果たして、イライザはレディになれるのか? 第1幕はそのドキドキハラハラで引っ張る。 舞台劇からミュージカルになった原作の映画化なので、地道な特訓風景を見せるのではなく、誇張された特訓と、鬼教官への恨みつらみを面白おかしく見せてくれる。(ここの歌はニクソンさんではなく、ヘプバーンさんの歌だそうだ。ニクソンさんの歌は、『I could have danced all night』からとDVDのコメンタリーにて) そして、階段の踊り場から見下ろすヒギンズの視線が最高。中高時代のあの高慢ちきな嫌な教師を思い出す。 競馬場でのやり取りもおかしい。話題は「天気と健康だけ」とふっておきながら…。 そのうえで、大使館での舞踏会へ向かうシーンで休憩。これからどうなるんだ? 舞台でもここで幕間になるのかな?
そして第2幕。 大使館シーンでのイライザ。 ”実験”の成功を喜ぶヒギンズと大佐。そこに、実験協力者へのねぎらいはない。イライザを”プリンセス”と呼ぶことで賛辞しているつもりのヒギンズと大佐。でも目線は合わせない。輪の中にも招き入れない。『The rain in Spain』の時との違い…。 ここでの、ヘプバーンさんの表情・仕草が見事。それまでも各シーンごとにイライザのその時の心情を見事に表現…競馬場での気後れしないように妙なテンションを維持している様子とか、大使館でも不安でヒギンズを視線で追っている様子とか…していたけれど。もう、ここだけでアカデミー賞ものだよと思うのだけれど、アンドリュースさんの十八番を奪うというのは反発があったのだろうな。ましてや、映画界においては新人(アンドリューさん)の当たり役を、ドル箱スター(ヘプバーンさん)が奪ってしまったのだもの。『メリーポピンズ』も後世に残る名作中の名作だし。
特訓で、レディになったイライザ。シンデレラストーリーならここで大円団で幕。でもまだ話が続く。というより、ここからが本筋。 上流階級に留まれば、いつ素性がばれやしないかと怯える日々の始まり。サスペンスものなら、ゆすりのネタにされ、物語が始まってしまうシチュエーション。けれど、ヒギンズは実験が成功したことだけしか頭にない。イライザの立場の不安定さになんて思いも巡らせない。 失意の中で、元の街に帰るイライザ。けれど、そこにも居場所はない。 ステイタスを変えて、イライザが得たもの・失ったもの。切ない。 そして、ヒギンズの母の家での掛け合い。ヒギンズが放つある一言に、顔色をさっと変えるイライザ。ヘプバーンさんのここにも鳥肌。ニクソンさんの歌も表現力があって痺れるが、やはりヘプバーンさんの土台があってのことだろう。DVDのコメンタリーによると、ヘプバーンさんが歌ったものを参考にしてニクソンさんが歌ったり、一緒にいろいろ話したりして役作りをしていったのだそうだ。 そしてラストへ。ヒギンズの、小学校5年生か?!というようなたわごとが続く。でも、ヒギンズが忘れられないのは、レディとなったイライザではないところがミソ。『A hymn to him』と歌っていた内容と比べると、まだ、完全なる目覚めまでは言っていないけれど、ほのかな気づきが可愛い。 イライザは、冒頭『Wouldn't it be loverly?』で「やさしくじっと抱きしめてくれたらいいな」と歌っていたが、抱きしめてあげる方に回る決意をしたのかな? ヒギンズの母の家でのやり取りの後では、ちょっと意表を突かれるラスト。大元の戯曲とも違い、原作者は不満だったそうだ。レビューでも賛否両論と聞く。私自身は「これはこれであり」と思う日もあり、「え?なんで?」と思う日もあり。
と、ヘプバーンさんを誉めそやしているが、 やはり、唯一無二なのはハリソン氏。 第一幕の、偏屈で傍若無人な研究者。でも、イライザパパとのやり取りとかは、目がまるでいたずらっ子のように輝いている。音楽にのせての台詞(『A hymn to him)も小気味いい(言ってることは、はあ~ぁ?という自己中炸裂だが)。理科室にありそうな半分になった頭部の模型を手に持ち、「どうした、どうしよう」と歩き回る様もおかしい。 第二幕では、お坊ちゃま度炸裂。「ママ!」と叫ぶ場面なんて、ハリソン氏以外にはできないだろうと思う。 そんな傲慢さとおばか様とも言いたいお坊ちゃまを一人の人物として演じられるのは、この方以外にはいないであろう。
そんな二人をとりまく人物たち。 大佐。品の良い間の抜け方。この方も自己中なのだが、ヒギンズよりはバランスが取れている。最後に昔の知古に走るところがいい。 ヒギンズ家の家令・メイドたち。常識人だが、ヒギンズのやりたい放題を許している点では、どこか間が抜けている。でも、ヒギンズを心配し、イライザを丁寧に面倒見ているところは、観ていて気持ちが良い。 自分の息子をふって、自分の足で歩きだす決意をしたイライザを「偉いわ、イライザ」というヒギンズの母もツボ。ヒギンズに対して愛情を持っているのに塩対応。その加減がおかしい。気持ちが良い。でも、結局大使館等で助けてしまう。イライザに注ぐ目線が優しい貴婦人。品の良さに憧れを抱いてしまう。 イライザに恋するフレディ。冒頭で、イライザの花を台無しにした人だよね。この映画の筋ではいらないんじゃないか、美貌にふらつく新しもの好き(今まで接したことのない言葉)の軽薄男の代表として出ているのではないかと思ってしまう。だが、大元の戯曲だと、イライザはヒギンズをふって、フレディと結婚するらしい。フレディのどこにひかれたんだ。「やさしくじっと抱きしめてくれたらいいな」を実現してくれた人がフレディなのだろうか? イライザの父。「運が良ければ、子どもに養ってもらえる」という毒親だが、それなりの節度を保っている。イライザを売ってまで遊んで生活しようとは思わない。意図せず、大金持ちになって、「たくさんの人に奢らなければいけなくなってしまった」と嘆く。責任から逃げ回っているのだろうか。特に『Get me to the Charch on time』では結婚式に向かう行進が、葬列のように描かれている。イライザの悲酸な生育史や環境を描くだけなら、孤児にしてもいいものを。どうして父の設定をこのようにしたのだろう。男の結婚観・家族観をヒギンズとは別の形で表現したかったのだろうか?演じるホロウェイ氏は、DVDの解説によると、この時、聞こえずに周りの反応を見て演じていらしたとか。ステップも踏めているところと省略しているのでは?というところと。それでも、同じシーンを演じている人々が、ホロウェイ氏を尊敬して、このシーンを作り上げている様が感じられるし、”聞こえていない”ことを微塵も感じさせないところに、震えてしまう。何度も見返したいシーンの一つ。