◯作品全体
北野作品を一作目『その男、凶暴につき』から公開順に見てきたが、北野武にとって『dolls』から本作までの期間は、ハッキリ言って迷走の期間だったと思う。乾いた暴力が評価され、それを得意分野としていたが、北野武のやりたい表現は異なる。暴力という直接的な表現ではなく、タップダンスや劇中劇といた、「芸能」を用いた表現だ。暴力と芸術、求められているものと求めているもの…これには大きな隔たりがある。
その迷走と北野武の戸惑いから生まれたものが、本作だろう。
だから、本作には「迷い」の部分が大きい。中盤まで様々なジャンルに挑みつつ、失敗を繰り返す「北野武監督」が描かれる。失敗の理由はさまざまだが、共通してあるものとすると「作りたくないものを作っている」という北野武の感情だろう。こうすれば自分の得意な方向へ、こうすればウケる作品に…というように、物語が進むほど、自分の作りたいものからは歪んでいく。
その北野武の迷いをドストレートに描いていることに、私は少し感動した。
うがった目線を向けるならば、「迷い」そのものさえも作品にできてしまう北野武は恵まれているともいえる。しかし「迷い」をさらけ出すことには勇気がいるはずだ。「迷っています」と逃げずに表現できるその潔さに、感動した。
ただ、中盤から始まるSFの世界の物語は、ハッキリ言ってイマイチだ。ラーメン屋で始まるプロレスとか借金の取りたてのくだりは面白かったが、ストーリーはあってないようなものだし、CGを使った謎の村の演出は古臭く、井出らっきょは終始スベっていた。他の作品にもあった8,90年代のテレビバラエティのようなセットの使い方や平面的なカメラは、それこそ北野武の得意分野なわけだけど、ビートたけしには求めているとしても、映画監督・北野武には求めていない要素だ。
ここまで考えてみて思ったことがある。『その男、凶暴につき』のころのような北野作品独特の色気というのは、北野武の技ではなく、あの時だけの、特別な色気なのかもしれない、と。若い二枚目俳優だったクリントイーストウッドが監督となり、年老いたあと別のベクトルの作品を作っているように、一抹の寂しさを感じながら、そう思った。
年老いたクリントイーストウッドに躍動感を求めることは酷なことだ。同様に、年老いた北野武に「あのときの乾いた暴力と色気」を求めるのは、もはや違うのかもしれない。
〇カメラワークとか
・「歩く」という演出。いままではそのシーンに存在感があり、次のアクションまでの導火線のようだったけれど、今回は完全な「幕間」であり、平凡な存在感が悲しい。東京を歩く北野武監督をナレーションとともに映すだけ。
・人形・北野武。「都合が悪いと人形になる」という設定で使われていたが、同じパターンのギャグになってしまっていて、作品中盤には食傷気味だった。
〇その他
・『ALWAYS 三丁目の夕日』っぽい作品はすごく良かったけどなあ。それとは違って暴力チックになってしまう、といって諦めていたけど、レトロを飾り気なく描ける人って少ないし、需要あると思うけど。
・井出らっきょつまんなかったなあ。北野軍団って北野武の被害者みたいなポジションで騒いでるから面白いのであって、個々に面白さがあるかと言われると、微妙だよなあ。