ゴッドファーザーのレビュー・感想・評価
全187件中、1~20件目を表示
ヴィトーとマイケルの「家族」と「ファミリー」観がカギを握る。
○作品全体
本作では「ファミリー」という言葉が度々登場するが、その言葉は家族という意味合いとは別の意味を持っている。表は家族的な繋がりという意味だが、裏には利害が絡んでいて、純粋な家族とは言えない。その「ファミリー」という関係性を提示するのに作品冒頭から「結婚式」を利用していて、その使い方がまず面白い。
「結婚式」はハレの日だ。ハレの日はそのイベントを通して、当事者以外も含めて登場人物の世界が変わるタイミングのはずだ。ただ、この作品ではそういった物語の推進剤としては使わず、「ファミリー」がなにか、という本作の根幹を知らしめる舞台装置として存在している。
結婚式では陰と陽の世界が明確に分かれている。画面の明度もハッキリと区別しているとおり、ヴィトーがいる執務室が陰で、野外が陽の場だ。この陰と陽は「ファミリー」が持つ二つの顔と繋がっていて、利害、損得の「ファミリー」と、和気藹々と婚姻の喜びを分かち合う「ファミリー」の意味がある。この二つの意味合いを同じ結婚式の場で、これほどまでにコントラストの強い演出をもって語る作品冒頭は、強烈なインパクトを持っていた。
ファーストカットも上手い。葬儀屋のボナセーラの独白のような語りから、徐々にカメラを引いて、手前のヴィトーを映し、その後にここが結婚式の場であることを示す。次々と情報が増えていくが、それぞれの情報は直ぐに繋がる。人が集まる場所、さらにヴィトーの機嫌が良い日となれば、ボナセーラのような関わりの薄い人物もヴィトーの力を借りようとやってくる。「結婚式」という場が「ヴィトーへ嘆願する場」になる、というわけだ。
そしてこのヴィトーを中心とした「ファミリー」の状況を表現する演出を、ゆっくりとしたトラックバックから始めるのが凄く良い。この結婚式が「ファミリーとはなにか」ということをゆっくりと開示していく感覚が、このトラックバックにすごく合う。
結婚式で表現した「ファミリー」を更に展開させるために、そのファミリーの中で生きる人物たちに主軸を置いたのが作品の序盤から中盤。この部分もヴィトーをはじめとするキャラクター達が活き活きとしていて好きなところだ。
ただ作品としてはヴィトーが撃たれ、「ファミリー」から少し離れた位置にいたマイケルにカメラが向くところが、一つのプロップポイントと言えるだろう。
マイケルは結婚式の場では若年であることもあってファミリーの端に位置している。マイケル自身も父のようにはならないと話していて、「ファミリー」から距離を置こうとしているのがわかる。ただ、ヴィトーが撃たれ、頼りになる「ファミリー」もいない病院で父親という「家族」を守れるのは子であるマイケルだけだ。病院の門前でパン屋の青年と見張りをしているときの立ち振舞いから見ても、マフィアの世界で生きていける天賦の才を「家族のつながり」から覗かせる。
ソロッツォと警部の暗殺を企むシーンでは、マイケルの策の才能が印象に残るが、カメラワークも素晴らしい。ソニーを始めとする手慣れた面子の中で、足を組んで座り、作戦について話すマイケル。ゆっくりとそのマイケルにトラックアップしていく演出は、ここからマイケルが主役になることを印象付ける。
こうしたマイケルが「ファミリー」の中心になっていく過程の描写は、ヴィトーの衰えやソニーの勇み足も対比として使っていて、説得力のあるものだった。
作品後半は「ドン・コルレオーネ」として君臨するマイケルの冷徹さがクローズアップされる。これは作品序盤で印象的だったヴィトーが「ドン・コルレオーネ」だった頃の家族的な暖かさとのコントラストが印象的だ。「結婚式」という舞台装置が「洗礼式」になったと置き換えるとわかりやすいかもしれない。家族的な暖かさのあった「結婚式」は、極めて儀式的である「洗礼式」に変わる。利害が浮かび上がるシチュエーションで言えば、ヴィトーは身内との話し合いの場であったのに対し、マイケルは火種になる身内の浄化を影で進めている。
二人の「ドン」、それぞれが求める「ドン」の姿、そしてそのコントラスト。そうしたものが「家族」という面でも、「ファミリー」という面でも魅力的に描かれていて、見終えたあとには感嘆のため息が出た。
ラストカットはケイを追い出して執務室で「ドン」として振る舞うマイケル。閉ざされたドアの外には「家族」が、ドアの中には「ファミリー」がいる。マイケルが示した「ファミリーとはなにか」を巧みに演出したラストからは、マイケルの魅力と恐ろしさが最大限に引き出されていた。
