シビル・ウォー アメリカ最後の日 : 映画評論・批評
2024年10月1日更新
2024年10月4日よりTOHOシネマズ日比谷ほかにてロードショー
そこにいるかのような臨場感に包まれ、情動が音を立てて揺さぶられる
南北戦争(1861~1865年)ならいざ知らず、現代のアメリカで「内戦」なんて起こり得るのか。これまで「エクス・マキナ」、「MEN 同じ顔の男たち」といった異色の問題作を放ってきた英国人監督アレックス・ガーランドは今回、大統領選の真っ只中という最高のタイミングで、「アメリカの内戦」を題材とする衝撃的な映画を作り上げた。スタジオA24が同社史上最高額の予算で制作した「シビル・ウォー アメリカ最後の日」だ。
アメリカはベトナム戦争以降も湾岸戦争、イラク戦争をはじめ戦争をやり続けてきた国だ。現役軍人130万人、州兵43万人を抱え、退役軍人の数は1950万人に達する。市民が武装する権利を保障した憲法修正2条の下、3.4億の人口を凌駕する3.9億丁もの銃が国中に溢れている。トランプ政権下で社会の分断は亀裂と化し、2021年には連邦議事堂襲撃事件が発生、今年7月には返り咲きを狙うトランプ候補の暗殺未遂事件が起きた。「移民がペットを食べている」という虚偽が堂々と大統領選のディベートで語られるのが今のアメリカだ。その現実は我々の思う以上に深刻かもしれない。国家の秩序が崩壊し、内戦が勃発するという近未来のディストピアを想定することは、あながち荒唐無稽とも言えない。
ローマ時代以来、「内戦」は「内なる同胞市民との戦い」であるがゆえに「シビル・ウォー」と呼ばれてきた。外敵との戦いである「戦争」とは異なるのだ。なぜ同じ国の市民同士が殺し合うのか。この映画は、カルフォルニア州とテキサス州が反旗を翻して西部勢力軍を組織、政府軍との間で内戦に突入したという設定を取るが、政治的背景についての説明はない。観る者はいきなりそうした世界観に放り込まれ、ドキュメンタリーを観るような徹底したリアリズムの世界にいざなわれる。
そこで突きつけられるのが、ジェシー・プレモンス演じる武装兵が言い放つ「お前はどの種類のアメリカ人だ」というセリフだ。同じアメリカ人なのに、同じ市民なのに、「種類」が問われる。国民国家の統一性、市民の同一性という「物語」が完全に終焉すると、敵と味方に分かれて市民が殺し合う悲惨が生まれ得ることが端的に示されている。
映画の主人公はジャーナリスト。独裁的権力にしがみつく大統領に単独インタビューを行うべく、ニューヨークからホワイトハウスを目指す。中心となるのは2人の女性カメラマンで、伝説的戦場カメラマン「リー」を「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のキルステン・ダンストが演じる。「プライベート・ウォー」でロザムンド・パイクが見せたのと同じ「修羅場をくぐり抜けてきた者特有の冷めた眼」がうまく表現されている。リーの下で成長を見せる戦場カメラマン志望の駆け出し「ジェシー」を熱演するのは、「エイリアン ロムルス」のケイリー・スピーニーだ。
一行が目の当たりにする凄まじい破壊の跡、武装集団によるリンチと虐殺には、思わず息を呑む。アメリカ人同士が殺し合う凄惨な内戦の現実だ。同時に、ジャーナリストの息遣い、スクープを狙う嗅覚、戦場取材の高揚と恐怖が描かれる中でリアルな人間性が丁寧に表現される。リーはSONYのデジタル一眼レフにライカレンズを装着し、ジェシーはNIKONのフィルムカメラFE2を使う。そうした小道具のアナログ感、劇中に挿入される写真、伏せた目の前にある植物の美しい描写、音が消失する無音描写が、戦場の狂気の中で人間性を浮かび上がらせ、凄惨な現場の中で得も言われぬ静謐を生み出す。その緩急はかつてないほどの没入感を観ている者にもたらす。
戦場をロードムービーで描く映画は多々あるが、これほどイマーシブな映像を最初から最後まで高密度に維持する映画は珍しい。そこにいるかのような臨場感に包まれ、情動が音を立てて揺さぶられる。その余韻が静まる頃、シビル・ウォーを避けるためには何が必要か、何をするべきかが静かに問われていることに気付くのだ。
(北島純)