小間使の日記
劇場公開日:2022年1月22日
解説
「アンダルシアの犬」などの巨匠ルイス・ブニュエルがジャンヌ・モローを主演に迎え、1946年にジャン・ルノワール監督が映像化したことでも知られるオクターブ・ミルボーの小説を映画化。1930年代半ば、右派と左派の対立が激化するフランス。モンテイユ家の田舎屋敷に、パリからやって来た魅力的な女性セレスティーヌが小間使いとして雇われる。そこには、家の実権を握る妻と性的欲求不満を狩猟で紛らわす夫、妻の父で婦人靴を異常なほどに愛する老人、粗野な下男らが暮らしていた。ある日、近所で恐ろしい殺人事件が起こり……。モンテイユ家をフランス社会の縮図に見立てながら、ブルジョワ風刺と社会批評を込めて描く。晩年のブニュエル作品には欠かせない脚本家ジャン=クロード・カリエールが初めて参加した。
1963年製作/98分/G/フランス・イタリア合作
原題:Le journal d'une femme de chambre
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
日本初公開:1966年4月
スタッフ・キャスト
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2022年8月31日
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原作は1900年に発表された小説で
ブニュエルは1930年代中頃に設定したようで
ラストのデモは〈1934年2月6日の危機〉と呼ばれているもののよう
(スタヴィスキー事件により政府不信は最高潮!)
戦間期のフランスの田舎での人間模様が
国の縮図として冷笑的に描かれている
都会の水に洗われたセレスティーヌに
男達は欲望もあらわ
勤め先のブルジョア家の精力絶倫な入婿は欲求不満の捌け口として…
その家長はブーツに並々ならぬ思いがあるらしく
変化球のようなアプローチ(足フェチ?)
使用人のジョセフは自分の〈計画〉の一部としての彼女の利用を考える
そして隣家の退役軍人もアタックしてくる
彼は入婿(ユダヤ系)と敷地境界を巡り小競り合いを繰り返す
(好戦的、植民地支配?)
宗教家は吝嗇ブルジョア妻を救えないし
赤頭巾ちゃんみたいじゃない少女は森で襲われ
憲兵は犯人を特定できない
愛国者を自認するジョセフの残虐性を疑う
セレスティーヌは工作するが失敗する
彼女は入婿の誘惑を退け
その義父は恍惚死させ
極右の使用人を追いやり
退役軍人を支配下におき
誰が〈狼〉かと考え続ける…
ジャンヌ・モローはフランスを象徴する女優なんだな、
と、しみじみ思った
この時代背景は
世界恐慌が起こると
ドイツへのアメリカからの投資が引き上げてしまい
フランスはヒットラーに賠償金を踏み倒され
高齢のドゥメール大統領はロシア移民に暗殺された
また、先の戦争利得者等は脱税を摘発される
ブーツを抱えて倒れたおじいちゃんはこれらのイメージかな?と、思った
不況なのにヒットラー政権樹立による
大量のユダヤ人中心の難民も流入し
金融/政治/メディア各分野における
ユダヤ系の浸透(影響力)も一般大衆に発見され
その驚きと疑問が右翼メディアに煽られ
反ユダヤ主義が過熱した
愛国者で極右活動家らしいジョセフも
世論誘導に加担しシェルブール(軍港都市)に
セレスティーヌに似ていない相方(男性?)と
〈計画〉通り店を開業し繁盛させた
ブニュエルの〈黄金時代〉を上映禁止にした
警察庁長官(右寄り)は国民に人気で
その解任にデモ隊は彼の名前を連呼し抗議する
原作者は世の中に悲観的だったみたいだが
ブニュエルは総てにおいて 怒り心頭か ⚡︎
2022年7月19日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
小間使いのお仕事。
一日中、掃除(ルンバは勿論ないのだ)
そして長時間の床磨き!
洗濯(もちろん洗濯機はなく、湯を沸かして煮て洗い汚れを落とす)
炊事、繕い物、靴磨き・・・と休む間もなくこき使われる小間使い。
大旦那さま、その娘の奥さま、婿養子の若旦那さま。
たった3人家族に使用人が下男に小間使い3人と、4人も必要なのか?
とも思う。
これは「ダウントンアビー」ほどのお屋敷ではなくても、
奥さまひとりの手では、屋敷は維持できないのだろう!
小間使いや下男の食費だけでも物入り。
おまけに衣食住を世話するのだから、中産階級(これがよく分からないのだが、
地主とか親の財産を受け継ぎ、特に働かずにも生きていける階層のことなのか?)