「家族」と「ファミリー」を引き離したマイケルにはどういった結末が待っているのだろうか。
○カメラワークとか
・病院の前のシーンはカッティングがすごく良い。恐怖でブルブルと震えるパン屋の手を映したあとに、まったく震えていないマイケルの手を映す。そしてここで映されるマイケルの表情。マイケル自身も怯えていない自分に驚く…といった表情だ。ヴィトーを別の病室へ移して、ヒットマンらしき人物をやり過ごす…というような行動は無我夢中で、ここでようやく自分を客観視する感覚。その作り方が上手い。
・ラストカットはフレーム内フレーム。さっきまで恋人の距離感だったのが、遠ざかってしまったような演出。これもすごく自然に見せていて上手だった。
・手前奥のレイアウトは物語の要所で使われていた。上述したファーストカット、ラストカット。ヴィトーが死ぬカットも手前に孫がいて、奥にヴィトーがいる。マイケルがソロッツォらを撃ったあと、店を出て行くカットも手前にマイケル、奥にソロッツォ。人物を手前奥に立たせ、明度で画面内にいる人物を区切る。世界が二つに分かれているのが印象的。生と死、ファミリーと家族。
ソニーが襲撃されて一人倒れているカットも、奥からファミリーがやってきて、手前でソニーが倒れている。ここは明度は変わらないが静と動、という要素で世界を区切っていて印象的だった。
・シーンの終わりを動的な芝居で終わらせているカットが多い。マイケルが銃の使い方をクレメンザから教わっているシーンでは一度会話が途切れた後にマイケルが引き金を引く(銃弾は装填されておらず)。ヴィトーが死ぬシーンではヴィトーが倒れた様子を孫が見に行って、一度静寂となったあとに孫が走り出していく。場面転換時の緩衝材のような役割だろうか。
・マイケルまわりの演出はホントかっこよくて、不要な部分の省き方が上手い。不要なものを省く、というのがそのままマイケルを表していて、キャラクターを魅せるという意味でも十分な役割だった。
典型的なのはアポロニアが殺されてしまったあとのマイケル。爆発直後は驚き腰を抜かすが、次にマイケルが登場する際には、もうアポロニアを忘れてしまったかのような立ち振舞いをしている。もしかしたらショックを受けていた時間もあったのかもしれないが、「マイケルを演出する」という意味ではそのショックの様子は不要と言い切っていいだろう。
こうしたキャラクターを魅せる演出が行き届いているのがなによりの本作の魅力だと感じる。
○その他
・トムが映画会社に乗り込むシーン頭にBGMが流れるけど、サントラに入ってなくて悲しい。このBGMどっかで聴いたことあるんだよなぁ。ドリフとか志村けんのバカ殿様とかだったような気がするんだけど。
・何回も見てるからか、シンプルに面白いからかわかんないけど、色々細かいところで印象に残る芝居とかセリフがある。家で暴れるコニーに対してカルロが「好きなだけ壊せ」っていうやつとかその後にカルロを見つけたソニーが全力で手に持ってる棒みたいなの投げるところとか、全力でブチ切れるモー・グリーンとか。
・もし脇役の外伝が見られるとするなら、間違いなくルカ・ブラージ。ヴィトーとともにどんな仕事をこなしてきたのか、女と一緒に寝ないというのはなぜなのか。生い立ち含めすごく気になる。
中途半端
全てにおいて中途半端というか詰めが甘い印象を受けました。
まず冒頭の結婚式の場面は冗長で退屈です。そのあとコルロネが暗殺されかけてからマイケルが復讐するあたりから面白くなります。しかし、マイケルがイタリアに逃げたあとは何の説明もなく初対面の女やその家族と仲良くなって結婚します。しかも彼にはアメリカに婚約者がいるのに。
で、そのイタリア人の妻は唐突に爆殺されます。このへんも説明がなくてよくわかりませんでした。マイケルがイタリアに行った件は全て削除してもいいと思います。
また、殴り合いや銃撃シーンの演技があまりうまくなく、拳が顔に当たっていないのがカメラに映ってしまっています。銃で撃たれたときの演技もわざとらしいです。冒頭で映画監督を脅すためにベッドに馬の首を入れておくところも、映画監督の叫び方が素人みたいで冷めました。
言わずと知れた名作なので一応最後まで鑑賞しましたが、もう観ないと思います。
凄く綺麗なリマスター映像で観れた。 何回も観てるし、何時でも自宅で...
