映画「F1(R) エフワン」 : 映画評論・批評
2025年6月24日更新
2025年6月27日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー
ファンタジー性とグラフィックに酔う“F1プロパガンダ”
かつてはNASCARやインディカーが全米のモータースポーツ人気を占めていたが、2020年代に入ってF1(フォーミュラ1)が急速に支持率を上げてきた。この映画の登場は、まさにそれを象徴するものだ。プロットも少年漫画タッチにして王道。サーキットを渡り歩く型破りな天才レーシングドライバーが、腕前を買われて約30年ぶりにF1 GP(グランプリ)の舞台に帰還する。そして身売りに瀕した弱小チームに、勝利と栄光をもたらそうとするのだ。
この設定に往年のアニメファンなら「まんま『アローエンブレム グランプリの鷹』(1977~78)じゃねぇか!」と反応するだろう。が、挫折したルーキーがオッサンになって奇跡の復活を遂げるところ、本作はロバート・レッドフォード主演の野球ファンタジー「ナチュラル」(1984)の復唱ともいえる。過去「レッドフォードの再来」とうたわれたブラッド・ピットが主演だけに、リンクづけにはささやかな根拠があるが、最も「ナチュラル」の引用が説得力を放つのは、そのファンタジー性においてだ。なんせ近年の米カーレース映画は「ラッシュ プライドと友情」(2013)「フォードvsフェラーリ」(2019)、そして「グランツーリスモ」(2023)と実話ベースの秀作が多く、アイルトン・セナやアラン・プロストと競い合っていた老兵が、現在のF1 GPで台風の目になるなんて、そのフィクション感は横暴なまでに際立つ。

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しかし、こうしたファンタジーを正当化させるのは、実際のF1世界をそのまま器として活かすスタイルだ。つまり現役の一流ドライバーやエンジニア・クルーが本人役で登場し、それらがリアリティを徹底的に補強する。タイトルに商標(®)がついていることからも分かるとおり、これは企業グループとしてのF1(FIA)が全面協力した、PRでありプロパガンダな作品だ。F1のエンターテインメント性を高めてカーレース市場でのシェアを拡げた、そんな経営戦略の一環として存在する。
だがプロパガンダで何が悪い。オフィシャリティを味方につけた創造性とレーシング描写は、開巻からオーディエンスを圧倒させる。たとえモータースポーツの有識者にはツッコミどころの嵐だろうと、一般の観客を魅了するに充分な世界構築を果たしているのだ。特にクライマックスを飾る、アブダビGPにおける最終ステージがもたらす高揚感は、ハンス・ジマーの爆上げ系アンダースコアとのシナジー効果で、スクリーン前の我々を興奮と開放の地平へと伴走させていく。
監督のジョセフ・コシンスキーはデビュー作「トロン:レガシー」(2010)から前作「トップガン マーヴェリック」(2022)に至るまで、均整のとれた映像美をシグネチャーアイコンとしてきたが、今回もそれはフル機能している。その昔、グラフィックデザイナーのソール・バスが「グラン・プリ」(1967)のタイトルデザインを手がけてF1をスタイリッシュに磨き上げたのと同様、このジャンルをハイセンスなビジュアル表現でアップデートさせている。矛盾を承知で言うならば、その様相はじつにクールで、それでいてたまらなく熱い。
(尾﨑一男)