泥の河

劇場公開日:1981年1月30日

解説

大阪安治川河口を舞台に、河っぷちの食堂に住む少年と、対岸に繋がれた廓舟の姉弟との出会いと別れを描く。第十三回太宰治賞を受賞した宮本輝の同名の小説を映画化したもので、脚本は人気TVシリーズ「金八先生」の重森孝子、監督は浦山桐郎監督に師事し、これが第一回作品となる小栗康平、撮影は「泣く女」の安藤庄平がそれぞれ担当。

1981年製作/105分/日本
原題または英題:Muddy River
劇場公開日:1981年1月30日

あらすじ

朝鮮動乱の新特需を足場に高度経済成長へと向かおうとしていた昭和三十一年。河っぷちの食堂に毎日立ち寄っていた荷車のオッチャンが事故で死んだ。ある朝、食堂の息子、信雄は置き去りにされた荷車から鉄屑を盗もうとしていた少年、喜一に出会った。喜一は、対岸に繋がれているみすぼらしい舟に住んでおり、信雄は銀子という優しい姉にも会った。信雄の父、晋平は、夜、あの舟に行ってはいけないという。しかし、父母は姉弟を夕食に呼んで、暖かくもてなした。楽しみにしていた天神祭りがきた。初めてお金を持って祭りに出た信雄は人込みでそれを落としてしまう。しょげた信雄を楽しませようと喜一は強引に船の家に誘った。泥の河に突きさした竹箒に、宝物の蟹の巣があった。喜一はランプの油に蟹をつけ、火をつけた。蟹は舟べりを逃げた。蟹を追った信雄は窓から喜一の母の姿を見た。裸の男の背が暗がりに動いていた。次の日、喜一の舟は岸を離れた。「きっちゃーん!」と呼びながら追い続けた信雄は、悲しみの感情をはじめて自分の人生に結びつけたのである。船は何十年後かの繁栄と絶望とを象徴するように、ビルの暗い谷間に消えていく。

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スタッフ・キャスト

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受賞歴

第5回 日本アカデミー賞(1982年)

受賞

監督賞 小栗康平

ノミネート

作品賞  
脚本賞 重森孝子
助演女優賞 加賀まりこ

第54回 アカデミー賞(1982年)

ノミネート

外国語映画賞  
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映画レビュー

5.0 初見は19年前その年のベストワン

2025年9月5日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

泣ける

悲しい

癒される

このDVDはブックレットになってて装丁も豪華、私の宝です。
午前10時の映画祭でもセレクトされて錦糸町まで行ったりて、名先は映画館で見るとまたオツなもんですね。
この年は読書選出のキネマ旬報のハガキに書くにも困りませんでした。
今年はあれれ、国宝、フロントライン、金子差入店、ルノワール、新幹線代爆破までは選べるけどあとは駄作ばかり見てて書く映画を見てない、洋画は割とベストテン映画を鑑賞してます。
前置き長すぎですが。泥の河は屈指の名作であり傑作です。たまに見返してます。

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芭蕉翁

4.5 素晴らしいロケ

2025年6月25日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

知的

癒される

 宮本輝さんの小説が大好きであり中でも泥の河は好みなので映画で見たらガッカリするかと心配していましたが、とても良い作品でした。

 少年二人の心の交流とそれを見守る主人公両親の温かさが丁寧に描かれた素晴らしい映画です。

 昭和55年前後に昭和31年の風景を見つけるのは困難であったと思われますが、素晴らしいロケ撮影となっています。原作を読んだことがあるのですが、本映画は原作の空気感を驚くほど正確に再現しています。

 少しだけ残念に感じたのは、加賀まりこさん演じる廓船の母親が小綺麗すぎてボロ船で売春しながらギリギリの生活をしているような雰囲気が感じられなかったことです。

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クネーゴ

5.0 きっちゃーーーん

2025年5月21日
PCから投稿

名作の誉れ高いのは知っていましたが、暗そうで自主上映と聞いて避けてましたが30年前に観ておけばよかった。
子役が出てくる映画は媚びているようで感心しませんでしたが、今までの最高傑作「少年時代」を抜いて子役映画の最高峰です。
子役の演技力ではなくて演出の勝利でしょうね。田村、藤田、芦屋、加賀各先輩の肩の力を抜いた演技のバランスが絶妙です。
ラストシークエンスはしつこくて長すぎるのに余韻と情緒が最高潮です。

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越後屋

4.5 川べりの食堂

2024年7月11日
PCから投稿

原作は1977年に書かれた宮本輝のデビュー作で、映画も小栗康平の初監督作。初見の記憶をだぶらせながら見た。

話は戦後。太平洋戦争によってもたらされた貧しさとトラウマのような暗い気分と社会の変容が物語をつらぬいている。
ヴィットリオデシーカの自転車泥棒(1948)という映画をごぞんじでしょう。デシーカ/ロッセリーニ/初期のヴィスコンティはネオレアリズモ(現実生活の記録的描写を特徴とする写実的映画手法)と言われているが、泥の河もそんな印象をうける映画。日本のインディペンデント映画の金字塔といえる。と思う。

