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◯作品全体
まるで精巧な絵画のようだ…というすごくありきたりな感想が、見終わってまず浮かんだ。なんでそう思ったのか考えてみると、美術やカメラも一因なんだけれど、一番は物語の構成だったんじゃないかと思う。
本作は主人公・バリーの伝記的な形で物語が語られるが、必ずバリーの行く末が示される。それがバリーの行き着くところを冒頭で見せる、とかならよくあるけれど、シークエンスどころかシーンごとの物語の転換点すら事前に示されていく。端的に言ってしまうと、ほぼ常にナレーションによってネタバレをされながら物語が進んでいくのだ。それはまるで歴史的な絵画を見つつ詳細な作品解説ガイドを聞かされているようだった。大雑把な展開だけならまだしも、「なぜ登場人物がその行動をするのか」までナレーションで語ってしまう。絵画に描かれた人物の行動、そしてその背景…そういったものをガイドが端的に教えてくれてしまう。正直、逐次ネタバレされながら作品を見ているようで、少し退屈でもあり、変な感覚だった。
ではなぜそんな構成にするのかと自分なりに考えてみたのだけれど、それはきっと人物の動き、衣装、背景、小道具…そういった画面に映るすべてのものを100%感じ取ってほしかったからではないか、と思った。バリーは一体どんな行動をしてどうなってしまうのか…そういった、物語を追うことに視聴者のメモリを使わせたくなかったのではないか。緻密に描かれた18世紀の空気感と、その時代に生きる人たちを映像というキャンバスに残していることを、意識してほしかったのでは、と。
活き活きと、そして精密に描かれたこの作品から受け取ったのは、ラストカットでも語られる栄枯盛衰の無情さだった。絵画であれ映像であれ、描かれ、記録に残された時点でそれは過去のものになる。バリーがどれだけ苦労をして貴族社会に乗り込んでも終わりは必ずあり、ブリンドン卿が復讐を果たしたとしても彼らは皆死んでしまう。ナレーションが事前に彼らの運命を語るということは、彼らはみな過去の人物であり、もう存在していないことを強調する。それを印象付けるネタバレ的構成でもあった。
ただ、もう一つ受け取ったこともある。それは、例え過去の出来事として彼らが終わりを迎えていたとしても、キャンバスに残った作品は残り続け、輝きを放っていることだ。作品のバックボーンを知らずとも、その作品の美しさを知ることはできる。少しメタ的だけれど、本作の特殊な構成と、精巧な映像を通して「過去を描いたものであっても、その作品からは輝きや心動かすものはあり続けること」を再認識させられた。
◯カメラワークとか
・シュバリエの家に行く場面や、ブリンドン卿を他人の前で殴る場面など…物語が動く場面で使われる一点透視法の画面。他のキューブリック作品ではその作品特有の情景を描くことに使われていた気がするけれど、本作では歴史上の出来事を絵画に残すかのような使われ方だった。カメラが固定されているのもあって、絵画的に感じる。
・光の演出。自然光を使うことで画面の陰影がすごく自然に映る。序盤、クイン大尉を招いた会食のシーンではバリーとグローガン大尉だけに光が映される。やわからな自然光と横に並んだ人物たちの配置が本当に絵画のようだった。レディー・リンドンと結婚するあたりはろうそくの光が印象的。初めてであったシーンではろうそくのなめ構図で二人を映してた。そのあとバリーが色欲に走るシーンでは股間にろうそくが重なってたり(これはちょっと露骨だったけど…)
・ズームイン、アウトの演出がなんか好きだなあ。本作だと浮気をするバリーを見つけるカットでズームイン、ブリンドン卿を殴ってしまって孤立するバリーのカットでズームアウトがある。画面の変化があからさまに強力だし、視線を作者に持っていかれてしまうから全肯定はできないんだけど、ちょっと滑稽さが入ってて、愛らしさを感じてしまう。
◯その他
・伝記映画は好きなんだけど、成り上がりの作品には必ず驕りで挫折する展開があるのがあんまり好きじゃない。その映し方とか演出が面白ければ良いんだけれど、大体どの作品もその予感をわかりやすく置いてるから、崖から落ちることがわかってるのにそのまま歩いているような、落ちるまでの時間が苦痛に感じることがある。本作もその部分があんまり好きじゃない。「これからバリーは落ちていきます」って何回も言われてしまうのが。物語を追わなくていいのはそうなんだけど、苦痛の中で映像を見ていたくはないかな。
・冒頭、2カット目からトランプ遊びがでてくる。ラストではバリーと母がトランプ遊びをしていて、作品のいたるところにでてくる。栄枯盛衰の無情さに人生は暇つぶし、みたいなところを掛けているのかも。