ドン・コルレオーネ
オールタイム・ベストとかの企画があると大抵一位に選ばれる名作だけれど、何度も繰り返し観たい映画でも好きな作品でもない。
6月15日に閉館するイオンシネマ津。午前十時の映画祭。
一番大きなスクリーンで上映してくれていたので鑑賞。
やはり面白い。
冒頭の延々と続く(30分)結婚式のパーティー、まるでドキュメンタリーのような、主要キャストだけでなくモブの人たちに至るまで、誰ひとり演技をしているように見えない。画面のすみずみまで本物。これが最後まで一瞬の休みなく続く。緊張感半端ない。
そして、「ドン コルレオーネ」。背筋がゾゾゾ。
時代を超えて多くの人に支持される訳ですね。
アル・パチーノカッコいいのはもちろんだけど、自分が年取ってみると、マーロン・ブランドはあらためてすごい役者さんだなって思いました。
この後、雨後の筍のようにマフィア映画、ギャング映画が作られましたが、一線を画す名作には違いない。
(私のベストワンは「大脱走」と「七人の侍」。 ベストワン二つあるやないか)
古臭さを感じない名作
午前十時の映画祭で鑑賞。
もう50年以上前の作品ですが、リマスターされていることもあるのでしょうが、テンポ良く、全く古臭さを感じさせませんでした。今ほどコンプライアンスがどういう言われてない頃の作品なので、配役の人種割合や、ストレートな表現のセリフ、喫煙なんかも妙な配慮がなく、恐らく第二次大戦後のアメリカ社会をリアルに描かれていると思います。
最近目先のことで自分の都合のいいようにコロコロ変える人が多いので、改めて『筋を通す』ということの重要性を感じました。ちょっと手荒なやり方ですけどね。強いて言えば、相関図みたいなのを事前に見ておくと、より分かりやすいかも知れません。
役とは言え、当時マーロン・ブランドはまだ40歳代。なかなかの貫禄です。
神話のようなすごい映画ーー血縁・忠誠・資本主義の交錯点
随分前に2回くらい見ているはずなんだけれど、覚えていなかった。
タリア・シャイア(『ロッキー』のエイドリアン役)が出ていてびっくり。他もオールスターである。マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン、そしてジェームズ・カーン。主役である初代ドン・コルレオーネを演じたのは、マーロン・ブランドだった。最高である。
ニューヨークのイタリア系マフィアの物語。移民一世のドン・コルレオーネから、二世への継承がテーマだった。
では、何を継承するのか?
