中国女

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中国女

解説

ジャン=リュック・ゴダール監督が、毛沢東主義をはじめとする新左翼思想の勉強会をするパリの若者たちを描き、1968年にパリで起きた五月革命を予見したといわれる作品。

中国が文化大革命の最中にあった1967年、夏。哲学科の大学生ヴェロニク、俳優ギヨーム、経済研究所に勤めるアンリ、画家キリロフ、元娼婦のイヴォンヌら5人の若者が、パリのアパルトマンで共同生活を始める。彼らは勉強会で議論を交わしあう中で、次第に毛沢東主義に傾倒していく。やがてヴェロニクは、ある文化人の暗殺を提案するが……。

ゴダール監督の当時のパートナーであるアンヌ・ビアゼムスキーがヴェロニク役で主演を務め、「大人は判ってくれない」のジャン=ピエール・レオが俳優ギヨーム、「彼女について私が知っている二、三の事柄」のジュリエット・ベルトが元娼婦イヴォンヌを演じた。1967年・第28回ベネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞。

1967年製作/90分/フランス
原題または英題:La Chinoise
配給:アダンソニア、ブロードウェイ
劇場公開日:2023年4月23日

その他の公開日:1969年5月30日(日本初公開)

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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(C)Gaumont

映画レビュー

3.0ゴダール×毛沢東 in 1967。政治の季節に「かぶれた」若者たちと映画監督のリアルを刻印。

2023年5月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

文化大革命。
今2023年の日本で、60~70年代に中国に吹き荒れたあの革命の嵐に肯定的な評価を与える人間は、そうそういないだろう。早稲田や京大の教授陣あたりには、今でもシンパがまだ残存してるのかもしれないけど。

でもあの熱に駆られた政治と暴走の時代に、遠く欧州の地で猛烈に文化大革命に共鳴し、毛沢東に傾倒していった、知性で鳴らした映画監督――むしろ観客には歯が立たないくらい頭が良いと考えられていた監督がいる。
ジャン・リュック・ゴダール。

「あの」ゴダールが「あの」毛沢東にハマって、実際に政治闘争に身を投じたうえ、映画監督として最も脂ののっていたはずの10年間を(傍目から見れば)あたらムダに浪費しただけに終わったという事実は、僕を困惑させる。
なんだかなあ。
頭良いってなんなんだろうね?

知識として、60~70年代に、星の数ほどの「知性」がマルクス主義ないし毛沢東主義の洗礼を受けて、学生運動に身を投じていた事実があることは一応わかっているつもりだ。
日本においても、名だたる知性が、全学連だ全共闘だと破壊活動に従事して、超真剣に革命とテロルの有効性について膝を突き詰めて語り合っていたわけだ。

でも自分の好きなジャンルで、自分の好きな作家なり監督が、極端な左派思想にかぶれていた(もしくは今もかぶれている)と知るのは、やはりどこか居心地の悪いものだ。
本格ミステリにおける笠井潔とか。芸能界における吉永小百合とか。
(新興宗教にはまった景山民夫とかもそうだけど)
そして、映画におけるゴダールとか。

あれだけ難解さの極みのような映画でマウントをとってきて、観客に「この人の知性にはとても太刀打ちできないな」と思わせ、精神的に調伏してきたゴダールが、文化大革命「なんか」を支持し、毛沢東「みたい」な手合いにマジで傾倒してただって?
なんで? 本当に? どのへんに?
なんとなく、頭ではわかっても腑に落ちない部分はいつまでも残る。

今の日本における文化大革命の相対的な評価は、文化改革運動を詐称した毛沢東による権力闘争であり、若い近衛兵たちを洗脳・調教・煽動して起こした官製暴動であるというのが、妥当なところだろう。自国民2000万人を死に至らしめた虐殺と粛清の時代。毛沢東は、ヒトラーやスターリン、ポル・ポトに肩を並べる規模のただの独裁者であり、ただの人殺しである。現代のプーチンなどまだまだ及びもつかない次元の「巨悪」の一人といっていい。

