ノーカントリー : インタビュー
常識を超えた暴力を見せつけられ、諦観と使命感の間で苦しむ老保安官ベルを円熟の演技で体現した名優トミー・リー・ジョーンズ。彼の考える老保安官ベルの心中とは?(編集部)
トミー・リー・ジョーンズ インタビュー
「善はいつも同じ顔であるのに対し、悪は常にその顔を変えるんだ」
※以下、原作や映画のネタバレを含みますのでご注意ください!
――これまでテキサス人法執行官の役をたくさん演じてこられました。また同じような役を演じることに迷いはなかったですか?
「少し考えたが、大した問題ではなかった。コーマック・マッカーシー原作の映画に出演できるなんて、とても魅力的なオファーだったからね。とりわけ、コーエン兄弟と一緒ではね。実はコーマック・マッカーシーとは知り合いで、僕がサンタフェにいるときはいつも朝食を共にするんだよ。彼は、まさに当代きってのアメリカ最高の小説家だと思う」
――マッカーシーの作品は映画のようだとよく言われますが、「血と暴力の国」はおそらく最も映画的な作品ではないでしょうか?
「もちろんだ。初めてこの本を読んだ時、脚本の準備稿かと思ったくらいで、コーマックがなぜそんなことをするのか不思議だった。だが、もしこれが脚本の準備稿なら、今まで読んだ中で最高の準備稿だと、思い直したよ」
――物語にある保安官ベルのジレンマについてはどう思いますか。まるで高潔さが廃れた世界で高潔な人間であるべき道を見つけようと葛藤しているかのようです。
「そこが、彼が初めにジレンマと考えているところだ。だが、話が進むにつれ、彼の視野は少し開けてくる。コーマックの原作もこの脚本も映画も、道徳性を考察している。保安官ベルは少し気後れしているんだ。彼は、麻薬が川向こうから入ってくるのを見るのも、我々の子供達に彼らが恐ろしいことをするのにも慣れていないからね。それに麻薬取引の金を巡って時と場所を選ばず殺し合う人間にも慣れていない」
――コーエン兄弟の独創性に惹かれていたそうですが、彼らとの仕事はいかがでしたか?
「彼らは完璧に準備する。クリント・イーストウッドと僕以外で、彼らほど十分に準備する監督がそれほど多くいるかどうかはわからない。ふたりはロケ地に行き、カメラをセットし、俳優をカメラの前に立たせ、カメラのファインダーを覗いてから、いいショットを探すような監督ではないんだ。一日が始まる前に、その日にすべきことを皆十分わかっている。彼らは徹底した準備段階で僕の考えを確認し、僕に関する限り、彼らはリラックスした思いやりのある態度で、すべてのことをきちんとやった。だから、違ったやり方でやろうなんてまったく思わなかった」
――あなたが演じる保安官ベルは、世の中を、そして外見的には釣り合いがとれて見えない善と悪の戦いを、懐疑的な目で見ています。この映画を最終的には悲観的な映画だと捉えていますか?
「前にも言った通り、ベルは少し気後れしているんだ。ここで断定できるのは、善はいつも同じ顔であるのに対し、悪は常にその顔を変えるということだ。つまり、保安官ベルの目に映っているものは、変貌する悪の顔なんだ」
――映画の中で、彼の物の見方は変わりますか?
「映画が終盤に向かうころ、彼は叔父に会いに行く。叔父は彼に言う。彼の考え方は虚しく、じつは彼が宇宙の中心にいるわけでもなく、お前だけがそうではないのだと。それから、叔父は人里離れたところに住んでいた自分の叔父の話をする。馬に乗った6人の男が近づいてきて、ポーチでその叔父を撃ち殺し、妻の腕の中で血を流す彼を置き去りにした。僕らには三流西部劇のワンシーンのように聞えるが、もしその日そこに居合わせたなら、悪の正体を見た気持ちだろう。悪の別の顔だというだけだ。それが、この小説の一部であり、この映画の道徳性への考察でもある」
――つまり、“年老いた人間にとっての土地はない”(『原題:No Country for Old Men』の直訳)ということですか。あるいは、悲観的になるのは、単に老いることの一部なのでしょうか?
「僕はこの映画の舞台となった土地のことはよくわかっているし、今までそこで暮らしてきた。そこでとても楽しく暮らしている老人をたくさん知っている。実際、僕ももうすぐ、そんな彼らの仲間入りをしたいと思っているよ」