パルプ・フィクションのレビュー・感想・評価
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「タランティーノだなぁ笑」って言える
『運命じゃない人』っていう映画と似てるような構造かな。バラバラがつながる系。そういうの大好きなんで面白かったけど、グロが苦手なので(タランティーノなら仕方ないが)☆4で…。笑
当時はこういう脚本が斬新だったようで。リアルタイムで観たら衝撃だっただろうな。
『バックトゥザ・フューチャー』、『インセプション』とならぶ、「映画最高!」って毎回観るたびに思わせてくれる傑作。音楽も超カッコイイしね〜。
くだらない、なのにそこがいい。
3つの出来事が交差して繋がりを持つ作品、クスリ、銃声、ギャング映画としては少しパンチも薄い気がするが、ものすごいくだらない言い合いや f**kが反発する会話もなんとも面白い。
そもそもパルプ•フィクションって言う題名もくだらない話って意味だもんね。
色々忘れてたけど…やっぱり好き!
みたーー!!!!
早起きの機運が高まっておりこれは明日いけるな!と思って前日にチケット買った!奇跡的に普通に起きられた!(午前10時に映画館に到着するのが不可能に近いため大体チケットを予約しても寝坊してしまう)
生まれつき病的に血が苦手なので生まれてこのかたタランティーノだけは避けてきたんだけど、この映画クソほど面白い クソほど面白い、って粗暴な褒め言葉がこんなに似合う映画なくない?本当に見てよかった
今より前に見てたら「グロい、残酷、無理、思想を感じない、苦手」ってなって更にタランティーノを避け続ける人生になったと思う
名作(と言われる映画)、観てピンとこないなんてよくあることだけど、時代の洗礼を受けて時を超えて多くの人から支持されるのにはそれなりの理由が絶対ある。自分は自分の人生自分の年齢までしか生きていないのだから、今見てピンと来なかったとしても判断を急ぐべきではない、分かるタイミングがかならずいつか来る、ということを思った。
タランティーノ自体はしらんけどこの映画は本当にクソ面白すぎてヤバイ 何が面白いってクソほど意味がないところ!意味がないのになんでこんなに面白くできるの?!天才すぎる キャロル以来ひさびさに「こんな面白い映画を作り出す人が世の中にいるなんて…」と思ってエンドロールで涙出た クソ面白すぎる
3度目の鑑賞。 最初観た時は、⁈と思って内容もすぐに忘れてしまいま...
シッポの先までタランティーノ
タランティーノ、好きかな、鯛焼き。もう、隅から隅までタランティーノ。皆んなよく喋るし喚くし。そもそも台詞量が容赦なく多いし、地味に長いワンカット。これでもかの詰まり具合だから、食い方によってはもたれます。
「安い話」の登場人物は、揃いも揃ってパープリンの鳥頭。確率論上も、合理性でも、逆手を打って問題を大きくします、掃除屋ウルフを除き。
形見の時計をハノイから持ち帰ってきたのがクリストファー・ウォーケンとか泣かせるし、サミュエル・L・ジャクソンの髪にはおったまげた。
結局、何の話なのかは良く分からないんだけど、聖書に語らせる物語りじゃ無いよなぁ。脳味噌ツルリンな人物が織りなす、先読み不能なマフィアストーリー、ファビアンだけは無事であります様に!の願いが叶って良かった。
午前十時の映画祭にて。
最高だ
劇場公開で見て、その後も2~3回ビデオやDVDで見ているのだが、ここ10年くらいは見返していなかった。しかし、サントラはずっと聞き続けていたため、音楽がかかるたびに「ここか~」という感慨に浸った。
改めてみると、よく喋る登場人物ばかりで、意地悪く解釈すると登場人物の人格が一人だけに見えなくもない。立場が違うだけで中身は一緒みたいな感じもする。しかしそれでもたまらなく面白いので全然OKで、特に古物商の下りは最高だ。
上映期間中にもう一回見たいな~。
2019/02/01~28まで午前十時の映画祭9で2週間だけ再上映します!
一度見ただけじゃわからなかった。
時系列をごちゃまぜにしたタランティーノの集大成のような映画。最初に観たときには、なぜ死んだはずのトラボルタがまた出てくるのかと悩んでしまったくらいだ(恥)。
ストーリーはボスのマーセルス(ヴィング・レームズ)を中心としたオムニバスと考えれば、トイレットペーパーの巻かれた紙が隣合わさるようにクライムストーリーが絡み合う。ボスの女ユマ・サーマンとデートするビンセントの話が一番スタイリッシュだが、ブルース・ウィリスのハチャメチャな場面やタラちゃん本人のシーン、金時計のクリストファー・ウォーケン、掃除屋ウルフのハーヴェイ・カイテルと会話を楽しめるところが満載。一度観ただけでずっと残りそうな映像ばかりでもある。
タランティーノが映画を抱いていた頃の最高のFxxK!!