1956年大阪。信雄(のぶお)の両親(田村高廣と藤田弓子)は川べりで食堂をやっている。あるとき対岸に屋形船がきて停泊する。その船には信雄と同じ年格好の喜一(9歳)と銀子(11歳)が不就学のまま暮らしており、母親のしょう子(加賀まりこ)が客をとって細々と生きている。船は居住と郭(くるわ)の部分が仕切られて、別の橋が渡されている。

喜一と銀子は、信雄の食堂へあそびに行き、両親の温かな歓待をうける。喜一は「戦友」を歌ってみせる。一番を歌ったが晋平(信雄の父:田村高廣)にほめられ全部歌えると言って二番も歌う。

ここはお国を何百里
離れてとおき満州の
赤い夕日にてらされて
友は野末の石の下

思えばかなし昨日まで
真先かけて突進し
敵を散々懲らしたる
勇士はここに眠れるか

喜一は無邪気だが銀子は母親の商売が忌むべきものであることを知っていて、じぶんらが享受できる幸せの限度のようなものを知っている。

すでに大人の諦観をもっている銀子は帰り道、信雄の境遇への羨望を込めて「せっけんのにおいがするなあ、のぶちゃんのおかあちゃん・・・」とひとりごとを言う。

子供の頃米櫃(こめびつ)へ手を入れて遊びませんでしたか?わたしの両親は飲食店をやっていたので厨房の大きな米櫃へ手をザクザクと入れて遊んだ。むろん一般家庭でも米の中へ手を突っ込んで遊んだ──という経験を持っている人は大勢居ると思う。その感触を表現するなら「ひんやりして気持ちがいい」という感じで「あたたかい」という感じではないが、貧しい銀子がそれを「温い」(ぬくい)と言ったのはよく理解できる話だった。

信雄と喜一はお金をもらって天神の縁日にでかけるが喜一はやぶれたポケットからお金を落としてしまう。罪滅ぼしに「宝物みせたる」と言われ、沢ガニに灯油をかけて燃やすという無惨な遊びを見せる。信雄は燃えるカニを追っていき、ふと船窓から中を見て、背中に鬼の刺青が入った男に抱かれているしょう子と目が合う。

泥の河は、言うなれば信雄がじぶんと相容れない世界に住む者ら(屋形船に住む喜一と銀子としょう子)との関係を清算する話だが、それらがすべて戦後風景のなかにある。信雄もその両親も貧しく倹しい暮らしをしている。それよりも底辺を覗き見た信雄が、憐憫というより激しい寂寥のようなトラウマに囚われる──という話になっていて、それが時代の哀切を浮かび上がらせる。

喜一がカニを燃やすのは信雄をもてなす手段が何もないからで、やがて喜一も童心を忘れて銀子と過酷な現実を生きることになるだろう。いずれにせよ毎夜客をとる母親のあえぎ声を聞きながら育つ環境の先にどのような修羅が待っているのか解らない。そういう悲劇を描いている。

貧しさと哀切が内外で高い評価を得た。モスクワ映画祭銀賞とアカデミー外国語映画賞ノミネート、IMdb7.9。

現代の日本映画に慣れていると哀切の深度がちがって見える。
基本的に日本映画は不幸に着目して拡大解釈してみせる。が、むりやりつくりだした不幸な状況を描こうとする。たとえばこの哀切を荻上直子とか三島有紀子とか園子温とかと比較してみることができるのか。

そのことと(当然だが)時代のちがいがある。大岡昇平の武蔵野夫人に「事故によらなければ悲劇が起らない。それが二十世紀である」という文がある。文学の偉い人たちによく取り上げられる一節だが、昔からじぶんもこの文の意味を考えることがあった。戦争がなくなってみると、わたしたちは悲劇をこしらえるしかない。それが二十世紀である。と解釈するならば、たとえば火垂るの墓と現代の不幸を比べられるか・・・というより比べるものではない。だいたい悲劇が起こらないならば起こらなくていい。悲劇がなければ悲劇を描かなくていい。

結局どうしても悲劇自慢に見えてしまう現代日本映画と哀切の深度(とでもいうべきもの)の違いを感じざるをえない。しかし悲劇をつくらなくても映画に翻案できる原作はいくらでもある。にもかかわらず、平和で安楽な暮らしを生きている人が悲劇を描いてみせるのが今の日本映画なわけである。
(おそらくそれはクリエイターが苦しい時代を生きているという自己顕示をしたいからであり、じっさいに苦しい時代を生きていないのにそれをすることで日本映画がますますいんちきくさくなっている、たとえばとちくるった新聞記者の原案した与太話が賞をそうなめするというような)

自転車泥棒のような印象の現代日本映画なんてないでしょう──という話。とはいえ木下恵介の映画レビューをしているわけではなく、これはあえて白黒でつくられた1981年の映画なわけであって。

ちなみに1956年は経済白書にて「もはや戦後ではない」という言葉が使われた年だそうで、終戦の1945年から11年目だが、晋平はシベリアに抑留されていた。シベリアからの日本兵の帰還は1947年から1956年までかかったそうだ。映画には「わいらが帰ったあの港(舞鶴)から興安丸(復員船)が中国へ出て行きよった、遺骨受け取りにな」という台詞がある。

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津次郎