戦争と冒険
劇場公開日:1973年6月2日
解説
イギリスの生んだ今世紀最大の政治家、サー・ウィンストン・チャーチルの、あくことを知らぬ冒険心とはげしい野望をもって戦場をかけめぐった青年時代を描く。彼の自伝「わが半生」の映画化。製作・脚本はカール・フォアマン、監督は「素晴らしき戦争」のリチャード・アッテンボロー、撮影はゲリー・ターピン、音楽はアルフレッド・ラルストン、編集はケヴィン・コナーが各々担当。出演は新人サイモン・ウォード、アン・バンクロフト、ロバート・ショウ、ジョン・ミルズ、ジャック・ホーキンス、アンソニー・ホプキンス、パット・ヘイウッドなど。
1972年製作/イギリス
原題または英題:Young Winston
配給:コロムビア
劇場公開日:1973年6月2日
ストーリー
一八九七年九月十六日ウィンストン・チャーチル(S・ウォード)はロンドンのデイリー・テレグラフの従軍記者として、インド国境部族の反乱鎮圧に参加していた。近代的武器を持たない反乱軍はたちまちのうちに鎮圧されてしまったが、身の危険もかえりみず、傷ついた従者を救出したウィンストンの英雄的な行為は高く評価されたのだった。戦いの終った戦場、にたたずむウィンストンの胸中には少年時代の思い出がつぎつぎと甦ってきた。一八七四年十一月三十日、貴族の家に生まれたが、幼い時から愛情に恵まれなかった。父のランドルフ(R・ショー)は国会議員で保守党の有力者であり、母のジェニー(A・バンクロフト)も政治家の妻として社交生活に追われる毎日であった。幼いウィンストンをなぐさめたのはおもちゃの兵隊であり、乳母のエベレスト夫人(P・ヘイウッド)だった。一八八一年、七歳になったウィンストンは寄宿制度の小学校に入学したが、そこでの厳罰主義と傲慢な教育方針は彼をすっかり学校嫌いの少年にしてしまい、二年後、体罰により健康を害したウィンストンは気候のよいブライントンの小学校に転校することになった。ここを卒業した彼はパブリック・スクールの名門ハロー校に入学したが、ギリシャ語とラテン語が苦手だったためにいつも劣等生だった。ハロー校で四年半学んだのち、士官学校に進んだが、成績不良だったウィンストンは歩兵科に入れず、騎兵科に廻されるというおそまつさだった。「早く武勲をたてたい」「早く将軍になりたい」、若い士官の望みはいつの時代も同じだ。だが世界は平和だった。一八九六年一月、父ランドルフ卿が死亡した。晩年は政界からも忘れられ、さびしい最後であった。やがて彼は、従軍記者として参加したインド反乱部族鎮圧の体験記を「マカランド野戦軍」という本にまとめて出版した。これが大評判となり、皇太子をも熱狂させ、“ウィンストン・チャーチル”の名は一躍有名になった。一八九八年の夏、ウィンストンは騎兵士官としてはじめて実戦に参加する機会を得た。それはエジプト駐屯のイギリス軍とスーダン回教徒との激しい戦いだった。彼は二五騎を率いる小隊長として敵軍に突入、包囲されながら、むらがる敵兵をモーゼル銃で撃ち倒した。そして翌年一八九九年十月、南アフリカでボーア戦争が勃発。ウィンストンは、モーニンゲ・ポストの従軍記者として前線に向ったが、その途中、彼の乗った軍用列車が敵の猛攻撃を受けて脱線、転覆。ウィンストンは捕虜として収容されてしまった。しかし、二週間後、闇にまぎれて収容所を単身脱出した彼は、二日目の夜、鉱山に働くイギリス人技師に隠まってもらい、三日後にはついに国境を越えてポルトガル領ロレンソ、マルケルに着くことができた。イギリス本土に戻ったウィンストンは、国民的英雄として迎えられた。その翌年一九〇〇年、ウィンストンはかつて父が所属していた同じ保守党から総選挙に立候補し、圧倒的支持を得て当選した。“ウィンストン・チャーチル”二六歳。ここに偉大なる政治家としての第一歩を踏みだした。
スタッフ・キャスト
- 監督
- リチャード・アッテンボロー
- 脚本
- カール・フォアマン
- 原作
- サー・ウィンストン・チャーチル
- 製作
- カール・フォアマン
- 撮影
- ゲリー・ターピン
- 音楽
- アルフレッド・ラルストン
- 編集
- ケビン・コナー
- 字幕監修
- 高瀬鎮夫
受賞歴
第45回 アカデミー賞(1973年)
ノミネート
脚本賞 | カール・フォアマン |
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衣装デザイン賞 | アンソニー・メンデルソン |
美術賞 |