マフィアとは? と聞かれたら、暴力を武器に違法な仕事で高い利益を上げる集団──そんな答えになるだろうか。
しかし改めて、その定義からは抜け落ちる、独自の集団の論理と倫理がこの映画からは伝わってくる。
この映画から教えられるのは、マフィアとは血縁による家族的な愛情を中心とし、その周縁に親分子分的な、やはり人情と貸し借りの論理で繋がる人々によって構成される集団だということだ。
冒頭でそのマフィアの論理がわかりやすく示される。
子分が次々にドンに自分のトラブル解決を頼んでくる。それを解決してやることで、ドンは“愛情”を示す。
愛情の借りは金では返せない。子分はドンに貸しができる。それを“忠誠”に変えて少しずつ返していく。そして、いつか自分がドンから「力を貸してほしい」と言われたときには、命がけでそれを返す。
けっこう、このルール運用は難しそうだ。ドンは大変なのだ。誰にでもできるわけではない。
清濁合わせ飲む胆力、リーダーシップ、周囲より一段も二段も上の高い認識や人格がいる。
だからこそ、グループメンバーからは大きな尊敬と敬意が向けられている。そしてその敬意がないと、そもそもこの組織は回らない。
マフィアの特異性は、血縁や地縁的な愛情と貸し借りの論理を中核に持ちつつ、同時に利益共同体でもあることだ。
ふつう、利益共同体は金銭的価値の測定による等価交換がルールである。それが資本主義のルールだと思うが、そこが歪んでいる集団だからこそ、結局そのルール同士の矛盾を暴力によって解消せざるを得ない運命を背負っている。
劇中、ニューヨークから祖先のルーツであるコルレオーネ村に、二世であるアル・パチーノ(マイケル)が身を隠しに訪れる場面がある。
村には人気が少ない。理由は、「抗争によって皆殺されてしまったから」というセリフによって説明される。
つまり彼らは、イタリアで立ち行かなくなって食い詰めて、世界一の経済都市ニューヨークにやってきたのだ。
そこでなら、経済と法のルールではない論理で動く彼らのような集団が必要とされ、機能して、食べていける。
二世であるドンの子どもたちは、父から血縁のルールを学んでいる。
しかし、繁栄する資本主義社会のなかでそのルールとリーダーシップを完全に学ぶことは、あまりにも困難で、たくさんいる二世の兄弟たちは皆、何らかの混乱を抱えて生きており、次のリーダーにはふさわしくない──ということが、映画を見ているこちらにも伝わってくる。
ドンはこのマフィア世界のルールのなかで、あまりにも偉大なのだ。
しかも、麻薬だけは扱わないという、マフィア世界の中での高い倫理観を持っている。
そのなかで、大学を卒業したばかりのマイケルにはドンは目をかけていた。
彼には素質があった。ただ、その素質を開花させたのは、コルレオーネ村での短期の生活、そして結婚という体験ではないか。
一族のルーツにただ一人短期移住することで、彼はマフィアの論理と倫理を内面化し、一皮むけて帰ってくる。
ダース・ベイダー誕生のようでもある。
役者陣はもちろん、ニーノ・ロータの音楽も素晴らしい。
あの有名なテーマ曲はなかなか流れない。そして「ここで流れるのか」という、そのタイミングは、上述した“倫理の内面化”とも重なっていて、鳥肌が立った。
まだ30代でこの映画を撮ったフランシス・フォード・コッポラ監督がすごい。
映画なのに、こうして社会システムや倫理体系を教えて、考察させてくれる描写を、このドラマチックな神話的映画に盛り込んでいるのだから。
パート2を続けて、大画面で見たい。どこかで上映しているだろうか。
家族
「文句は言わさん」
午前十時の映画祭15にて鑑賞。
我が生涯不動の第1位(本音を言えばPARTⅡの方が好きなのだがコルレオーネ・サーガということで)。劇場鑑賞は2015年に開催されたシネマ・コンサート以来二度目。
マリオ・プーゾの原作を手にしたのは15歳の冬だった。裏社会の物語ということで2日ほど逡巡したが、「感化されない」ことを条件に読んだ。以来、堅気だがすっかり本作の世界観に染まっている。お蔭様で頬杖のつき方、椅子の座り方に至るまで周囲からはことあるごとに「偉そうな」と形容されるようになった。
それにしても「怖い」こと以外非の打ち所がない作品である。撮影を担当したゴードン・ウィリスが切り取った映像は全てが絵画であり、自身も「撮影にあたってはレンブラントを念頭に置いた」というくらいどこをとっても光と影のコントラストが最大限に活かされている。
そして本作を観るたびにマーロン・ブランドは天性の役者だと痛感する。製作当初、パラマウント側はブランドの起用に消極的だった。私生活でのトラブルが後を絶たず、撮影に入っても役作りはおろか台詞すら満足に覚えてこないのが当たり前だった。しかしコッポラが恐る恐るブランドに打診をしてみると、ブランドはコッポラ達の前でチーズのピースを下顎に詰め、髪を靴墨で染めて見事にドンを体現した。それを見たコッポラが「ヴィトーはブランドしかいない」と確信したという。実際の撮影でもブランドは全く台詞を覚えてこず、冒頭の結婚式のシーンなどは対面する相手の体に貼り付けられたカンペを読んでいるだけなのだが、誰がどう見てもそこには巨大ファミリーを統べる男の姿しかない。恐らくブランドには役作りなど必要ない、芝居にかけては正真正銘の天才なのである。
