劇場公開日 2025年9月19日

ミシェル・ルグラン 世界を変えた映画音楽家 : 映画評論・批評

2025年9月16日更新

2025年9月19日よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほかにてロードショー

偉大な音楽家が人生の集大成で見せる“ある行動”が心を震わせる

音楽を愛する人の人生は輝いている。美を追究し続ける人はどこまでも純粋だ。生きる糧とは何か。それは音楽に触発され創造し続けることだ。歌い、弾き、吹き、五線譜に筆を走らせ、耳を澄ませ、指揮棒を振り、音楽で観客に語りかける。時には周りを罵倒することも。生粋の音楽家ミシェル・ルグランにとって、生きることは“奏で”続けることだった。

本編には、決して見逃せない象徴的なエピソードが満載されている。楽譜を置き換えるかのように家族を捨てた音楽家である父との別れ。11歳で入学した音楽学校で厳しい師から演奏の基礎を学び、同時にジャズに魅せられた。音楽界の父親代わりとなる人々と出会い、彼の名を冠した楽団を率いて伴奏と編曲者として多忙を極めた頃、このままじゃ死んでしまうとアレンジを辞める。

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1956年、ジーン・ケリーに招かれ初渡米、錚々たる映画人たちを紹介された。帰国後はヌーヴェルバーグの波に乗り映画の世界へ。アニエス・ヴァルダジャン=リュック・ゴダールらの作品に続き、盟友ジャック・ドゥミとの傑出したコラボ作「シェルブールの雨傘」(1964)を引っ提げてのワールドツアーへ。人生の転機をその才能で切り拓いていった。

再びハリウッドに赴くと時間を掛けて取り組んだノーマン・ジュイソン監督作「華麗なる賭け」(1968)の主題歌「風のささやき」でアカデミー賞®を初受賞。だが、式典に彼の姿はなかった。ロサンゼルスに居住した約3年間の狂騒によって鬱を発症し療養のために帰国。40歳を目前に「どう生きるべきか」を深慮する。

海を臨めるノルマンディのル・アーブルに引っ越し創作活動を再開。体調は万全、慌てることなく、フランス映画からハリウッド作品まで、自分のペースで作曲に向き合った。1970年の「ロバと王女」公開後、ロバート・マリガン監督作「おもいでの夏(1971)」で2度目のアカデミー賞®を受賞。その後、ハリウッドに招かれても決して長居はしなかったルグランは、1983年にはバーブラ・ストライサンドとのコラボ作「愛のイェントル」(1983)で3度目のオスカー®に輝いた。

「ミシェル・ルグランとの出会いは人生を変える経験だった」―デヴィド・ヘルツォーク・デシテス監督は「風のささやき」を聴いて育ち、10歳の時に母と観た「愛のイェントル」に衝撃を受けた。2010年にマエストロの映画を撮りたいと思い立ち、7年後に本人との面接が叶う。「自分自身についてどんな映画を撮りたいか」と尋ねると、ルグランは「一緒に来なさい。アイデアはたくさんある」と応じ、初めての話し合いは5時間に及んだ。

ミシェル・ルグラン 世界を変えた映画音楽家」(2024)は、満員の観客が見つめる前で指揮棒を振るルグランに始まり、人生の集大成ともいえる2018年12月に行われたフィルハーモニー・ド・パリで指揮した最後の公演で結ばれる。自らを生まれながらの作曲家と呼び、常に仕事を抱えていた彼は、寝室にピアノと編集機を置いていた。誰よりも自分に厳しく周りへのダメ出しも容赦なかった。「愛と哀しみのボレロ」(1981)で、フランシス・レイと分業で音楽を依頼したクロード・ルルーシュは、罵られた後のルグランの謝罪にはいつも魅せられたという。

32時間及ぶフッテージから厳選した映像とルグランが担当した映画やアニメ、舞台などの素材を交えて、本人と二人三脚で製作を進めた監督は「ミシェル・ルグランの遺書を撮影している」と感じた。その言葉を裏付けるように、最後の公演をやり遂げた瞬間に、偉大な音楽家が人生の集大成で見せる“ある行動”が心を震わせる。マエストロの遺書となった本編には私たちの人生を豊かに輝かせる深い味わいがある。

髙橋直樹

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