だが、60年代ヨーロッパの新左翼に毛沢東が圧倒的な影響を与えたのは、まぎれもない事実だ。フランスの五月革命と、アメリカのベトナム反戦運動、日本の安保闘争は、ほぼ同じ時期に展開し、「1968年」という象徴的な年に臨界点を迎えた。
フランス五月革命においては、毛沢東とチェ・ゲバラがアイコンとして機能した。
マオイズム(毛沢東主義)をテーマとするゴダールの『中国女』は、まさにその前年、1967年の革命醸成の時期に、きわめてアクチュアルでヴィヴィッドな「学生の今」を生々しく映し込む形で撮られている。
そう、ここで描かれている「新左翼にかぶれた学生運動家」たちは、戯画でも回顧でもなんでもない。1967年のパリの学生は、本当に朝から晩まで政治的討論を重ねながら、文化人暗殺を大真面目で論じ、政治的な季節のただなかで目を血走らせていたのだ。
これは、舞台劇的な演出で概念化されてはいるが、まぎれもない「ドキュメンタリー」なのだ。

― ― ― ―

『気狂いピエロ』でも、画面に満ちあふれていた三原色。
赤。青。黄。
それぞれの色は、新たな意味性を付与され、
「政治の色」に映画が染め上げられる。
毛沢東語録の赤、赤、赤。
近衛兵の赤、赤、赤。
そこに、なんらかの象徴性を帯びた黄色と、青色が、交じる。

『中国女』は、ゴダール映画のなかでもきわめつきにファッショナブルな映画だ。
赤。青。黄。
政治色は、実際の色彩として映画を染め上げ、美しくPOPに彩る。
あふれかえる政治的グッズ。サングラス。毛沢東語録。キャッチフレーズ。
政治が、消費的なユースカルチャーと直結し、ファッション化している。
60年代対抗文化のもつある種のパラドクスが、『中国女』にも刻印されている。

この映画の真に面白いところは、基本的にはマオイズムへの共感と過激な学生運動への好感に裏付けられた映画でありながら、ゴダールの生来の「賢さ」が、その背後にひそむ「欺瞞」や「矛盾」、若気の至りとしての「未熟さ」「傲慢さ」をも(意図してか意図せずしてか)生々しく掬い取ってしまっている部分にあると思う。

ちなみに『中国女』には、祖型となっている長篇小説があるらしい。
ドストエフスキーの『悪霊』だ。
僕は恥ずかしながら未読なのでなんともいいようがないが、それぞれ異なる思想的背景に立脚する若者どうしが、とある政治的事件を目指して結託するなかで、複雑に絡み合い、お互いの思想をぶつけあうという「祖型」の部分で共通しているのだろう。
『悪霊』にも、謀略的な革命家や、思索のすえに自死を選ぶ人物が出てくるそうなので、ある程度はキャラ設定の参考にもしているのかもしれない。

本作のメインキャラクターは5人いる。
それぞれマオイストでありながらも、その信奉度合いにはグラデがあって、お互いに思想的な対立や感情的な行き違いがある。
ゴダールは、彼らの姿をリアルに撮ろうとはせず、徹底して戯画的かつ演劇的に「政治的言説の応酬の集積体」として描き上げる。
そこに学生たちのふだんの生活や、人間らしい日常は存在しない。
(同棲生活やセックスといった要素までが、政治に染め上げられている。)
でも、実際に1967年の学生たちには、「ふだん」や「日常」などは存在しなかったのだ。
彼らはまさに、リアルを遊離し、概念のなかで理想を追い、暴力革命を夢想し、「ことば」に依拠して、それ「だけ」を拠り所にして生きていたのだ。
だから、「ことば」だけに特化して学生たちの1967年を抽出したゴダールのやり方は、ある意味でとても「リアル」な心象風景の写実でもあるのだ。