ブランド同様に下馬評を覆したのが、当時無名だったアル・パチーノだ。こちらもマイケル役は当初ロバート・レッドフォードが検討されていたらしいが、「イタリア系の俳優が演じるべきだ」とコッポラが主張しマイケル役の起用が決定した。その後の大活躍はご存知の通りである。アル・パチーノの大きな目がいい。あの目こそがマイケル・コルレオーネの冷徹の象徴と言っていい。特にラストシーン、表情ひとつ変えないマイケルと、その姿に絶望するケイ(演:ダイアン・キートン)の怯えきった表情の対比、そしてそれを唐突に遮る扉からのエンドロールという一連のシークエンスは何度観てもゾクゾクする(この目が次第に濁っていく様子を追っていくとPARTⅢもかなりの名作なのだがね、如何せん前2作があまりにも強すぎた)。
個人的に不満なのはこの作品がスケールの大きい暴力映画と思われていることだ。自分は幸運にも原作小説から入ったので、シチリア島の歴史やヴィトーをはじめとする主要人物の生い立ち(PARTⅡのデ・ニーロのシーンがこれにあたるが)を念頭に置いて映画を観ることができた。つまり元から「家族の物語」として観たわけだ。しかし時間の制約上、本作ではそこまでリソースを割けていないので、何故ヴィトーが家族を重んじるのか?そしてPARTⅡ以降で何故マイケルが苦悩するのかが刺さりにくいのである。もし余裕があれば、原作小説にも目を通していただきたいというのが本音である(因みに、劇中1回しか流れないにも関わらず最も有名なテーマ曲が何故「愛のテーマ」なのかも小説によって見えてくる)。
久々だったが全く色褪せていなかった。惜しむらくは、私が割と早い段階で催してお手洗いを気にし始めたことである。それだけがワシの心残りである。
父親そっくり
不朽の名作であるが、最初から最後までしっかり観たことがなく、ようやく初鑑賞。なるほど、どっしり重く、濃い。
アメリカに移民として暮らすイタリア人の中に、ドンと呼ばれる男がいる。困ったことを相談すれば、超法規的手段で解決してくれる。その名はコルレオーネ。彼には息子が3人いるが、三男のマイケルは、家業から距離を置き、大学へ進み軍隊で活躍していた。ドン・コルレオーネが一番期待していたマイケル。頭が良く、冷静で慎重、願わくば日の当たる場所で生きて欲しかった。しかし、運命はマイケルを放っておかなかった…。
小柄で線の細いアル・パチーノの、据わったような目がなんだか怖い。感情が見えない。若いので他のファミリーのドンに侮られても、静かに仕返しをする。敵にしたら超ヤバい。結局、一番父に似ているのだった。
アポロニアは美人だけど、どうもオーラがなく、すぐ消えそうだと思ったら、案の定…。ケイはマイケルに深く関わりそうだが、ラストの不安な様子は、今後の夫婦関係に影を落としそう。女性キャラはファミリーでは添え物のような扱いで、次作でどのように変化していくのか興味深い。イタリアの男はマンマに弱いイメージだが、逆に母は家庭に縛られてるとも言える。家庭料理がおいしい国は、女性の社会進出が遅れている説もあるし。男性キャラは、死人続出かな。まあ、家業の性質からすれば、仕方ないか。
BS12の放送を視聴。
恐れ入谷の鬼子母神
何もかもがゴージャス、50年経っても色褪せない家族の愛と絆を描いた名作中の名作
何度観ても惚れ惚れする重厚な映像美とカメラワーク、観るたびに発見がある秀逸な脚本と演出、アンサンブルキャストのベストアクト、とどこをとってもゴージャス、本当に素晴らしい作品だと思います
そんな世紀の大傑作を生み出したフランシス・フォード・コッポラ監督、本作の演出のスタートはいつでも交代させられる様な不遇の待遇だったそうですが撮られたラッシュを観たスタジオの重役達が確かな手応えを感じ、以降は絶大な信頼をされ進められたらしいです
主役のドン・コルレオーネを演じるマーロン・ブランドさんとその三男マイケルを演じるアル・パチーノさんの演技が圧倒的、その他のキャストも今となっては多くの名優が出ており、皆さん最上級の演技を魅せています
オープニングから娘の結婚式パーティーで始まり、全編を通して何度も印象的に出てくる個人的に大好きなマフィア映画での食事のシーン、マーティン・スコセッシ監督作品のマフィアものもそうですが、イタリア・シチリアの人達がいかに“食事とファミリー”を大切に重んじるかがよくわかります
観る年齢や立場で全く違って見える世界を代表する名画中の名画、何度観ても心に染みわたります
アルパチーノがそのマーロンブランドの子息でその兄弟の末弟で、そのギ...