この映画を見たのは高校2年生、16歳のとき。
ビデオ屋で借りてきたVHSで見るというパルプフィクションを視聴するには最高の環境だった。
まず登場人物がカッコいい。細い黒ネクタイを締めたスーツの殺し屋、革ジャンを着たボクサー、ギャングのボスの情婦で薬中の女…。出てくる奴が皆カッコいい。
出てくる小物もカッコいい。タバコ、銃、麻薬、クラシックカー、腕時計…。
そしてストーリー。今まで見てきたどの映画とも違う。いやどの物語とも違う。
主人公は誰なんだ、オチは何なんだ、どれも明確ではない、が、面白かった!
当時はなんで面白いのか分からなかったが夢中になった。
ガンプラから卒業してエヴァンゲリオンとマトリックスの衝撃から日が経っていた高校生の「この世の中なんてクソみたいな所だぜ」という青臭い価値観にバッチリとはまった。
「パルプフィクション」は俺の人生最高の一作になった。
タランティーノの虜になった俺は彼の他の映画も追っかけるようになった。
レザボアドッグス、フォールームス、ジャッキーブラウン。どれも感動した。独特の雰囲気があった。香ばしいコーヒーを飲んでいるような、映画を見ているその瞬間をとても心地よくさせてくれた。そうジャッキーブラウン迄は…。
今回、長文になりますがタランティーノについて自分の考えをまとめてみます。
タランティーノと言えば映画オタクのビデオショップ店員で勤めていた店で朝から晩までB級映画を見て、その豊富な映画知識の引用によって映画を作っている、というのが彼を語る上でよくに言われるエピソードである。
が、それ以外にも彼の作品を理解する上でタランティーノが歩んできた人生の重要な要素がある。それは彼が元々舞台俳優だったということである。
タランティーノの経歴をざっとまとめる。超天才少女のお母さんが10代の頃に産んだのがタランティーノでそこからお母さんが付き合うヤンチャな彼氏達を父代わりに育つ。至福だった幼稚園時代を経て小学校、中学校と登校拒否に。その間ずっとZ級映画を見たり、ハードボイルド系の低俗小説(パルプフィクション)を読みふけったりして普通は高校に行く年頃には学校に行かず、俳優学校に通っていた。
その後、有名なビデオ屋でのバイト時代を経てマーティンスコセッシ主催の映画ワークショップで映画作りを学び、シナリオライターとしてハリウッドに入る。そしてレザボアドッグスのシナリオがハーヴェイカイテルに認められ映画監督デビュー、というのがざっくりではあるがタランティーノのデビューまでの経歴である。
以上を踏まえた上でタランティーノの映画を考えてみる。
彼の得意な会話劇というのは大学などで映画・映像を学んだ人間は書かない、というか書けない。映像はカットを切り替えたりアップに出来たりと編集が出来る。また作り手が伝えたい心情を画や雰囲気で観客に伝えることができる。また一人の俳優が喋る分量が多くなると観客は飽きてしまうのでセリフは多くても3行までと教わる。
ところがこれが舞台となると少々事情が変わってくる。俳優も画もアップに出来ない、場面も編集出来ない。背景も変えられない。そんな制約の中で観客を退屈させず引っ張って行くには、
・セリフ
・構成
・ストーリー
・演技
上記で引っ張っていくしかない。
と、ここで考えて欲しいのはパルプフィクションという映画の面白みがこの上記4点にあることである。
例えばパルプフィクションが下北沢の小劇場でやっていたらと考えて欲しい。かなりしっくり来ると思わないだろうか。パルプフィクションは舞台劇を映画に持ってきているのだ。
パルプフィクションだけではない。タランティーノ作品は舞台劇でも成立する演出である。このセリフ、構成、ストーリーで観客を引っ張るというのは三谷幸喜、宮藤官九郎等、小劇場から出てきた才能のある脚本家に共通している要素だ。タランティーノは過去のB級映画の豊富な知識の引用だけではない、舞台人としての才能が彼の作品を他より秀でているものにしている。
ところがキルビルからどうも彼の作品に乗れなくなった。まず、感じたのは作品へのアプローチが変わってしまった点だ。
ジャッキーブラウン以前は元ネタはあってもそれを彼の中で咀嚼していた形跡があった。
が、キルビル以降はどうも咀嚼した形跡が見られない、というか元ネタに縛られてしまっているように感じる。
キルビル以降の彼は自分の好きなB級映画や映画の鑑賞体験を作り直す作業を始めた。
キルビルは日本の昭和ヤクザ映画、イングロリアスバスターズは欧州製第二次世界大戦映画、ジャンゴはマカロニウェスタン、ヘイトフルエイトは戦前の超大作昔映画の鑑賞体験、グラインドハウスはZ級の低俗映画を2本立て、3本立てで立て続けに見たときの体験を観客に与えようと意図して作られている。
が、これらの作品は元々、映画的演出で優れていた。それを強引に舞台演出でリメイクしてしまった為に歪になってしまっている。