フランスの上流階級とは『伯爵家』位の金持ちを指すのかもしれない。
1964年(フランス)原作:オクターブ・ミルボー。監督:ルイス・ブニュエル。
この映画の前に…2013年作「あるメイドの密かな欲望」を観ました。
まず驚いたのは、ラスト、小間使いのセレスティーヌの結婚相手が違っていること。
2013年版は原作と同じだそうです。
セレスティーヌ(レア・セドゥ)は、下男ジョセフを夫に選び娼館の女将の道を選択します。
対して1964年ブニュエル版ではセレスティーヌ(ジャンヌ・モロー)は、隣家の主人の元軍人の
大佐を結婚相手に選ぶのです。
私はジャンヌ・モローを物憂い闘争心を失った負け犬・・・だとは思いませんね
少なくとも、少女をレイプして腹を裂くジョセフを選んだらあまりにも、
《悪女で毒婦》
ジャンヌ・モローは夫にベッドから命令してましたからね。
凄い辣腕→成り上がり烈女ですね(笑)
今の世の中だって美人女優の結婚相手は女癖の悪い《IT経営者》と決まってるじゃないですか?
これが彼女たちの理想の結婚。
お金と地位・・・同じじゃありませんか!
レア・セドゥの演じたセレスティーヌは、政治家になる女像と
被りますね。
兎も角、野心の塊り!
レア・セドゥはなんとしても自力で自活し成り上がりたい女。
夫が残虐で政治的に反ユダヤの野蛮人でも、彼女の人間性は揺るぎません。
単なる踏み台なのですから・・・。
ジャンヌ・モローは憧れの奥様になり小間使いを顎で使う・・・
してやったりですよ。
(ジョセフの殺人を証拠を捏造してまで逮捕へと向かわせたものの、敢えなく釈放され、
自分の非力を悟ったし、疲れましたねー)
しばし羽根を休めるセレスティーヌさん。
対するレア・セドゥは女実業家にでもなれるでしょうか?
道を切り開いていく情熱とバイタリティーを感じます。
時代設定は1930年。
女に多くの選択肢はありません。
ブルジュアの奥さまで何が悪い?
万々歳ではありませんか?
(小賢しい小間使いから→良家の奥さま→更にステップ・ジャンプして、
→音楽家も作家も画家にだって努力次第ではなれるかもしれませんよ)
2022年3月29日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館
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大昔に見たはずだけど、ほとんど覚えていないので、再見することに。
終始不穏な雰囲気の漂っている映画で、足フェチの大旦那や性欲の塊の旦那に神経質な奥方、険悪な関係の隣人とそろえば、早晩何か起きないはずはないと思える。主人公の小間使の行動原理も不可解で、何を考えているのかよくわからず、なおさら見ている者を不安にさせる。案の定中盤にとある惨事が起きるのだが、ただそのことで物語のトーンが大きく変転するわけでもない(のがブニュエル流か)。
ヒエラルキーの逆転というテーマは、ハロルド・ピンターの「召使」ほかいくつか例があるが、この映画の場合はもっと重層的だ。共同脚本のジャン=クロード・カリエールとはこの作品が初のタッグらしいが、後年の作と違って原作物なので、どこまで彼らの企図したものなのかは不明だ。
30代のジャンヌ・モローは最初からひと癖ありそうな顔つきなので、もっと清楚な女優の方が意外性があって良かったのでは?
「天使のように大胆に、悪魔のように細心に」とは、黒澤明さんが数十年前のウイスキーかなにかのCMで話していた言葉だ。
この作品には、そんな要素が詰め込まれているように思う。
社会情勢がどうあれ、直接的に火の粉が降りかからない限り、人間の愚かさに変わりがないということを示唆した作品だ。
この作品の後に制作されたカトリーヌ・ドヌーヴの主演作が日本では知られているが、僕は、どちらかというと、この「小間使の日記」のセレスティーン演じるジャンヌ・モローが好きだ。
1930年代のヨーロッパは、第一次大戦の余波で引き続き混乱していたことに加え、アメリカ発の世界恐慌による大不況に苦しみ、そして、第二次世界大戦の足音がヒタヒタと聞こえている状況だった。
そんななか、フランスの田舎で危機感もなく暮らすブルジョワジー達と、同様に凡庸なままの使用人達。
それを逆手に、周りを注意深く観察することによって、漁夫の利を得ようとし、更に陰で支配しようとする小間使の女・セレスティーン。
一義的には、こうしたブルジョワジーや周りにたむろする連中を皮肉っている作品なのだとは思うが、改めて観てみると、現代の僕たちの社会を批判しているようにも思えて、世の中はさほど変化していないのだなと苦笑してしまう。
世界が活力を失うと、人々は凡庸となり、小間使のような輩が隙をぬって影響力を拡大していく……のは、なんか、やっぱり似ている気がする。