アルパチーノがそのマーロンブランドの子息でその兄弟の末弟で、そのギャングの一味に加わっていなかったが、長兄が妹がその夫に暴行されたを配下から聞き、憤って、車に乗り込み、高速道路の入場口で、一時停止をしたら待ち構えていたギャングに四方八方から撃たれて死亡し、ゴッドファーザー2が、そのアルパチーノがそのギャングの頭になってますが、そのギャングの仲間内での話が漏れているようで、ファッションモデルと結婚したその次兄が疑われ、湖に兄弟二人でカヌーで出て、その次兄が死亡しますが、その2にキューバ革命やマーロンブランドの青年時代も差し挟んでましたが、実際に戦前にムッソリーニが内閣を組閣し、体制側になった際にそのイタリアのギャングが米国に移住したそうで、戦前が共産主義がマルクス主義が全盛で、ファシズムがこれまでのに対するその否定の集合のような、太宰治の小説が負け犬のような男の話ですが、これまでの能動的な男の小説のただ逆を読んだだけなのかなと
デニーロってゴッドファーザーじゃなかったんだ
時間と長丁場だがテンポが良く、無駄なシーンが無い
名前は知ってたけど長いし難しそうだしで手を出してこなかった。マフィアものは嫌いではないのでいざ鑑賞。かなり面白かった。
登場人物が多く関係性が複雑になりそうだったので、あらかじめ相関図を頭に入れてから見た。最初は名前と顔が分からず苦戦。だが癖が強い登場人物が多く次第にキャラは難なく覚えられた。個人的にクレメンザが好き。あの見た目で暗殺もこなして料理もできちゃうギャップ萌え。裏切り者でもなく最後まで生き残ってホッとした。
3時間と長丁場だがテンポが良くて飽きない。無駄なシーンが無いので一切ぐだらない。殺したりドンパチする場面もサクッと終わるのでスマート。
複雑なそうなストーリーかと思いきや、基本的には、問題発生→誰かが処理する、のくり返しなのでシンプルで分かりやすい。単純な流れなのに、誰がどうやって解決するのか終始ハラハラして見れた。
「嘘だ」最後ケイを抱きしめながら吐いたマイケルの一言がかっこいい。どう考えても本当なのに、一言で嘘だと貫き通すのはなかなか出来ない。ドアが閉まる直前にマイケルたちを見るケイの表情がなんとも言えない。あれは嘘だと気づいてしまった顔なのだろうか。
0047 スクリーンに血の雨が降る
1972年公開
パラマウントの製作部長はB級原作でギャング映画を作ろうと
するが、原作が予想外の大ヒットするに予算をどんどんつけて
大作製作にシフトする。
しかし公開に先駆けほんまもんがマフィアの名前を出すな、と
クレームをつけ直接お話をしてようやく製作にありつける。
マフィアにも家族があり出世欲があり素人でありたい、
と思うんやね。
まあここは芸術家きどりの監督コッポラの意思が強かったそうな。
馬も首をはねられる。キャー!
ファミリーには好戦的な奴は必ず出てくるもので
とんがったジェームズカーン。
死亡フラグ立ちまくり蜂の巣にされる。
今宵組織を背負って立つ決意のアルパチーノ!
ニーノ・ロータにうっとりとしてしまいますな。
80点
テレビ初鑑賞 1976年10月13日/20日『水曜ロードショー』
名作は色褪せない。
家内(彼女にとっては初めて)と40年振りに観た。所々覚えていたが新鮮だったし、面白かった。洗礼の儀式の最中の粛清劇は素晴らしい。やはり名作は色褪せない。今回改めて分かったのは、
-コッポラが監督をやっていたのが若干32歳だった
-ダイアン・キートンが出ていた
全187件中、1~20件目を表示