とあるアジトで、若者たちがひたすら討論し、思想を語り合うだけの映画。
大真面目に、政治的な理想達成のために要人暗殺を企てる、テロル擁護の映画。
実際にテロを(人間違いで巻き添えの犠牲者まで出しながら)実行したヒロインの「復学」を肯定するような映画。
今の価値観からすると到底受け入れがたいし、
まあ有り体にいって、「狂っている」としかいいようがない。
そして、そんな学生たちにシンパシーを寄せるゴダールもまた、狂っている。

でも、あの時代は、みんなが狂っていたのだ。
その狂気が(回顧ではなく)リアルタイムで刻印されているという意味では、こんなにエキサイティングで「ヤバい」映画もそうそうないだろう。
たとえば、あさま山荘事件が起きたのは1972年だが、円地文子の『食卓のない家』刊行は1979年。映画化が1985年。立松和平の『光の雨』は1998年、映画化が2001年。原田眞人の映画は2002年、若松孝二の映画が2008年。いずれも、一定の時間が経ってから過去を「振り返ってみせた」映画だ。
だが『中国女』は違う。
まだ、五月革命が起きる「前」に、街と学生の「機運」を嗅ぎ取ったゴダールが、暴発寸前の空気を「そのまま」フィルムに焼き付けたのがこの映画だ。
「事件前夜」の様子を「事件前夜」の時点で撮ってしまうというアクロバット。
その同時性こそが、『中国女』という映画の恐ろしさだ。

― ― ― ―

この映画が、きわめて技巧的かつ演劇的に構築された「政治会話劇」でありながら、リアルな生々しさを示しているのは、なにも時代的な同時性だけが理由ではない。
出演する俳優たちが、本当に「そこにいたかのように」学生運動家を演じているからだ。

たとえば、ジャン・ピエール・レオ。
ここに出てくる彼(ギョーム)は、ほとんど「政治にかぶれたアントワーヌ・ドワネル」そのままだ。
今まで彼が演じてきた役の雰囲気や挙動をそのまま引き継ぎながら、政治の季節の熱気にうかされ、にわか政治思想に「かぶれた」若者になり切っている。
なんだか、トリュフォー映画で親しく付き合ってきた奇矯だが愛嬌のある青年が、いきなり目の前で政治の話を始めて、わけのわからない演説をぶちはじめたような、気持ちの悪い「身近さ」がある。

アンヌ・ヴィアゼムスキーの場合は、さらに生々しい。
前年の『バルタザールどこへ行く』でロバと一緒に出ていた田舎の薄幸そうな少女が、いきなりバリバリの急進派女闘士ヴェロニクとして、鼻息荒く登場するのだ。
うわあ、ありそう……田舎出で純真かつ真面目であるほどに、運動体に感化されやすく、激化しやすく、暴走しやすい。日本赤軍でも立憲民主でも見られる世界共通の「類型」だ。

ジュリエット・ベルトは、ゴダールの前作『彼女について私が知っている二、三の事柄』にもちょい役ででているが、その映画のヒロイン同様、本作でも彼女の演じるいヴォンヌは小金稼ぎで春を売っている。前述のふたりに比べると「ふつうさ」を残したキャラクターであり、アジト全般の掃除や家事をやったりと、現実感と生活感をうしなっていない。

残る二人(俳優は知らない)は、修正主義者のレッテルを貼られて追放されるアンリと、苦悩の末に自死をとげるキリロフ。彼らは知性ゆえに思想の暴走と狂気に染まり切れず、急進主義から一歩置き、ヴェロニクと対立する。キリロフ(『悪霊』に出てくる役名そのままらしい)は、無限ループの思索を繰り返したうえで、ニヒリズムに陥り自ら死を選ぶ。

暴走するヴェロニクは、要人暗殺を実行すべく乗った電車のなかで、哲学者フランシス・ジャンソンと出逢い、テロルについての対話を行う。ちょうど『女と男のいる舗道』の終盤で登場し哲学談義を行うブリス・バランがゴダールの哲学の師であったように、フランシス・ジャンソンはソルボンヌ大学でアンヌ・ヴィアゼムスキーを教えていた師匠にあたる。
ジャンソンは、アルジェリア戦争で反植民地主義を主導した過激派のリーダーとして、学生たちにとっては「英雄」に当たる存在だが、現在の立ち位置においては暴力の使用に関して一定の限定を設ける必要を説いていて、学生たちを律する立場でもある。
ヴェロニクは真摯にジャンソンと対話を重ねるが、それが彼女の行動に何か影響を与えることなく、彼女は暗殺を実行へとうつすのだった。

