「WELCOME TO THE PLANET」マン・オブ・スティール f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
WELCOME TO THE PLANET
クラークは,クリプトン星における数世紀のあいだで初めて,自然出産によって生まれた子供である。人口出産で生まれた人間とは異なり,彼には役割がなく,決められた生き方もない。彼に込められた願いこそ,「自分の生き方を自分で決める」という「自己決定」である。
対してゾッド将軍は,軍人として設計され,軍人として育成され,軍人として生きてきた。「クリプトン人を守るために戦う」という目的を失うと,生き方を見失ってしまう。ゾッド将軍に対するクラークの勝利は「決められた生き方にしたがう」という生き方に対して「自分で決める」という生き方が勝利することを象徴している。
クラークにとって,クリプトン星人は同胞である。地球人は,クリプトン人由来の能力を発揮すれば彼を迫害するであろう。クラークが自分自身でいる(自己実現)することを、地球人は許さないのである。それでもクラークは地球人の側に立とうと選ぶ。これが自己決定である。
育ての父は,クラークに「能力を発揮するな」と伝えた。その父の教えに逆らい,能力を発揮することを決めた。これもまた自己決定である。(超人のみに許される自己決定だが……)
クラークは父を救うことができなかった。「あのとき能力を発揮していれば」「あんなことはもう2度と起こしたくない」「母やロイスを守りたい」かつて自分が果たせなかった願いを成就する。個人的に思い入れのある地球人を守る。そのような個人的な感情にしたがって将軍に反抗することが,結果的に全地球人を守ることになるのである。
クラークは「クリプトン星人」という帰属,血統やルーツよりも,自分の思い入れのある人々のそばにいることを選んだ。彼が能力を発揮することで,地球の人々は彼を脅威だとみなし,彼を迫害するかもしれない。それでも自分の能力を発揮した結果を受け入れようと覚悟した。自分の行動の結果を受け入れる。これは自己決定のキモであるように思う。
自分をすみに追いやってきた地球人たちのために生きることを選んだクラーク。それはクラークがようやく,周囲の人々を受け入れた瞬間である。そんな彼に報いようと,ロイスもまた「地球人はあなたを受け入れる」というメッセージを送る。それがまさに「Welcome to the planet!」というエンドロール直前のあのセリフだったのだ。
★表面上は「プラネット紙にようこそ」という意味だが、「異星人であるクラークを地球に迎え入れる」という意味でもある。が、何より重要なのは「ようやくクラーク個人が地球人に受け容れられた」、いや、「クラークが地球人を受け容れた」ということを示すセリフだということだ。この映画のすべてが集約されている★
(ついでに言えば、リブート版スーパーマン第1作としての始まりを告げるセリフでもあったはずなのだが……)
*
この映画はアクションシーンに満ちた映画である。しかし「アクションだけ」だと浮わついた映画になってしまう。そうならないよう,上述したような設定を練りこんでおく。これによってドッシリと重しのある映画になるのである。ヒーロー映画でありながら,小説的な象徴に満ちた映画になっている。
ヒーローが戦うに至るまでの過程を緻密に設定し,また幼少期・青年期のトラウマ体験を現在の行動決定に反映させる。これは製作のクリストファー・ノーランが,自身の監督作品『バットマン・ビギンズ』(2005)で行なったのと同じことである。
観客がヒーロー映画に期待するのは,敵をなぎ倒す爽快感であるかもしれない。この映画について言えば,それは薄いだろう。戦闘は派手ではあるけれども,いささか爽快感には欠ける。どちらかというとストレスフルで,クラークは苦戦することが多い。それよりも「彼個人の思いや感情」という心理的な面において観客がカタルシスを得ることに狙いが置かれているように思われる。
このような製作者側の意図と,観客のニーズとのあいだにギャプが生じているとすれば,それはこの映画がしばしば「つまらない」と評価される所以であるかもしれない。(とは言え,派手なアクションさえあれば映画が面白いかというとそういうわけではない場合もあるだろう)
ヒーロー映画らしい戦闘の爽快感と,主人公の心情に寄り添った1つの物語として破綻のないプロット。これら2つを両立するという映画製作上の1つの課題が浮き上がってくる。
(1つ言うとすれば,画面はここまでブルーでなくとも,製作者の意図は伝わったのではないかと思う。)