キルビル以降の映画でも良い場面は長回しの会話劇、つまり舞台演出の場面だ。
又、これら元ネタの映画がほとんど復讐劇を描いている点も彼の才能を殺してしまっている。
元々タランティーノの殺しにはカタルシスが無かった。人を弾みで撃ち殺しても「ヤベェ、撃っちまった」とまるで犬のフンを踏んだような乾いたリアクションで描いていた。
そんな男が感情を高ぶらせて人を殺める復讐劇を描くのは難しかったのではないか。
オタクという言葉に感じる感情について考えると彼の映画へのアプローチが説明しやすい。
例えば好きな女性が居た場合、どのようなアプローチをするか考えてみる。
まず1つ目のアプローチ。相手が嬉しかったり心地よいと思われることを行い意思の疎通をして、告白して相手の感情の是非を確認してお付き合いをする。その過程で拒否される、自己が傷つくこともある。このアプローチには好きになった女性という他者との接触がある。
2つ目のアプローチ。彼女を遠くから見て写真を撮ったり、言って欲しいことを妄想したり、姿をかたどったフィギュアを作ったりする。このアプローチでは好きな女の感情はどうでも良い。自己の感情を満たすためのアプローチであり傷も追わない。要するに自己満足である。
この2つ目のアプローチが近年のタランティーノには多い。キルビル以降の彼は映画オタクとしての欲求が勝ってしまい、映画の受け手である観客の方を向かなくなった。なんというか最初、タランティーノは映画と付き合ってSEXもしていたのに、いつの頃からか映画の追っかけをするキモオタになってしまった。
では何故、タランティーノが元ネタを咀嚼しなくなったのか考えてみたい。
それはしなくなったのではなく、出来なくなったのだと考えている。
その理由は彼を支えていた二人の人物の喪失である。
一人目はサリーメンケ。彼女は編集スタッフでレザボアドッグス、パルプフィクション、フォールームスでタランティーノ作品の編集を担当した。
彼女は舞台演出を映画に持ってきても通用する編集ができる重要なスタッフだったが、不幸なことに2010年に56歳の若さで亡くなってしまった。
もう一人はロジャーエイヴァリー。彼はタランティーノのビデオショップ時代の友達でパルプフィクションの共同脚本執筆者である。彼はパルプフィクション以外にも初期タランティーノ作品の全てに関わり、シナリオを一緒に作っていた。しかし、パルプフィクションのシナリオクレジットをタランティーノが独占しようとした為に険悪になり喧嘩別れしてしまった。ロジャーエイヴァリーはパルプフィクションの中であのブッチの金時計のパートを執筆している。
タランティーノは彼の才能・舞台演出を用いた映画を可能にする二人の重要なスタッフを失ってしまった。
現にジャッキーブラウン後の一時期低迷している。それは今までのノウハウで映画を撮れなくなった為に次にどのようなアプローチで映画を撮ろうか悩んでいたのではないか。
そんなタランティーノが選んだ新たなアプローチは昔のB級映画や映画の鑑賞体験をハリウッドでリメイクするという手法だった。
この手法はタランティーノに一つの幸運をもたらした。タランティーノはオタク気質の映画評論家から俺たちが作って欲しいものをハリウッドで作ってくれている男、映画オタクの俺たちの代表者という好意的な仲間意識で見られるようになった。
そのためタランティーノが作る映画を分からないようでは映画を語れない、語る資格がないとタランティーノを批判しにくい状況が出来上がった。
それが映画として歪な仕上がりでもタランティーノの映画は好意的な評論が出やすいのだと思う。
映画好きの仲間内ではそれで良いのかもしれないが、普通に生きている一般人にはその絶賛が届かない。
彼がここまで自由に映画を撮ることが出来たのも、ハーヴェイワインスタインという男の存在無くしては語れない。
ワインスタインのミラマックスはタランティーノを発掘して製作会社になれた。またタランティーノはワインスタインに見出され映画監督として世に出ることが出来た。
相互に影響しあい映画産業の中でのし上がっていった両者だが、今、その片輪が外れた。
これからタランティーノはワインスタイン抜きで映画を撮らねばならない。
これはタランティーノがもう一度、傑作を取れる最後のチャンスだと思っている。別のプロデューサーの元で映画に逃げないで、立ち向かって欲しい。
ジュールスのように自身に銃口が向けられていても覚悟を決めて真正面から立ち向かって欲しい。
その時、タランティーノはまた傑作を撮ってくれると信じている。
94年、映画と最高のFxxKをかましたこの作品のように。
斬新な構成、映像、監督の才能を感じる
スプライトとハンバーガーは最強の組み合わせ
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