ならない訳ですから、石炭層があるのは地層が複雑に断層化している部分と相場は決まっています。
そうすると、地圧で圧縮されているのは何も石炭ばかりではなく、その石炭となるべき木材が炭化したときに発生したガスなども、一緒に圧縮されていたりするわけです。
それゆえ石炭を掘るということは、必然的に、それらのガスも突出してくる必然性を否定できないということにもなるわけなのでしょう。
実際、はつのように、夫・大輔だけでなく、息子・信一までもを炭坑に命を取られる(夫は採炭員の職業病であるじん肺(に起因する事故?)によって、息子の信一は炭じんか、あるいはガスの爆発事故に遭って、それぞれ命を落とす)というケースも少なくなかったようです。
評論子は、信一を亡くした事故の時に、不気味に炭坑の上空を覆った黒煙を見上げているとき、そして合同慰霊祭の席上での、はつの表情を、永く忘れることができそうにありません。
加えて、採炭員の、いわば「職業病」として免れがたくつきまとうじん肺の不安と恐怖、そしてその苦痛。
(評論子も喘息持ちなのですけれども。呼吸器系の病気の苦しさ-発作時には息が思うようにできないこと-の苦しさは、経験のない方には、ちょっと想像ができないのではないかとも思います。)
それらの点も、評論子には、深く胸に突き刺さった一本でもありました。
(追記)
評論子は住む北海道も、この「福岡のとある炭坑町」と同じように炭坑(石炭)が、かつては基幹産業だった地域になります。
そして、その北海道は、「炭鉄港」(たんてつこう)と銘打って、かつての炭坑の歴史を「学ぶ観光」の資源として活用しようと、新たな取組みを始めたところです。
その点でも、炭坑町が舞台として設定されていた一本として、評論子としては、関心深く鑑賞できた一本にもなりました。
(追記)
全編を通じてヤマ(炭坑)での人々の暮らしを描いた本作でしたから。
それだけに、本作のタイトルに含まれる「セレナーデ」には、少しく違和感もありました。
ウィキペディアには、セレナーデは小夜曲ということで、「夜に恋人の為に窓下などで演奏される楽曲」とあります。
信一が「都会的なお母さん」であった守の母・美智代に寄せるほのかな思慕をいうもののようですけれども。
しかし、タイトルとして取り上げるほどの本作のレイシオ・デシテンタイ(訴えかけの中心となるもの)であったとは、言えないようにも思いました。