われわれの世代にとってはとても共感しがたい「テロ礼賛思想」を、一定の反論含みではあっても肯定的に紹介するような政治的映画を、「作品」として評価するのは個人的にはさすがに難しい。でも、そういった時代の生々しい「記録」としては、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(撮影は69年)と同様、無視できない大きな価値を有する映画だとも思う(そういや『三島vs東大全共闘』でも、学生たちは僕たちがふだんまず使わないような言いまわしとタームで政治と革命を語り倒していた。あれがまさに、あの時代の学生のありのままなのだ)。
ゴダールやサルトルのような知性でも、革命思想は虜にするのだという事実や、極左的思想がユースカルチャーと結びついてファッション化したという事実もひっくるめて、1960年代終盤の、熱くたぎるような闘争の時代の産み落とした「鬼子」のような映画として、ひそかに愛着を感じている。

安倍元首相暗殺犯に関する扱いの是非や、軍事独裁国家から挑戦を受け続けている資本主義社会の行き詰まりといった問題を抱える現代においては、若者たちにこそ一度観てほしい映画ではあるかもしれない。
僕自身は「保守中道」を自認しているし、もちろんテロに関しては絶対的に全否定する立場ではあるけれど、今の若い世代のなんにでもうまく順応してしまう(そして時にぽっきり折れてしまう)草のような生態や、SEALDs程度の温和で紳士的なデモ活動までボロカス叩かれたまま立ち消えてしまう日本の状況についても、あまり健全な状態だとは思っていないので。

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じゃい

3.0革命の幻影を抱き続けるフランス人ゴダールの政治メッセージ

2020年4月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

映画にとって最も重要な映像より、出演者たちから発せられる言論が遥かに鑑賞のポイントになっているゴダール映画。淀川長治氏はロッセリーニとゴダールが映画を壊したと断罪していたが、この映画を観ればその考え方に賛同せざるを得ない。それというのも、作者ゴダールがこの作品で表現したのが、人生論ではなく政治学そのものだからだ。延々と語り述べられる歴史上の偉人の言葉、反資本主義に徹するフランス人の若者のスチューデント・パワーは、けして人間探求の過程へ進展しない。映像は、その抽象的特質のみによって、政治理論のディスカッションの、ほぼバックアップ的効果に終わっている。マルクス・レーニン主義も毛沢東と文化大革命にも共鳴することのない者には、苦痛に近い映画経験である。と云って、政治学について互角に論じ合えれば理想の鑑賞になるのかも、甚だ疑問だ。
芸術の宿命には、古い価値観や様式美を敢えて破壊する時が来る。映画に於けるヌーベルバーグも、その一翼を担う歴史的な意義を持つことに賛同するが、政治かぶれのゴダールには魅力を感じない。ただ、映画制作の真摯さは否定しない。

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Gustav

5.0Anne Wiazemsky😍

2018年8月13日
Androidアプリから投稿

ゴダールがぶっ飛びすぎてる笑笑
グッバイゴタールみてから見ましたが映画でゴダールがいってたこととか考え方をそのまま役者に言わせてる感じ笑笑と思いきやそれを否定するかのような展開。
若さゆえの愚かさや情熱とかそーゆー話にもなってきてる。パッションでのめり込み
語りつくすけど結局本当にわかっていたのか、、ひと夏の夢のような感じ。
けれどそういうところに共感しちゃって
かなーり目が離せない

アンヌヴィアゼムスキーに惚れる

まだ僕には難しいテーマだったけど
ゴダールの面白い演出とかカラフルな
服、部屋、などを主に楽しんだ!

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cinemagaski